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確定からまもなく1年、相模原障害者殺傷事件・植松聖死刑囚から最近届いた手紙

篠田博之月刊『創』編集長
植松聖死刑囚から3月3日付で届いた手紙

植松死刑囚をめぐる幾つかの気になる事柄

 東京拘置所にいる相模原障害者殺傷事件・植松聖死刑囚から3月3日に手紙が届いた。昨年3月末に控訴を取り下げ、死刑が確定してからまもなく1年になる。もう彼からは何通も手紙をもらっているのだが、今回のはやや特別だった。

 このところ気になる情報を幾つか耳にしていたからだ。

 まずひとつは刑確定から1年で執行された池田小事件の宅間守元死刑囚のケースを引き合いに、最速だと確定1年くらいで死刑執行があるのではないか、という見立てだ。確かに、自ら控訴を取り下げて死刑を確定させた点は同じだから、植松死刑囚の執行も、他のケースに比べて執行が早いのは確かだ。ただ昨年来の刑事施設におけるコロナ禍による混乱を考えると、早期執行は考えにくいというのが私の見方だ。

 ただ、そこへ少し気になる情報ももたらされた。障害のある娘さんを育てており、相模原事件について多くのコメントをしてきた最首(さいしゅ)悟さんからの2月に届いたメールだ。

「今月12日発送の返信32が受信人不在で戻ってきました。東京拘置所宛では初めてです。死刑囚の不在について、なにかおわかりでしたらお教えくださいませんか」

 最首さんは、植松死刑囚に手紙を出すという形で事件についての考えをまとめようとしており、接見禁止で本人には渡らないかもしれないと思いながら手紙を書き続けてきた。

 実際、それらの手紙はほぼ100%、本人には渡っていないはずだ。接見禁止の獄中者に手紙が届いた場合、拘置所はそれを領置しておいて接見禁止が解かれた時に本人に渡す。死刑囚の場合は執行された後、遺品として身元引受人に渡すか、あるいは引受人の意向によって廃棄する。

 では受取人不在で戻ってきたというのはどういうことが考えられるのか。刑務所に服役している人なら、他の刑務所に移ったケースだろうが、植松死刑囚の場合は、刑場のある東京拘置所から他へ移るのは考えにくい。あり得るとしたら、医療刑務所かもしれない。

 だから私は最首さんのメールを見て、もしかして…と気になった。植松死刑囚は、刑が確定する頃には妄想が昂じており、面会に来る人ごとに、「まもなく首都圏は壊滅するから地方へ避難したほうがよい」と強く勧めていた。そのXデーは彼によると2020年6月だった。

 ご存知の通り、昨年6月を過ぎても首都圏が崩壊した事実はない。ただそれに代わって、その後、コロナ感染が拡大したから、植松死刑囚は、首都圏崩壊に代わってそれが起きたと説明するかもしれない。

ほとんど誰にも会えない環境がもたらす影響

 私は植松死刑囚と3年近く接見してきて、彼がほとんど誰とも会わない日々を送ることが増えるにつれて、弱気になったり、多少精神的に不安定になる様子を見てきた。そして、それが死刑確定でほとんど誰にも会えないような状態に至って亢進するのではないかと思ってきた。だからもし医療病院へ移送されたりすることがあるとしたら、深刻だと考えた。実際、死刑が確定して精神的変調をきたす死刑囚は、冤罪の袴田事件の袴田巌さん始め少なくない。

 ただ今回、植松死刑囚から手紙が届いて、それらが杞憂だったことがわかった。

 接見禁止とは面会も手紙のやりとりもできない状態で、死刑確定者はその状態に置かれ、社会から隔絶される。それなのになぜ私に手紙が届いたかというと、接見禁止にも幾つか例外的措置があるのだ。例えば死刑確定者にも現金差し入れは認められており、それを受け取ったという返信だけは、裁判所の証人のもとに手紙を出すことが許可される。だから私は、その例外的措置を本人の安否確認に使う。現金を差し入れて返事が来ることで、死刑囚がそこにいることを確認するのだ。

 いつ頃からどういう判断でそういう特例がなされているのかよくわからない。和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚が、死刑確定者への接見交通権制限は憲法違反だとして何回も大阪拘置所を訴えた経緯があって、時期的にはその頃からこの措置が知られるようになったような気がする。

 基本的には接見禁止の例外措置だから、その手紙にはお礼を伝えるという用件以外のことを書いてはいけないと注意され、時には一部が黒塗りになる。今回の植松死刑囚からの手紙もそうだった。

 差し入れへの定例的なお礼文句の後に黒塗りされた跡がある。透かして見たが、サインペンのようなもので消した上から、読めないようにボールペンで下の文字を潰すという念の入れようだ。植松死刑囚については、東京拘置所はかなり厳密に接見禁止の処遇を励行している。

 差し入れといった方法で安否確認をするだけでなく、かつて私は連続幼女殺害事件の宮崎勤元死刑囚について行ったように、拘置所に特別許可依頼もしている(宮崎死刑囚についてはそれが一時認められた)。植松死刑囚も2人ないし3人の「知人」との接見許可願いを提出しており、そこにも私の名前は入っている。 

 そうやって植松死刑囚との接触を試みているのは、もちろん、彼への取材を継続して、あの事件についてもっと話を聞き、真相を探りたいと思うからだ。

裁判をきっかけにやまゆり園の支援の実態が…

 特に昨年1~3月の裁判以降、事件の真相解明の糸口となるような事柄が幾つか浮かび上がってきている。一番大きな問題は、植松死刑囚が、津久井やまゆり園で何を見、何を体験して、重度障害者は生きていても意味がないというような考えにとりつかれていったか、だ。これはあの事件を究明する最大のポイントと言ってもよい。

 裁判では被告を死刑にするかどうかをめぐって刑事責任能力があるかどうかだけが争点になってしまったため、事件の背景や真相解明はほとんどなされていない。ただ、裁判所は判決の中で、彼がそうなってしまった背景として、やまゆり園での体験と、彼が心酔したトランプ大統領に代表される世界的な排外主義の浸透のふたつをあげていた。それはただ指摘されただけで、深い分析はなされていないのだが、その裁判と並行して、津久井やまゆり園での障害者支援をめぐっていろいろなことが明らかになってきた。

 大きな問題は、広義の虐待とされる身体拘束などが、やまゆり園で頻繁に行われていたらしいことだ。これについては裁判と並行して、黒岩神奈川県知事の意向による検証委員会が設置され、究明が行われてきた。検証委員会も何度も壁に突き当り、順調に検証が進んできたとは言い難いものの、やまゆり園での虐待については知られるようになり、この6月、責任をとって、やまゆり園の運営に当たってきたかながわ共同会の理事長や、やまゆり園の園長らトップ3人の辞任が決まっている。

 これは指定管理問題とからまっていて背景は少し複雑なのだが、津久井やまゆり園の支援のあり方に問題があったという事実は、動かしがたいものになりつつある。裁判終結を機に新聞・テレビはこの事件への取り組みから撤退してしまったため、この大事な問題は、毎日新聞など一部を除いて、ほとんどマスコミではフォローされていない。相模原事件は、死刑確定後に一気にコロナ禍が社会を覆ったこともあって、報道も目立たなくなったし、風化が一気に加速した。

衝撃的なあの事件にこの社会はきちんと向き合えたのか

 でも本当は事件の核心部分の解明はまだなされておらず、その検証のためには、本人に取材して、彼が施設で何を見て、何を感じて、重度障害者は生きていても意味がないとまで思い込むようになったのか究明することが必要だ。事件からもう5年もたっているのに、その解明は、裁判で部分的に出てきた事実などもきっかけにして、ようやく緒についたばかりだ。

 あの二重三重に衝撃だった相模原事件が投げかけた問題に、この社会がどう向き合い、どういう教訓を引き出したのか。この2月にも、私は例えば岡山県の精神障害者へのソーシャルワーカーの方々とオンラインで結んで議論を行う機会があった。そうした機会でも改めて思うのだが、この社会はどうも、あの事件に何も対応できていないような気がしてならない。

 障害者差別の問題、措置入院のあり方、そしてそもそも植松死刑囚がなぜあのような考えに陥り、背景に、彼自身の精神的変調が関わっているのかどうか。そうした課題はまだ、ほとんど解明されずに残されたままだ。

 その解明は今後もやっていこうと思う。

 なお相模原事件についてはこれまで2冊の本を刊行している。この事件を理解するためには欠かせない本なのでぜひ未読の方はご覧いただきたい。いずれも月刊『創』編集部編だ。

『開けられたパンドラの箱 やまゆり園障害者殺傷事件』創出版 2018年刊行

『パンドラの箱は閉じられたのか 相模原障害者殺傷事件は終わっていない』創出版2020年刊行

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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