Yahoo!ニュース

娘を理不尽に殺された親の19年続く喪失感…奈良女児殺人事件遺族の手記と死刑囚の手紙

篠田博之月刊『創』編集長
死刑確定時の小林薫死刑囚からの手紙(筆者撮影)

娘を殺害された父親の19年目のコメント

 11月17日は2004年のその日、小学生の女児が突如誘拐され無残に殺害された奈良女児殺人事件の起きた日だ。今年2023年のその日、殺害された有山楓さんの父親がコメントを発表、マスコミに報じられた。それを読んで、2005年11月に犯人の小林薫元死刑囚(既に執行)と面会して以来、約1年間、彼と関わり、毎月のように奈良に通った日々を思い出した。

 もう19年前の事件だから覚えていない人が多いだろう。小児性愛と認定された彼のこの事件を機に、日本が性犯罪の再発防止プログラムを本格導入したことや、小林元死刑囚が裁判中から死んでしまいたいと言い、死刑判決を聞いて法廷でガッツポーズしたと報じられ、死刑制度のあり方にも大きな問題を投げかけた。

楓ちゃんが通った小学校で開かれた集会が報道された(関西テレビNEWSの映像を筆者撮影)
楓ちゃんが通った小学校で開かれた集会が報道された(関西テレビNEWSの映像を筆者撮影)

 まず、今回報道された遺族の父親のコメントを紹介しよう。

■楓が被害に遭った事件から19年が経ちました。もう19年も過ぎたという気持ちとまだという気持ちです。

 あの日楓が歩いて帰っていた道を下の娘と今年初めて歩きました。楓の手掛かりを探しながら歩いた道はとても長く感じました。早く自転車に乗りたかっただろうし、早く母親の待つ学校へ向かいたかったはずです。楓を守ってやれなかった後悔だけは今も変わることもなく、時間だけは過ぎていきます。

 楓は7年という短い時間をどんな思いで生きてきたのだろうか、毎日を楽しく過ごしたのだろうか、やりたいことやできることはちゃんとできていたのか楓に聞くことはできません。それでも今もたくさんの方が楓を覚えていてくれることは私にとって楓が7年間をしっかり生き抜いてきた証だと思います。みんなの思いの中で楓はちゃんと26歳へ成長しています。そして今もみんなを見守るために楓は飛び回っているのだと思います。

 悲しみや苦しみは時間が解決はしてくれません。このような思いを誰もしないためにも、子供たちが被害に遭わない社会を心から願います。(有山茂樹)

 突然、娘が連れ去られ、殺害されたという理不尽な状況、その喪失感は19年経っても変わっていないというわけだ。死刑を宣告された側は執行によって全て無になってしまうのだが、遺族の悲しみは生涯続く。小林元死刑囚は2005年9月に奈良地裁で死刑判決を受け、弁護人が行った控訴を取り下げ、死刑を確定してしまうのだが、私は控訴取り下げをやめるよう何度も説得した。しかし結局、彼は自ら死刑台へのボタンを押してしまい、私は驚愕して奈良へ駆けつけたのだが、その日の早朝に彼は奈良から大阪拘置所へ移送され、私は二度と会えなかった。

 その後、彼は自らの控訴取り下げ手続きの無効申し立てを行い、再審請求を起こすという、私が現在関わっている相模原障害者殺傷事件の植松聖死刑囚と同じ道をたどり、当時、そのことも話題になった。

 この事件は、死刑制度のあり方にとても大きな問題を投げかけたのだが、それがきちんと議論されることもないまま、事件は風化していってしまった。

小林薫元死刑囚と関わった約1年間

 私が小林元死刑囚に最初に会ったのは2005年11月、彼は情状鑑定を受けるため、奈良から東京拘置所に移送されており、手紙を書いたところ返事が届き、面会もできたのだった。まだ日本ではなじみの薄い小児性愛者の犯行として、彼は週刊誌などでモンスターのように報じられていたのだが、実際はどうなのかと思い、私は直接会いに行ったのだった。

 実際に会ってみると、当時世間で報じられていたイメージと全く異なる印象で、その後、彼の死刑が確定するまで約1年間、私は深く関わることになった。彼は私が編集する月刊『創』(つくる)で毎月、獄中手記を連載。再開した裁判についての思いなどを書きつづった。

 その間、私は彼の生い立ちなども調べ、小学生の時に愛する母親を亡くし、父親からの暴力に苦しんだという家庭環境など、事件の背景を知ることになった。世間からも疎外され続け、死んでしまいたいと思っていた時に事件を起こし、死を決意する。検察側の主張を全面的に認め、法廷では事実関係を争わなかった。

 しかし、この裁判は極めて異例な展開をたどった。小林元死刑囚は、『創』の手記の中で、実は裁判で認められつつある事実関係は全く事実と異なっていると驚愕の真相を告白する。検察の見立てでは、彼はわいせつ行為をするために、その日たまたま通りかかった楓ちゃんを拉致して自宅へ連れ込み、そのまま帰宅させては犯行が発覚するとして、風呂の中に頭を押し付けて殺害したことになっていた。

 しかし、小林本人は、そうではなくわいせつ行為をしようと睡眠薬を飲ませて風呂に入れたが、自分が浴室へ行ったら亡くなっていたというのだった。つまり元々は彼に殺意はなかったということで、それを立証すれば死刑は回避できたのだった。しかし、彼はもうこの世に未練はない、死んでしまいたいと、法廷ではいっさい反論はしなかった。だが真実は記録に残したいと『創』に、自ら「真実」とタイトルを付けた手記を公表したのだった。

 裁判ではその『創』の手記と、検察側の見立てとどちらが真実なのかをめぐって何度も審理が行われた。小林元死刑囚は法廷では、それについては言いたくないと発言。結局、検察側の見立てが認められて死刑判決がくだされたのだった。彼は死刑判決を望んでいたので、法廷で事実関係を争って死刑が回避されてしまうことを恐れたのだった。

 当時、公開した手記のほかにも、小林元死刑囚からは、いろいろな相談を受け、私は法廷でも『創』で書いたことを主張すべきだとアドバイスしたのだが、彼は結局、そうしなかった。そのほかにも私は彼に様々なアドバイスを行った。強く勧めたのは、法廷で遺族に直接謝罪すべきだということだった。

 両親とも法廷は毎回傍聴していたから、そこで直接謝罪するのは可能だった。裁判対策といったことでなく、私は第三者として、遺族に謝るべきだと強く主張した。

 彼も同意してはいたのだが、結局その機会は訪れなかった。最終意見陳述がその機会だったのだが、小林元死刑囚が法廷でも死刑を望むと主張していたため、死刑反対の立場をとっていた弁護人と相いれず、彼は意見陳述の機会を与えられなかったのだった。

法廷での遺族両親の証言に涙が止まらなかった

 そうした経緯については拙著『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま文庫)に詳述しているので興味のある方はご覧いただきたい。被告人が事実を争わず、死刑を望むと主張する裁判を傍聴しながら、私は一貫して、死刑判決は本当に彼を処罰したことになるのかという疑問を感じ続けた。取材の過程で小林元死刑囚の家族にも接触し、彼の不幸な生い立ちを知ることで、もし違った家庭に生まれていれば彼はあの犯罪を犯さないですんだろうとも思った。今の死刑制度は本当に凶悪犯罪の抑止力になっているのか。その疑問は終始、私の脳裏を離れなかった。

 当初は無期懲役ではないかと言われたこの裁判で結局死刑判決が出された要因には、被告人が積極的に死刑を望んだことと、もうひとつ被害者遺族が小林被告の死刑を強く望んだという事情があった。その遺族の証言がなされたのは2006年5月25日の公判だった。

 今回、楓ちゃんの父親が公開したコメントに通じるその証言をここで紹介しよう。

 その日は、法廷全体が嗚咽に包まれるという異様な光景となった。娘を殺害された両親が心情を切々と訴えたのを聞きながら、私も傍聴席で涙が止まらなかった。ハンカチで何度も拭ったが、涙があふれて止めることができなかった。

 まず証言台に立ったのは父親だった。娘を誘拐され、再会した時には遺体となっていたその時のことを、こう証言した。

《楓と再会したのは奈良西署でした。白い布がめくられた瞬間、楓だとすぐにわかりました。でも、その表情にいつもの笑顔はありませんでした。もう頭の中が真っ白になり、何を思ったか、何を考えていたのかほとんど覚えていません。ただ悲しく、抜け殻のようでした。もう人生が終わってしまったかのような気がしました。

 命より大切な楓が被害にあったとは信じたくありませんでした。家の中はとても静かでした。家にいる間、楓が被害にあったなんて信じられず、今にも「ただいま、遅くなってごめんなさい」と帰ってくるのではないかと思えました。

 楓は本当に心の優しい子でした。私たちが悩んだり、疲れた表情をしていると、すごく心配そうな顔をして「大丈夫?」と言ってくれました。なので、通夜と告別式は妻と二人で笑って送り出してあげようと決めました。とてもつらいことでしたが、いつも笑顔の楓でしたので、私たちにしてやれる最後の愛情だと言い聞かせて、葬儀に臨みました。

 自分がなぜこの場にいるのかもわからず、ただ挨拶をこなしているだけでした。7歳になったばかりの楓がなぜこのような目に会わなければいけないのでしょうか? 10日前に下の娘と一緒に七五三で妻の子どもの時に着ていた着物を着て絵馬に「看護師になる」と書いていたのに、5日前には家族そろって誕生日ケーキを囲み、笑顔でローソクを消していたのに、目の前の楓はもう二度と動くことはありません。悔しくて悔しくて仕方ありませんでした。特に告別式の時、1年前のダンスの発表会の映像が流れました。もう大好きなダンスもできない、楓はもう何もできないんだと思うと、今まで堪えていた涙があふれ出て、これからどうやって過ごしていけばいいんだろう、生きていけばいいのだろう……楓のいない生活なんて想像もできませんでした。

 12月25日クリスマスの日、私たちは事件後初めて楓が発見された平群(へぐり)の現場へ行きました。そこは本当に何もない静かな場所で、こんな寂しい場所に一人でいたのかと思うと涙が溢れてきそうになりました。本当にたくさんの花やお菓子、ジュースが供えられており、この事件の重さを感じ、犯人への怒りが込み上げてきました。私たちは、楓のノートに書いた手紙とクリスマスプレゼントをその場所に置き、手を合わせました。本当であればこの日は楓の喜んだ笑顔を見れる日でした。事件の前日にも、お風呂でサンタさんにお願いするプレゼントの話をしていました。私は「いい子にしていたらサンタさんが持ってきてくれるよ」と言うと、「ちゃんといい子にしてるんで、サンタさんお願いします」と言っていました。そんな楓の願いを叶えてやることもできず、こんな目にあわせた犯人への怒りがさらに込み上げてきました。

 小林が逮捕されるまでの1カ月半は本当に長い日々でした。何カ月も何年も会っていない、喋っていないようでした。周りの時間はものすごく時間が経った感じがするのに対し、私たちの気持ちの中の時間は止まったままと、何かおかしな感覚でした。

 1月16日、実況見分が行われた時、警察の車に乗り、初めて小林を目にすることになりました。その時小林の姿だけでなく、少しだけ開いた窓から声も聞こえたのですが、楓の命を奪った怒り以上に、だるそうに歩き答えている姿に怒りが込み上げ、車を飛び出し殴りかかりたい気持ちでした。あの時の淡々と説明している姿は全く反省や後悔をしているようには見えませんでした。人間のすることとは思えない残虐なことをしておいて、なぜ平然としていられるのか私には全く理解できませんでした。普通人間であれば、あんなに平然としていられるはずがありません。そのような奴に楓を殺されたと思うと、小林の顔を見るのもつらくなりました。

 楓の声を聞かなくなって1年半が過ぎました。この1年半で、私たちの心はボロボロになってしまいました。楓に会いたい、楓と喋りたい……家にいても、仕事をしていても1日たりとも頭から離れることはありません。家から出ると必ず楓が連れ去られた現場が目に入ります。そのたびに、事件のことが頭を駆けめぐります。そのたびに息苦しくなってしまいます。こんなに苦しい思いをするのなら、全く知らない土地へ引っ越したいと何度思ったかわかりません。

 でも、楓の家はここなのです。私たちが引っ越せば、楓の帰ってくる家がなくなってしまいます。楓にこれ以上寂しい思いをさせるわけにはいきません。私も妻も感情を押し殺して生活していけばいいだけです。しかし、下の娘はそういうわけにはいきません。下の娘はあの時はまだ2歳でした。まだ小さいからわからないと思うかも知れません。でも私たち以上につらい思いをしているのです。すごく仲のよかった楓ちゃんが突然いなくなったのです。今でも楓との楽しかった時のことを私たちに話してきてくれます。

 でも、まだ死というものを理解できません。今年の2月、下の娘が私たちに「楓ちゃん早く帰ってこないかなぁ」「楓ちゃんと一緒に遊びたいなぁ」「楓ちゃん、学校に行ってるの?」と突然言ってきました。何も言葉を返すことができませんでした。お菓子を買う時でも「楓ちゃんの分」と言って自分の分と一緒に買っています。こんなに小さい子にまで悲しい思いをさせた小林を決して許すことはできません。

 私たち家族は恐怖のどん底まで突き落とされ、悲しみと絶望の谷からはい上がるすべも見当らないまま今日まで過ごしてきました。今でもなぜこんなにも苦しい思いをしなければならないのかわかりません。私たちが何か悪いことでもしたのでしょうか。楓を奪われなければならないことをしたのでしょうか。

 今でも私たちと一緒に楓はいます。でも、何年経っても何十年経っても楓は7歳のままなのです。時間は止まったままなのです。この悲しみ、苦しみから少しでも逃れたい。その思いから毎日感情を押し殺し、毎日を過ごすようにしています。そうしないと、この寂しさに押しつぶされてしまいそうで怖いのです。こんなつらい思いがいつまで続くのかと思うと、本当に気が狂ってしまいそうになります。

 私たちの願いはただひとつ、楓を返してほしい、それだけです。家族4人で平凡に笑って楽しく暮らしたい。うれしかったこと、楽しかったこと、悲しかったことなど話を聞いてあげたい。あの笑顔、あのにぎやか過ぎるほどの笑い声の楓を返してほしい。それ以外に望みはありません。無理なことは頭ではわかっています。それでも、もう一度家族4人で暮らしたいのです。楓がいて、4人そろってこそ、家族なのです。

 私たちにこんな思いをさせた小林を許すことはできません。楓の命を簡単に奪いながら平然と生きている小林を決して許すことはできません。私たちは小林に今でも「極刑以上の刑」を与えてやりたい思いでいます。当然そのような刑がないのは知っています。それでも「極刑以上の刑」を与えてほしい。そして、楓が受けた苦しみ以上のつらさを味わせてやりたい。小林をどれだけ殴っても私たちの気持ちが晴れることはありません。何度殺しても私たちの悲しみの気持ちは変わることはないのかもしれません。これ以上楓が悲しむような犯罪を起こさないためにも、小林には「極刑以上の刑」を与えてほしいと思っています。》

 今読み返しても悲しみに包まれる証言だ。この後、母親の証言が行われたのだが、長くなるので割愛しよう。

遺族両親の証言を聞いて小林元死刑囚はどう感じたのか

 私は公判の後、午後一番で小林薫元被告に接見した。

「両親の話を聞いてどう思った?」

 最初にそう尋ねた。

 彼は「当然の気持ちだろうなと思いました」と答えた。

 その後6月6日に書かれた小林薫からの手紙には、少女の両親の訴えに対するこんな感想が記されていた。

《私は、5月25日の公判で行なわれた遺族の意見陳述を聞き、二人の娘に対する愛情の深さを知りました。と同時に、私が育った環境との違いをも感じました。》

 被害者遺族の証言に涙も見せなかった小林薫元被告を「冷血」と表現した報道もあった。この手紙でわかったのだが、彼は私たちとは全く別の思いで両親の証言を聞いていたのだった。つまり娘を亡くして悲しむ親を見て、その愛情を確認し、自分との違いに思いをはせたというのだった。

 小林元死刑囚は、法廷で母親のことを証言しながら涙を流したこともあった。その彼が、なぜあれほど悲しい被害者遺族の話を聞いて涙ひとつも見せないのか。その後、私は手紙でも面会の時にも、彼に、遺族に直接謝罪することを強く勧めた。あの両親の話を直接聞いた者であれば、それが人間として当然のことではないかと思ったからだ。

 彼は当時も「死をもって償う」と口にしていたのだが、私にはそんなことよりも法廷で遺族に向かって彼がどういう態度をとるかということの方が、ずっと人間として大事なことだと思えた。現場をたまたま通りかかったというだけで、愛する娘が誘拐され殺された。その不条理に納得することなど、両親は一生できないだろう。彼らの心の中に今も開いたままの空虚な思いを変えることなどできないとしても、その空洞を少しだけでも埋めることができるとしたら、それをやれるのは小林薫本人ではないかと思えた。子どもの頃から疎外され、否定され続けてきたという彼にとっても、それは人間として大きな意味のあることではないかと思えた。

 結局、法廷での遺族への謝罪も果たされず、2審でそれを行う可能性も控訴取り下げで閉ざしたまま、小林薫元死刑囚の死刑判決は確定してしまった。ただ、控訴取り下げを決意するまでの間、彼の心情は激しく揺れ動いた。

 この記事の冒頭に掲げたのは、彼が控訴取り下げを私に報告した最後の手紙だ。

《判決日から色々考えた末、10月10日に控訴取り下げの手続きを行ないましたので、お知らせします。「創」編集長の篠田さんをはじめとする方々には、新聞・雑誌等のコピーを送ってもらったりと、何かとお世話になりました。

 取り下げた最大の理由は、被害者の楓ちゃんに対する償いは、やはり死をもってでしか償えないと今も考えているからです。》

 そういう書き出しの手紙は最後、こう結ばれていた。

《それでは約一年の間、私に発言の場を与えて下さり、有りがとうございました。》

 悲しい結末だった。自ら望む死刑判決を与えたことで、彼は本当に裁かれたことになったのか。今回、19年経っても悲しみは変わらないという楓ちゃんの父親の手記を読んで、改めて私はいろいろなことを考えさせられた。この社会はこういう悲しい事件を本当に教訓化できているのか。それはあの凄惨な相模原障害者殺傷事件の裁判を傍聴していて感じたのと同じ疑問だった。

 楓ちゃんには改めて、冥福を祈りたいと思う。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

篠田博之の最近の記事