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講談社元社員の「妻殺害」裁判はくつがえるのか!?最高裁で極めて異例の弁論が開かれた

篠田博之月刊『創』編集長
最高裁判所(10月27日、筆者撮影)

39席の傍聴券を求め160人以上が並んだ

 10月27日昼過ぎ、最高裁南門の前には160人を超える列ができた。その日、午後1時半開廷の弁論を傍聴希望する人たちだった。傍聴席は39なので倍率は4倍以上。この裁判に注目している人が予想以上に多かったと言える。

 最高裁がこんなふうに傍聴人を入れて弁論を開くのは、死刑事件の場合と、最高裁が1・2審と異なる判断をくだす場合に限られる。講談社元社員・朴鐘顕(パク・チョンヒョン)さんを被告とする「妻殺害」裁判は後者だった。朴さんが妻を殺害したとされた1・2審の判決がひっくり返るかもしれないという展開自体が異例のことで、報道陣も注目した。

 弁論が行われたのは第一小法廷で、その日は弁護側・検察側双方が約30分ずつ弁論を行った。被告本人は出廷していない。傍聴席の最前列には、朴被告の母親と長女も座った。中学3年生の長女は、父親の裁判はもとより裁判傍聴自体が初めての体験だった。被告の母親、つまり祖母に「どうする?」と聞かれた時、「行く」と即答したという。

 朴鐘顕さんには4人の子どもがいる。まだ小さかった子どもたちには、事件についての詳しい説明もしていないし、逮捕当時のニュースも見せていなかった。しかし、中学3年生の長女はもういろいろなことがわかる年齢なので、その日傍聴することになったのだった。

自殺か他殺かをめぐる争い

 朴鐘顕さんの妻・佳菜子さんが亡くなったのは2016年8月9日未明だった。彼も母親も、彼女の死を自殺と受け止めたが、捜査側は、自殺を装った他殺ではないかと疑い、朴鐘顕さんを逮捕し、起訴した。そして1・2審は有罪、つまり裁判所も彼が妻を殺害したと認定したのだった。

 2019年に始まった1審は懲役11年の有罪判決で、被告側はすぐに控訴した。2021年1月に出た2審判決は控訴棄却。このままでは最高裁で有罪判決が確定してしまう可能性が高まった。そうした状況に、朴さんの大学時代の友人たちが「朴鐘顕くんを支援する会」を立ち上げ、ホームページで裁判への疑問を訴えていった。私がこの事件に関わることになったのは、その訴えを知ったことがきっかけだった。

 2016年8月9日未明、いったい何があったのか、経緯を説明しよう。朴鐘顕さんは当時、講談社のコミック誌の編集者だった。編集作業を深夜まで行い、明け方に帰宅するのが通常だったが、その日は午前1時過ぎに、いつもより早く帰宅した。夜7時過ぎに電話で話した時の妻の様子がいつもと違っていたからだ。その前には「夕飯作れる気がしない」といった、追い詰められた様子を示すメールも届いていた。

 被告の説明によると、帰宅後、2階のリビングに行くと、妻の様子が変で、右手に包丁を持っており、「お前が死ぬか私が死ぬか選んで」と言われたという。夫を「お前」と呼ぶこと自体普段あり得ないので、異様さに驚き、「話をしよう」と言って、妻の手から包丁を取り除こうとし、2人はもみ合いになった。

 その後、妻は一緒に1階の寝室に寝ていた生後10カ月の二男と一緒に死ぬと言い出し、階段を降りて行った。被告はその後を追って寝室へ降り、妻を突き飛ばし、倒れた彼女に覆いかぶさった。うつぶせに押さえられた妻は、頭をそらすようにして夫に頭突きをして抵抗した。そのもみ合いの最中、妻の頭を押さえようとして被告は、右手を彼女の首の下にねじ込んだ。

 寝室でのもみ合いの末に、被告は、妻が落ち着いてきたので体を離した。でもその時、妻は首を圧迫されて失禁しており、検察の「他殺説」では、現場の尿班などをもとに、ここで被告が妻を殺害したことになっている。ただ被告の証言ではそうではなく、妻は再び起きてきたというから、一時的に気絶したような状態だったということなのか。

なぜ妻を殺害したと疑われたのか

 被告の話によると、夫婦がもみ合っている間、二男は激しく泣き出し、彼はその子を抱いて、2階へ避難した。妻が再び包丁を手にしたのが見えたからだ。そして子ども部屋に入って、ドアを背にして座り込み、妻が入ってこられないようにした。  

 ドアは外側に包丁を突き当てた跡が12カ所残っていたというから、被告の証言を裏付けるように思えるのだが、裁判所は警察が押収したドアを証拠採用したものの、それを無視しているという。

はずされたままの子ども部屋のドア(筆者撮影)
はずされたままの子ども部屋のドア(筆者撮影)

 その後、彼の耳に、階段の方から「ドドドン」という音が聞こえ、しばらくしてドアの向こうが静かになった。子ども部屋から出て寝室へ行こうとすると、妻は、階段の手すりに巻きつけたジャケットを使って、自殺していたという。

 以上は朴鐘顕さんの主張だ。検察側の他殺説では、彼は寝室で妻を殺害し、それを隠ぺいするために、妻を階段の上へ引き上げ、突き落としたということになっている。裁判は、佳菜子さんが自殺したのか、それとも夫に殺害されたのか、それをめぐって争われている。

妻が亡くなっていた階段と手すり(筆者撮影)
妻が亡くなっていた階段と手すり(筆者撮影)

 そもそもなぜ被告が疑われたかというと、警察が現場を確認した時に、彼が「妻は階段から落ちたことにしてほしい」と言ったからだという。それに警察官が不審の念を抱いたらしい。彼は、小さな子どもたちに衝撃を与えないようにとの思いからそうしたというのだが、警察は違う印象を抱いたらしい。妻が亡くなった後、彼が現場の血痕を拭いたりしたことも、証拠隠滅ととられたらしい。

 警察は、3カ月以上経った2017年1月10日、朴鐘顕さんの逮捕に踏み切った。事件は大きく報道され、人々の関心を呼んだ。

 この事件が難しいのは、確かな物証がなく、現場の状況や法医学鑑定から、その夜起きたことを推察するしかないことだ。

最高裁法廷で弁護人と検察官が弁論

 10月27日の最高裁に話を戻そう。弁護人の山本衛弁護人は、冒頭こう述べた。

「まず最初に述べておきたいのは、他殺をうかがわせる証拠は何一つない、ということです」

 そしてこうも語った。

「原判決は、自殺だという見方を否定し、自殺説の否定という消去法の認定を行っているのですが、自殺でないことがまちがいないかどうかは証拠によって証明されなければなりません。現実はむしろ、証拠は違った事実を証明しているのではないでしょうか。

 動かしがたい事実は、第1に佳菜子さんの額に傷があったこと、2つ目に寝室にあざやかな血痕がなかったことです。素直に考えれば、寝室での出来事の後、佳菜子さんが動いて別の場所で傷を負ったことになります。つまり、寝室では佳菜子さんは生きていたことになります」

 朴被告の無実を示す証拠は数々あると弁護人は主張し、例えば妻の顎の下に擦過傷があったことをあげた。「これは引きずってはできないもので、自殺しようとして作られたとしか考えられません」。そして弁論の最後を「朴さんを4人の子どものところに早く返してください」と締めくくった。

 一方、検察官はこう述べた。

「佳菜子さんは寝室で頸椎圧迫され、階段の上に引き上げられ突き落とされました。被告人は窒息させた後、救命措置を一切せず証拠隠滅を図ったのです」

 そして「それを示す客観証拠としては、寝室の尿班と唾液交じりの血痕が挙げられます」として、尿班などについて詳細に述べた。殺害動機は、前日の夕方、鐘顕さんが電話で話した際に妻に実母を侮辱され怒りを制御できない状態になったことで、「自殺ストーリーなど成り立つ余地はありません」。弁護側が主張した、佳菜子さんが産後うつで精神的に追い詰められていたという自殺の動機説明も、自殺するほどではなくその兆候も見られなかったと退けた(これについては、傍聴していた被告の母親が、女性の問題を全く理解していないと憤慨していたが)。さらに現場での被告の殺意と証拠隠滅の意図は強固だったとまで語ったのだった。

本当にこの階段でそんなことができたのか

 双方の主張を聞いていると、それぞれ鑑定についての専門的見解も含まれるし、初めて傍聴した人は、どちらが正しいのか判断に迷ったかもしれない。先に弁護人が弁論を行い、次に検察官がそれを否定するという法廷の流れだったため、検察側の主張の方が印象に残ってしまうのではないか、と後で自宅に電話した時、鐘顕さんの母親は心配していた。

 決定的証拠がないだけに判断は難しいのだが、この1年ほどの間、資料を読み、関係者の話を聞いてきて思うのは、冷静になって全体構造を考えると検察側の推論にいろいろ無理があることだ。そもそも朴夫妻には4人の子どもがおり、末の子は生後10カ月だった。その状態で妻がいなくなれば家庭が破綻する恐れがあるわけで、妻殺害の動機が見当たらない。

 それ以上に解せないのは、妻の体を鐘顕さんが階段の上まで引き上げ転落させたというストーリーだ。その階段のある自宅に私は何度も足を運んでいるが、やや狭くて勾配も緩やかでなく、手すりがないと不安を感じるような階段を、大人の女性を持ち上げて落とすというのが現実的にありえるのかということだ。

 上に掲げた階段の写真をもう一度見てほしい。被告が妻の自殺を装うために、この狭い階段を、妻を持ち上げて上までのぼって突き落としたというのが検察のストーリーだが、どう考えても現実離れしているというしかない。

 鐘顕さんの主張が正しいとすれば、妻の自殺を捜査側が殺人事件に仕立て上げてしまったことになる。被告だけでなく、子どもや母親を含めた家族全員の人生を破壊することだから、そのストーリーが正しいとするには相当の証拠があることが前提とされなければならない。実際にはそれが揃っているとは言い難いのが現実で、「疑わしきは被告人の利益に」という原則が無視されている気がしてならないのだ。

 そう遠くない時期に最高裁の決定は出されるはずだ。異例の展開をたどりつつあるこの裁判にぜひ多くの人が注目してほしい。

父親の帰りを待つジグソーパズル

 最後に、ここに掲げた写真は朴鐘顕さんの自宅2階の子ども部屋だ。ドアははずされて証拠として押収されたままだが、左に見えるジグソーパズルは、現在中学3年生の長女が組み立てたものだ。

2階の子ども部屋に飾られた長女のジグソーパズル(筆者撮影)
2階の子ども部屋に飾られた長女のジグソーパズル(筆者撮影)

 1審で父親が無罪となるのを信じて、帰ってきた時に見せようとしたものだという。しかし、その後1審2審とも有罪判決となってしまったのだった。

 このパズルに描かれたのは大ヒットマンガ「七つの大罪」だ。長女がなぜそれを選んだかというと、父が講談社のコミック編集者として担当した作品だからだという。長女の、そこに込められた思いはかなえられるのだろうか。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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