ジャーナリスト松田賢弥さんを偲ぶ会に何と菅前総理が参加

 2022年4月28日の夜、昨年10月に亡くなったジャーナリスト松田賢弥さんを偲ぶ会が都内で開かれた。コロナ禍でこういう会も長らく開かれていなかったのだが、講談社、文藝春秋、小学館など多くの編集者やジャーナリストが集まった。発起人は『週刊現代』元編集長の元木昌彦さんだ。

 会が始まってすぐ、その後に避けられない用事があるのでと最初にあいさつしたのは『文藝春秋』編集長の新谷学さんだった。2012年に新谷さんが『週刊文春』編集長に就任して間もなく、同誌6月21日号に松田さんの「小沢一郎妻からの『離縁状』」というスクープが掲載され、その号は完売した(同じ号にAKB48のスキャンダルが掲載されていた影響もあったが)。編集長就任後、今後の方向性をどうしたらよいか思案していた時期の最初のスクープだったので、「きょうは亡くなった松田さんにお礼を言いたいと思って来ました」というのが新谷さんのスピーチだった。

 そしてそれに続いて壇上に上がったのは、何と菅義偉前総理だった。松田さんは2016年に上梓した菅さんについての著書があるのだが、菅さんが総理になった2020年、それを改題して講談社文庫から新たに出版した。『したたか 総理大臣・菅義偉の野望と人生』である。講談社+α文庫の『影の権力者 眞内閣官房長官菅義偉』という本のタイトルを変え、装丁を変えただけだったが、菅総理誕生の後というタイミングのせいでこれが何と10万部というベストセラーになった。

 偲ぶ会を行うにあたって元木さんは小沢一郎さんと菅さんに招待状を出したのだが、そこに連絡先として書いておいた携帯に、ある日突然、「菅義偉ですが…」という電話が入り、この日参加するということを告げられたのだという。

出席者のあいさつで菅さんの参加についてこんな応酬が…

 菅前総理本人がわざわざ足を運んであいさつしたのには驚いた人も多かったろう。松田さんには小沢一郎さんも含めて政治家について書いたものは多いのだが、基本的に批判的なスタンスだ。菅さんは学術会議任命拒否事件で知られるように、狭量の政治家というイメージだから、批判的なスタンスのジャーナリストでも亡くなった時にはその死を悼むという、そんな懐が深い人とは誰も思わなかったからだ。

 菅さんは挨拶が終わるとそそくさと会場を後にしたのだが、その後、出席者の間で、ちょっとした応酬があった。すぐ後に挨拶に立ったジャーナリストの森功さんは、小沢一郎さんの裁判ではいつも法廷前で松田さんと顔を合わせていたという話をした。松田さんを足を使って泥臭い取材をする昔気質のジャーナリストだと思い出を語ったのだった。

 そしてその話の後、その日に菅さんが訪れたことに絡めて、松田さんの前述の本についてこう語ったのだ。「あの本は菅さんに対して少し甘い。松田さんが政治家について書いた本の中では一番、甘いんじゃないかな」と。

 偲ぶ会に菅さんが出席したことについての森さんなりの解釈だったのだろう。

偲ぶ会であいさつする平沢勝栄さん(筆者撮影)
偲ぶ会であいさつする平沢勝栄さん(筆者撮影)

 話はここで終わらない。その何人か後、同じく会に出席していた自民党の平沢勝栄さんが挨拶に立ち、自分もジャーナリストに本で書かれるような政治家にならないといけないという話をした。そしてこう語ったのだった。

「きょう私は菅さんという人を見直しました。さきほど松田さんの本が菅さんをあまり批判してないからという話が出ましたが、そんなことはないですよ。だってこの本の表紙を見て下さい(と言って祭壇に飾ってあった本を取り上げる)。この表紙に使っている菅さんの写真がひどい顔をしてるでしょう。普通はわざわざこんな写真を使わないですよ。この写真を表紙に使ったことが象徴的ですよ」

 念のため表紙を掲げておこう。

ベストセラーになった松田さんの本の表紙の写真(筆者撮影)
ベストセラーになった松田さんの本の表紙の写真(筆者撮影)

 確かに菅さんの人相は良くないが、まあ、でも一般的に持たれている菅さんのイメージを象徴した写真だと編集部は判断したのだろう。

 ちなみにこの講談社文庫を出版した時、松田さんは既に脳梗塞を患って病床にあったという。出版にあたって書かれた「はじめに」は松田さんでなく編集部の署名で、松田さんが書いた「あとがき」は2015年の日付が入っている。

 二度にわたる脳梗塞で病床では言葉も不自由だったようで、勝田さんはそのまま帰らぬ人となってしまったのだった。こんなふうに偲ぶ会が開かれ、そこで自著をめぐってそういうやりとりがなされたことも知る由もないだろう。

講談社の契約記者として政治家を追及したが…

 松田賢弥さんについてもう少し書いておこう。彼は元々「新文化」という出版業界紙の記者を務めており、そこを辞めてから講談社の仕事を始めるのだが、『創』にはその講談社の前にも原稿を書いており、古くからの知り合いだ。それまで政治ものは全く書いていなかったから、大転身といえた。そしてその転機を作ったのが元木さんだった。

 元木さんが昨年、現代書館から出版した『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』という著書の中で、松田さんとの思い出について、1つの章をさいてつづっている。最初の出会いはこうだ。

祭壇には元気だった頃の松田さんの遺影が(筆者撮影)
祭壇には元気だった頃の松田さんの遺影が(筆者撮影)

《その男は月刊現代編集部にノソッと入ってきて、ボソッといった。

「元木さんいますか」

 それが松田賢弥との出会いだった。先輩からの紹介だった。「記者をやりたい奴がいる。会って、使えなかったら断ってくれ」。業界誌をいくつか渡ってきたらしい。年は30代半ば。

 「あんた永田町は詳しいか?」と聞くと、まだ行ったことがないという。その時は、松田と組んで小沢一郎の連続追及キャンペーンをやることになるとは、思いもしなかった。》

 元木さんはその後、『フライデー』や『週刊現代』の編集長を歴任するのだが、『フライデー』の編集長になった時、松田さんに「専属でやらないか」と声をかけた。そして同誌で「今週の小沢一郎」という見開き連載を始めたのだった。カメラマンと組んで、松田さんは四六時中、小沢さんの動きを追いかけることになる。それが結実したのが前述した「小沢一郎妻からの『離縁状』」だった。

 小沢一郎さんと出身地が同じだったこともあって、松田さんは地元の小沢さんの支援者を1軒1軒訪ね歩き、和子夫人が支援者に送った「離縁状」を入手したのだった。小沢さんに隠し子がいるといった『週刊現代』で報じていたスキャンダルも、その「離縁状」によって裏付けられたことになった。

 元木さんの二人三脚で小沢一郎追及を続けてきた成果が、どうして『週刊現代』でなく『週刊文春』だったのかというのも、当時、業界では話題になった。松田さんはずっと『週刊現代』の名刺を持って仕事をしてきたのだが、その時期、講談社とギクシャクがあったようで、『週刊文春』など他誌にも記事を書くようになったのだが、そこでそのスクープが出たのだった。皮肉と言うか意味深だ。

 ただ『週刊現代』や元木さんにつながる人脈が太いパイプになっていたことは、松田さんの入院費を捻出するために、講談社の有志でカンパが集められたことでもわかる。その偲ぶ会でも、そういうエピソードがいろいろ披露された。

 偲ぶ会には松田さんの甥も参加していたのだが、足を使って飛び回り、よく酒も飲んだという昔気質のジャーナリストだった松田さんは、家族や親せきにはひんしゅくを買っていたらしい。そして「きょうこの会で叔父についてそうそうたる人たちが語った話を聞いて、イメージが大きく変わりました。他の親戚にもきょうの話を伝えます」と語っていた。

 元木さんは「松田賢弥さんを偲ぶ会」を企画して知り合いに声をかけ、司会も務めたのだが、最後のあいさつで、感極まって言葉につまっていたのが印象的だった。講談社はいまやコミック部門が経営の主流を占め、ノンフィクションについては、『月刊現代』もその後継誌『g2』も休刊させてしまった。その夜の「偲ぶ会」に集まったのは、そのノンフィクション系の現役やOBで、松田さんを偲び語り合うという会に、いろいろな思いが去来しただろうことは想像に難くない。