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元オウム新實智光死刑囚の妻がつづった夫の死刑執行をめぐる衝撃手記!

篠田博之月刊『創』編集長
7月の元オウム13人死刑執行は日本中に衝撃を与えた(写真は東京拘置所)(写真:ロイター/アフロ)

 2018年7月にオウムの元教祖や幹部など13人に死刑執行がなされて4カ月が経つ。日本中を覆った衝撃も既に過去の出来事として忘れられつつあるように見える。しかし、関係者にとっては、まだ死刑執行の重たい現実は鮮明に記憶されているようだ。

 11月7日発売の月刊『創』(つくる)12月号に、元オウム幹部・新實智光死刑囚の妻が詳細な手記を発表した。13人の死刑執行については直後から大報道がなされたが、こんなふうに近親者が詳細な経緯を明らかにするのは、松本智津夫元死刑囚の家族が一部、遺体の様子を公表した以外は初めてのことだ。いや、この元オウムの執行に限らず、死刑執行をめぐって近親者によって生々しい経緯が明らかになること自体、極めてまれだと言えよう。

 全文は『創』を読んでもらうことにして、ここでは生々しいその一部を紹介しよう。

 3月に夫の身柄が大阪拘置所に移送されて以降、間もなく執行かと言われる中、妻は毎日、夫のもとへ接見に通った。そして7月6日、いつものように朝8時に夫への接見申し入れを行ったにもかかわらず、その日に限って「きょうは会えません」と言われた。

 どうして会えないのかと拘置所側と応酬している、その時に、実は死刑執行がなされていたのだった。

 折しも土砂降りとなった悪天候の中、大阪拘置所を去れないでいる妻のもとへ、電話があった。そこから手記を引用しよう。

「16分も吊るされてたんだ、と思いました」

《10時過ぎに拘置所から電話があり、「本日執行を行いました」と言われた時、初めて涙が流れました。

「奥様への伝言があります。こんな時に申し訳ないですが、荷物と遺体引き取り人が奥様に指定されていますが、来られますか?」と言われ、すぐに「行きます」と言いました。

 拘置所にはマスコミがいましたが、正門で担当の方の名前を言うと迎えに来られました。

 応接室に通され、3名の職員の方とお話しました。

「夫の最期はどんな様子でしたか?」と聞くと、「立会人は別の人間だったが、非常に落ち着かれていたと聞いています」と言われました。

 渡された死亡診断書を見ると、死因の欄には「刑死」と書かれてありました。

 執行時間は8時33分、死亡確認時間は8時49分でした。

 16分も吊るされてたんだ、と思いました。

 わたしが拘置所正門に着いたころに夫は独房にお迎えが来て、夫が教誨室にいるころ、私は夫のためにトイレで髪をとかしていたようです。そして刑務官から夫に会えないと言われ執行を悟ったのは執行される2~3分前でした。

 職員によると、拘置所では夫の遺体と対面は出来ない、また葬儀会社は拘置所が紹介してくれるとのことでした。そして、葬儀会社が遺体搬送をしにくる昼過ぎまで、応接室で待ちました。

 職員の方が「大雨だしマスコミもいるので、我々が葬儀会社まで車でお送りします」と言ってくださり、昼12時過ぎに車に乗り込み送っていただきました。

 マスコミの車が数台ついてきました。》

 この後、葬儀会社で妻は夫の遺体に対面した。再び手記の一部を引用する。

《棺の小窓から覗く夫を見た時、初めて夫が亡くなったことを実感しました。

「蓋をのかしてもらえますか?」と聞くと、棺の蓋をずらして開けてくださいました。顔に触れると温かく、「まだあったかい」と泣いているわたしに、スタッフの方は会釈をし、部屋から出て行かれました。

 服の下に手を入れ、心臓の上に手を置くと、熱いままでした。本当に穏やかな顔でしたので、「やっと楽になれたんやね」と言いました。

 しばらく2人でいた後、スタッフの方に「もう大丈夫です」と伝えると、「では今からドライアイスの処置をします」と言われ、私は葬儀プランの打ち合わせに入り、火葬は月曜日の午後3時からに決めました。

 スタッフの方は「マスコミが外にいるし、ご自宅にもついてくるだろうし、近所の方のこともあるから、こちらの葬儀会場で安置されては?」と何度も言ってくれましたが、わたしは「いいえ、どうしても連れて帰りたいんです」と言いました。

 物理的に棺では自宅に入れないためストレッチャーに乗せていただき、私も搬送車に乗り、自宅まで連れて帰ることになりました。

 やはりマスコミ数台と警察車両がついてきましたが、そんなことはどうでもよかったのです。》

「首の包帯を捲ってみると、縄の跡がくっきり凹み紫色になっていた」

 妻は移送した夫の遺体を自宅に置き、4日間、一緒にいたという。

《それから夫は我が家で3泊4日することになるのですが、夫の横に布団を敷き、ずっとそばにいました。枕に血が広範囲に滲んでいましたので、首の包帯を捲ってみると、縄の跡がくっきり凹み紫色になり、首の右側から出血したようでした。

 月曜日のお昼前に葬儀会社がみえました。自宅前にはやはり警察車両がおり、葬儀会社までついてきました。葬儀会場にも警察車両がいました。

 その後、火葬場に行き、夫は荼毘に臥されました。》

 手記は、このほか、この妻がどういう経緯で夫と獄中結婚することになったのか、実の両親は猛反対したが、今回夫が死刑執行された時、あれほど反対していた母親が涙を流したことなどが綴られている。

 もちろんオウム教団が行った地下鉄サリン事件などの凶行は許されることではない。ただ元幹部らへの死刑執行についてはいろいろな意見もあるし、13人の死刑執行でオウム事件は本当に決着がついたと言えるのだろうかという意見もある。何よりも13人の大量執行というのは、極めて異例のことで、それをめぐっては今でも様々な議論がなされている。

 死刑制度の存廃論議は以前からなされてきたが、死刑執行をめぐる情報公開は極めて制限されており、これまで刑の執行がどんなふうに行われているか具体的なことがわからないままの議論が続いていきた。欧米の先進国で死刑廃止が趨勢となるなかで日本では逆に死刑執行が増えている。そうした現状について議論を深めるためにも、死刑をめぐって、もっと我々は実情を知る必要があると思う。

 手記の最後を、新實元死刑囚の妻はこう結んでいる。

《死刑制度自体にはわたしは反対の意見ですが、夫は日本では死刑に値する罪を犯しました。

 それに対して夫は、命をもって罪を償ったんだ、とわたしは信じています。》

 妻にとってもこの夫への死刑執行は衝撃的な出来事だったようで、今回、手記公表と同時に、妻は本名は伏せながらも、誌上にて顔写真を公開している。

※月刊『創』12月号の内容については下記を参照のこと。

 http://www.tsukuru.co.jp

オウムの死刑執行については『創』9月号で大きな特集を組んだが、その中から松本智津夫元死刑囚のかつての弁護人であった安田好弘弁護士の報告をヤフー雑誌に公開しているので、ぜひご覧いただきたい。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180822-00010000-tsukuru-soci

100年以上前に戻った13名のオウム大量死刑執行 安田好弘

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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