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相模原事件・植松聖死刑囚が犯行前に「最後の晩餐」をした女性とデリヘル嬢に語った言葉

篠田博之月刊『創』編集長
裁判の行われた横浜地裁(筆者撮影)

 相模原事件の裁判記録を整理しまとめる作業をこの1カ月ほどしてきた。事件の本質になかなか踏み込めなかった裁判だが、貴重な証言もたくさんあった。犯行現場の詳細もかなり明らかになった。

 2020年1月から3月の間、横浜地裁で裁判が続いている時期には新聞やテレビも連日のように裁判内容を伝えたが、何せスペースの制限もあって、ごく一部しか報道がなされていない。そうした記録は、6月刊行の『パンドラの箱は閉じられたのか』(創出版刊)に収録するが、幾つか興味深い部分を紹介しよう。

 

 植松死刑囚は2016年7月26日未明に津久井やまゆり園に侵入して障害者の殺傷を行うのだが、その前、午前零時頃までは新宿歌舞伎町で2人の女性と会っていた。一人は彼が「最後の晩餐」をするために誘った大学の後輩女性だ。その女性と焼き肉店で食事をした植松死刑囚は、別れた後、ホテルに入ってデリヘル嬢を呼んだ。この2人の女性の調書が、1月21日の第7回公判で朗読された。

「最後の晩餐」に同席した大学後輩女性の証言

 まず大学のサークルの後輩女性の調書だ。

《私は、植松聖君の後輩であり、聖君が津久井やまゆり園で大勢の人を殺したことはニュースなどを見て知っています。植松聖君が事件を起こす数時間前の平成28年(2016年)7月25日夜、私は会っていましたので、これから私が知っていることをお話しします。なお、私は植松聖君のことを普段「さと君」と呼んでいましたので、これからそう呼んでお話しします。

 私は平成22年(2010年)4月、大学に入学し、フットサルサークルに入会したのですが、その新歓コンパで同じ大学の3年生だったさと君と知り合いました。明るくて優しい先輩という印象を持っており、サークル仲間として一緒にフットサルや飲み会をし、さと君が平成24年(2012年)3月に大学を卒業して以降も、さと君ら先輩は、飲み会などに来てくれて、顔を合わせていました。

 平成28年2月17日、突然さと君から私の意見を聞きたいとして、重度障害者などに関する内容のLINEが送られてきました。「重複障害者は人間ではない。重複障害者を生かすのに莫大な費用がかかっている」などといった内容でした。私はふざけてLINEを送ってきているのかと思って、「病んでる?笑」と尋ねました。それでもさと君は「重複障害者は不必要である」と答えました。

 私はいつ頃だったか覚えていませんが、さと君から地元で障害者の介護のような仕事に転職したと聞いていました。さと君が転職したばかりの頃は、障害者や仕事内容について「みんな可愛いし、この仕事は天職かも。家族とかが会いにこないのは可哀相」などと言っていましたが、私とは仕事の話はほとんどしないので、詳しい事情はわかりませんでした。

 そのため私は2月17日に送られてきたLINEを見て、さと君が仕事のことで悩んでいることがあるのかと思い、「仕事について病んでるわけ?笑」と尋ねたところ、さと君は「死後の保険金として300万円入る」という話をしていました。

 私にとってさと君は大勢もしくは友人の中で一緒に遊ぶ相手でしたが、平成28年6月30日、2人で新宿にある高級焼き肉店に食事に行こうと誘われました。さと君から2人で食事に行こうと誘われたのは初めてでした。

これまで私はさと君から恋愛感情を寄せられていると感じたことはありませんでしたが、さと君がかしこまった言い方で「2人で食事に行こう」と誘ってきたことから、私は自意識過剰かもしれませんが、もしかしたら告白されるのかもしれないと思いました。

さと君に彼女がいるかどうかこの時点では知りませんでしたが、そもそもさと君とはサークル仲間であり、いわば兄妹のような関係だと思っていたので、仮に告白されても付き合うつもりはありませんでした。とはいえ、さとくんの食事を断る理由もなかったので、2人で食事に行くことにしました。

 私は7月後半であれば予定があいていたので、7月27日に新宿にある高級焼き肉店に行くことになりました。この際、さと君は私のことを「世界で一番美しい」と言ってきました。私はこれを聞いて、もしかしたら告白されるかもしれないと思いましたが、一方でさと君はこれまでも「可愛いね」などと軽いノリで言ってくることもあったので、冗談で言っただけか、とも思いました。》

「さと君は『時が来たんだよ!』と答えました」

《こうしてさと君と2人で食事に行くことになったのですが、7月25日になって突然、さと君から、その日の夜に行こうと言われました。LINEをみればわかる通り、さと君は7月25日午前5時21分に私に「7月27日に食事にいく予定を7月25日に変更してほしい」と言ってきました。

 私は仕事が終わった20時か21時頃であれば大丈夫でしたので、さと君にその旨を伝え、代々木駅で待ち合わせることにしました。そして平成28年7月25日20時45分頃に代々木駅に着いて、さと君に電話をすると、移動中とのことでしたが、少ししてタクシーに乗って代々木駅に来たので、私はそのタクシーに乗って、さと君と一緒に新宿区歌舞伎町にある高級焼き肉店に行きました。

 タクシーの車内での会話であったか、お店についてからの会話であったか記憶がはっきりしませんが、私がさと君に「なぜ日程を変えたの?」と尋ねたところ、さと君は「時が来たんだよ!」と答えました。私は何を言っているのか理解できませんでしたが、これまでもさと君から私の思いもよらない返答をされて笑ってしまうことがあったので、「時が来た」の意味を聞くことなく聞き流しました。

 お店に着いたのは、21時頃だったと記憶しています。私とさと君はテーブル席で対面に座りました。私はすぐにトイレのために席を外しましたが、戻ってきた時にはさと君は注文をしてくれていて、ちょうど店員さんがテーブルを離れるところでした。

 注文を終えると、私はさと君が仕事をしていないことを知っていましたので、「仕事してなかったけど、どうするの?」と尋ねました。するとさと君は「新しい法律を6個作りたい」と言いました。私はさと君に「は? 一応聞くけどなに?」と尋ねました。さと君は、1つ目として、意思疎通できない人を殺すという内容のことを言いました。

 私はさと君が意思疎通できない人を殺すと考えていることについて、恐怖を感じたので話を流そうと、「次は?」と言って話を続けるように促したところ、さと君は2つ目として「大麻を合法化する」という内容のことを言い、私が「次は?」と言うと、3つ目として「カジノを合法化する」という内容のことを言いました。私は、障害者を殺すという話からすれば穏やかになってきたと思ったので、さと君に「大麻とカジノって海外じゃ合法じゃん。カジノは日本でも合法にしようっていう動きがあるし、そのうち合法になるんじゃない? というよりも、さと君が海外に行けば?」と言いました。(略)

 この日はさと君が強い口調で言い返したりして、私の言うことに聞く耳を持たない印象を受けたので、「今日のさと君ダメだね。私からは頑張れとしか言えないよ」と言ったところ、さと君は「ありがとう。でも、俺が無職になってから冷たくなったね」などと言いました。場の雰囲気も悪くなって、私もさと君も沈黙する時間もありました。

 お店に入ってから30〜40分ぐらい経っていたと思いますが、さと君は突然「俺には彼女がいるんだけど、大事な日に○○(女性のニックネーム)を選んだ」と言いました。私はこれを聞いて、さと君には彼女がいたのだと思いましたが、大事な日というので告白されたら面倒だと思い、話を広げないように「意味わかんないんだけど」などと言って話を流しました。

 私はさと君が手紙を出して捕まったという話を聞いていたので、「手紙の件、この間知ったんだ。捕まっていたんだって? 親が悲しむからやめなよ」などと言ったところ、さと君は「確かにね」と答えました。さらに「彼女は手紙の件はどう思っているの」と尋ねたところ、さと君は「悲しんでいるよ」と答えました。

 その後、さと君は私に「今日で会うのは最後かも。しばらく会えない」と言ってきました。「なんで?」と尋ねると、さと君は「引っ越すかも」と答えました。「どこに?」と尋ねると、さと君は「まだ決めていない。パワーアップして帰ってくるよ」などと言ってきたので、私は「はいはい」と言って笑って話を流しました。》

その時に限り握手を求めてきた

《食事も終わってきた頃、さと君が「今度白金の別の焼き肉屋に行こう」などと言ったので、私も「行こう」と言って、話を合わせました。そして、さと君が「じゃあそろそろ行こっか」と言ったため、午後10時15分頃だったと思いますが、お店を出ることになりました。

 お店を出て新宿駅方向に歩いている途中、さと君は「今日は来てくれてありがとう」と言って、握手を求めてきました。いつもは「じゃーねー」と言って手を振って軽く別れていたのですが、この時は握手を求めてきたので、「やめてよ」などと言って断りました。

 でも、さと君は「いいから」と言って、しつこく握手を求めてきました。私は、2〜3回断りましたが、さと君がしつこく求めてきたのと、歌舞伎町で人がたくさんいる中で騒ぐのも嫌だったので、しかたなく握手をしました。

 歌舞伎町の交差点で信号待ちをした時に、さと君は「今度は別の焼き肉店に行こう。4〜5年たったら帰ってくるよ」などと言ってきました。私は「4〜5年たったらもっとおいしい焼き肉屋ができているよ」と言い、さと君は「そうだね、じゃあ」。そして信号が青に変わると「用事があるから」と渡ろうとしました。「野暮用?」と尋ねたら、「うん野暮用」と言いました。そこでさと君と別れて、交差点の横断歩道を渡りました。

 私は、さと君は、私と会うのが最後かもしれないと言ったり、握手を求めてきたりして、いつもと違う印象を受けたので、自殺をしたりするのではないかと怖くなり、さと君と別れて新宿駅に向かいながら、地元で仲が良いと聞いていたD君に電話をかけました。午後10時30分くらいだったと思います。D君は「あいつはやばいから関わらないほうがいいよ」などと言いました。私はその話を聞いて、さと君が平成28年2月17日に、重複障害害者は不必要であるという内容のLINEを送ってきたことを思い出し、さと君が障害者を殺すんじゃないかと思い怖くなりました。》

 当時、植松死刑囚は交際していた女性がいたのだが、「最後の晩餐」には後輩女性を誘ったのだった。元交際女性は裁判に出廷して、衝立で傍聴席から見えないようにしながらも、自らの肉声で証言を行った。その内容は以前、ヤフーニュースに書いた。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200119-00159452/

相模原事件、植松聖被告の元交際相手女性が証人として法廷で語った衝撃内容

 その元交際女性は検察側証人だったが、弁護側が反対質問で「他に被告が交際していた女性がいたことを知っていたか」と交際女性にデリカシーを欠いた質問をし、彼女が激しく動揺する場面があった。植松死刑囚は犯行直前の「最後の晩餐」で「俺には彼女がいるんだけど、大事な日に君を選んだ」と、告白をするのだが、「意味わかんないんだけど」とあしらわれてしまう。

 

 法廷で後輩女性の調書が朗読され、植松死刑囚はいささか立場をなくしたと思ったのか、その後、「その女性は以前、自宅に泊まりに来たこともあるんです」と面会に来た人や、法廷でも証言していた。

デリヘル嬢に「僕のことを忘れないで」と告げて現場へ

 さて植松死刑囚は後輩女性と別れた後、新宿歌舞伎町のホテルからデリヘル嬢を呼ぶ。そこで相手をしたデリヘル嬢の調書は、今紹介した後輩女性の調書の前に朗読された。印象に残っていたのは、植松被告の刺青だったという。

《一緒にお風呂に行ってシャワーを浴びた時に、男の両肩周りに刺青があったので「すごいね」というと、男はうれしそうに、にやっと笑いました》《男の両足の太ももにあった刺青が、ゲゲゲの鬼太郎であることに気づいたので、「何これ、鬼太郎だ」と言って笑うと、男は「そうだよ」などと言って笑いました》

 別れ際、植松被告はデリヘル嬢に「僕のことを忘れないで下さいね」と言った。7月26日、事件直前の深夜零時頃のことだ。その後、植松被告はホテルを出て、タクシーで自分の車を停めてある駐車場まで行き、そこから自分の車を運転し、犯行現場に向かったのだった。

 その数日後、デリヘル嬢はたまたまつけていたテレビで相模原事件のニュースを見て、相手をした男が植松被告だったことを知ったのだった。ニュースではもちろん、植松死刑囚は凶悪事件の容疑者として報じられ、送検時の車内でカメラのフラッシュを浴びて苦笑した映像が「不敵な笑みを浮かべた」として新聞・テレビで報道された。

 デリヘル嬢に「僕のことを忘れないで下さいね」と最後に言った植松死刑囚がどんな思いでその言葉を残したのかはよくわからないままだ。

植松死刑囚は死刑が確定した後、刑場のある東京拘置所に移送されており、この5月、私のところへ手紙が届いている。その話は下記ヤフーニュースに書いた。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20200529-00180913/

東京拘置所に移送された相模原事件・植松聖死刑囚からの手紙とやまゆり園検証委員会報告

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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