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「桐島聡」特定が報じられた日に届いた東アジア反日武装戦線支援通信「追悼・桐島聡さん」の中身

篠田博之月刊『創』編集長
桐島聡指名手配写真(筆者撮影)

支援連ニュース「追悼・桐島聡さん」

 2024年2月27日、警視庁公安部が桐島と名乗った男を容疑者本人と特定、殺人未遂や爆発物取締罰則違反の容疑で書類送検したことが報じられた。彼が実際にどの事件にどう関わっていたかなど詳細については明らかにならないままとなった。

 そして偶然にも同日、「東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃とたたかう支援連絡会議」による24日付の「支援連ニュース」が届いた。私はかなり以前、彼らの集会に取材を兼ねて参加し、それ以来、このニュースを購読している。

 その「支援連ニュース」には何と表紙に「追悼・桐島聡さん」と書かれ、最初のページに「桐島さん、長い間全国に素敵な笑顔をありがとう」と題する一文が掲載されている。「全国に素敵な笑顔」というのはもちろん指名手配写真のことを指しているのだが、うーん、これはユーモアなのか。

支援連ニュース「追悼・桐島聡さん」(筆者撮影)
支援連ニュース「追悼・桐島聡さん」(筆者撮影)

 本文にはこう書かれている。

《桐島さんの逃亡・潜伏生活なるものは、決してお気楽かつ余裕のあるものではなかったはずだ。しかし勝手に想像するに、それでも彼はその日常のなかで愉しみを見出し、悲喜こもごもの暮らしを営んできたのではないだろうか。》

 支援グループとも桐島容疑者本人は没交渉だったようで、こうも書かれている。

《桐島さんは遠い存在だったのだ。マスコミ報道にも出ているが、彼は逃亡直後から支援とは関わらないようにしていたので、支援連の間では死亡説もささやかれていたし「どこかで元気にしていればいいや。とにかく捕まらないように」という感じであったのだ。彼の潜伏の妨げになるのかもしれないのだから、支援連として彼に接触しようなんて、するわけがない。》

半世紀を経て反転した「反日」という言葉

 連続企業爆破事件で指名手配されていた「桐島聡」を名乗る男性が警視庁に身柄を確保されたというニュースが流れたのは1月26日だった。驚いた人も多かったろう。東アジア反日武装戦線というグループが起こした一連の企業爆破事件から既に49年。半世紀近くも前に指名手配された人物が名乗り出たというのだから歴史を感じさせる出来事だ。

 東アジア反日武装戦線といえば、最近では2021年に公開された『狼をさがして』という映画で話題になった。韓国人の映画監督が同グループの関係者を訪ね歩くというドキュメンタリー映画だった。「狼」とは、東アジア反日武装戦線の3つのグループ、狼、大地の牙、さそりのうちの「狼」をイメージしたものだ。

 映画は公開されたものの、文字通り「反日」映画だとして右翼の妨害を受け、一部の映画館では上映中止になった。その経緯は月刊『創』(つくる)2021年7月号などで取り上げている。

 その上映をめぐる記者会見で配給会社「太秦」(うずまさ)の小林三四郎社長が、「半世紀を経て『反日』という言葉が反転してしまった」と語っていたのが印象的だった。

1970年代といえば、学生運動が下火になり、一部が過激化して武装闘争を唱えた時代とされているが、「反日」というのは、その当時は、日本の東アジア諸国への侵略や戦争責任を問い詰める言葉だった。左翼側が掲げた言葉だったのだ。しかし、今やそれは歴史修正主義を経て、右翼が攻撃対象に貼るレッテルになってしまった。多くの映画や表現までもがいまや「反日」と決めつけられて攻撃・妨害されるようになった。

『創』に「言論の覚悟」という長期連載を執筆し、2023年に死亡した鈴木邦男さんが新右翼と呼ばれた活動をするきっかけになったのも東アジア反日武装戦線だった(鈴木さんについては死去の後に追悼として刊行した『言論の覚悟 最終章』参照)。

 鈴木さんのデビュー作ともいえる『腹腹時計と〈狼〉』はまさに企業爆破事件が続いていた1975年に出版されたものだ。『腹腹時計』は東アジア反日武装戦線が教典としていたとされる冊子で、その中で彼らは日常においては一般市民として質素な生活を送ることを推奨していた。しかも三菱重工爆破事件を起こしたメンバーの1人は逮捕された時に持っていた青酸カリで服毒自殺した。思想のために命をかけるというその姿勢に、若き右翼活動家だった鈴木さんは共鳴し、当時は「極左と極右の接近」などと言われたのだった。

「桐島聴取」のそばに三菱爆破の写真を置くミスリード

 それから半世紀たって、「反日」という言葉が反転したように、60年代後半から70年代にかけての左翼運動のイメージも遠ざかった。現在と比べれば、当時は学生運動を支持する空気が社会の側にもう少しあったように思う。今回の「桐島」騒動でのマスコミ報道では、当時の東アジア反日武装戦線をめぐる時代背景についての説明はほとんどなされず、テロリストあるいは爆弾犯として語られるばかりだった。70年代には、『創』で現在連載手記を書いている吉野雅邦さんらの連合赤軍事件などがあり、今となっては市民の支持を受けない暴力闘争は批判の対象になっている。ただ、それにしても今回の「桐島」報道は、表層的な印象が否めないのも事実だ

 前述した映画『狼をさがして』にも出演している評論家の太田昌国さんは『週刊金曜日』2月16日号に「『東アジア反日武装戦線』とは何だったのか?」と題する寄稿をし、その中でこう書いている。

「今回の報道を見聞きしても、取材者や論評者がいかに表層的な地点で作業を行なっているかが露呈するばかりだ。一例を挙げると、『桐島聴取』のそばに三菱爆破の惨状の写真を置くこと自体がミスリードだ。彼が『反日』に加わったのは三菱事件の後だからだ」

 桐島容疑者が所属していたグループは「さそり」で、三菱重工爆破事件を起こしたのは「狼」のメンバーだ。週刊誌報道などによれば、彼は高校時代まで政治活動に関わっておらず、人の後についていくタイプだったので、72年に明治学院大学に入学した後に活動家に引っ張られたのではないかという。72年といえば学生運動も退潮局面に入っており、桐島容疑者には逮捕歴はなく、指名手配された時点でまだ21歳だったという。

歴史的スクープで知られる産経新聞の取り組み

 連続企業爆破事件は1974年8月30日の三菱重工爆破事件を皮切りに75年には2月28日に間組本社など、4月19日には韓国産業経済研究所などと続いた。5月19日には警視庁公安部が東アジア反日武装戦線メンバーのうち8人を一斉逮捕するのだが、それを当時スクープしたのが産経新聞だ。当日の朝刊で「爆破犯 数人に逮捕状」という特ダネを放ったのだった。早朝の配達で捜査員が踏み込む前に反日武装戦線メンバーに知られないよう、産経新聞は潜伏先の周辺地域や他のメディアへの配達を遅らせる「遅配」を行ったと言われる。

 今回の報道でも、産経新聞は紙面を見ていても力が入っていることが窺えた。49年前のその歴史的スクープが念頭にあって力が入ったのではないか。そう感じて社会部の森本充デスクに話を聞いた。

「1月26日の夕方、桐島聡と見られる男が警視庁に身柄を確保されたという第一報が流れた時には、確かに編集局のテンションが上がりましたね。桐島といえば指名手配写真で誰もが目にしていた男ですし、連続企業爆破事件をめぐっては、弊社はかつて新聞協会賞を受賞していますので、これは熱を入れて取材しないといけないなという雰囲気は、編集局だけでなく営業・販売を含めてありました。紙面でも大きく扱おうという心理は働いたと思います。

 私自身は1975年11月生まれですから、その年の5月にあったスクープを肌感覚で知っているわけではないのですが、産経新聞では年1回、OB会が開かれて大先輩に話を聞く機会があり、そのスクープについては代々語り継がれています。私は去年の10月まで警視庁クラブのキャップをしていましたが、OBが時々激励に訪れることもあり、当時の話を聞いたりすることもありました。

 そういう伝統もありますので、今回は、社会部記者はもちろん、デジタルや遊軍記者も含めて一斉に取材にあたり、手厚い報道ができたと思っています。

 男が名乗り出た時点でポイントは3点あったと思うのですが、1つはなぜこの男が今名乗り出たのか、2つ目はなぜ49年間も逃げおおせたのか、3点目は当時、事件にどう関与したのかということですね。この男の49年間の足取りについてはまさに総力戦で追いまして、地域に溶け込んでいた様子とか、行きつけのスナックの話とか情報を集めました」

 具体的にスクープを放ったのは、1月30日と31日の一面の報道だった。

「1月30日の一面に載せた、死亡した桐島を名乗る男が『後悔している』と供述していたというのは、担当が苦労して取ってきた情報です。また31日の一面トップを飾った『韓産研爆破関与否定』という記事も、この男は韓国産業経済研究所の爆破事件で指名手配されていたのですが、それを否認したというだけでなく、否定して間組事件を示唆しているという、一歩踏み込んだ報道でした。これらは特ダネで、他社が追随したものですが、そのほかに元捜査員のコメントとか周辺の住民の話とか、かなり取材して手厚い報道ができたと思っています」(森本デスク)

元『週刊文春』編集長が書いた「文春砲」の手本とは

 1975年のスクープを放った当時の産経新聞・福井惇社会部長(故人)について、2月7日、木俣正剛・元『週刊文春』編集長がダイヤモンドオンラインに「『文春砲』の手本となった産経記者の執念」という記事を書いた。木俣さんは文藝春秋出版局長の時に福井さんの『狼・さそり・大地の牙』という著書の出版担当だった。そして付き合いの中で今の「文春砲」につながる取材の仕方を教えてもらったという。

https://diamond.jp/articles/-/338515?page=4

桐島聡・連続企業爆破事件を猛追、「文春砲」の手本となった産経記者の執念

 桐島聡容疑者はこの49年間をどんな思いで過ごしてきたのか。そうした詳細が明らかになることなく終わってしまうのは残念だ。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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