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『脳震盪から復帰した長谷部誠。ブレーメン戦で負った試練』

島崎英純スポーツライター
(写真:アフロ)

 記者の立場から、彼のプロサッカー人生の軌跡を見てきた。18歳だった少年はすでに三十路を超え、今はドイツ連邦共和国ヘッセン州に属するフランクフルト・アム・マインという街に居る。

 この街で暮らす彼を、この街のクラブで闘う彼の実像を知りたいと思った。長谷部誠の等身大の姿を、この眼で見て、この耳で聞いて、この肌で感じたいと思った。その熱に、匂いに、鼓動に、触れたいと思った。

 それが、この物語を綴ろうと思った、純粋な動機だった。

 2019年10月6日、日曜日。10月に入ってから、ドイツ・フランクフルトは分厚い雲が垂れ込める日が増えてきた。

 休日の朝に響く教会の鐘の音に、叩きつけるような雨音が混じる。ドイツでも当然雨は降るが、これほど激しい降雨は珍しい。その雨も1時間もすれば止むのが常だが、天気予報を見ると、どうやら今日は終日降り続けるらしい。

 雨が降ってもドイツ人は傘を差さない。そう聞いていたが、実際は差している人もいる。だが、サッカースタジアムへ向かう者の大半は確かに差していない。折りたたみ傘くらいならば入場口の手荷物検査でも通してくれるが、そもそもこちらのサポーターは物を持って観戦したくないらしい。女性はともかく、男性はほとんど手ぶら。彼らがスタジアムで手に持つのはビールが注がれたカップか、ソーセージを挟んだパンくらいだ。

 いつものように自宅から路面電車でアイントラハト・フランクフルトのホーム、『コメルツバンク・アレーナ』へ向かおうとしたら、線路上に工事用の重機が置かれていた。これは運休しているなと思い、急いでUバーン(地下鉄)の駅へ方向転換する。公共交通機関が運休するのは日常茶飯事だから、最近は動じなくなってきた。フランクフルトのような大都市では路面電車以外にも在来線、地下鉄、バスなど、多岐にわたる交通網が巡っているから、必ず何らかの代替手段が見つかる。『コメルツバンク・アレーナ』へ行くにも在来線のSバーン、路面電車の二択があるし、その運行本数も試合日になれば増便される。ちなみに当日のアイントラハトのゲームチケットにはフランクフルト市内交通網の無料チケットが付いている。試合開始前後の5時間が全て無料なので、観戦者はチケット販売機などに向かわず堂々と車内へ乗り込んでくる。アイントラハトはチケット1枚あたり1ユーロを市内交通機関に支払っていて、これによってクラブと交通機関が共存共栄している。

 1年半前にフランクフルトへ移住してから、これほどの雨の中で試合を観るのは初めてかもしれないと思った。日本では雨で客足が鈍ることもあるが、果たしてドイツではどうなのだろう? この日のヴェルダー・ブレーメン戦のゲームは事前にチケットがソールドアウトしていたので、この土地の人々の観戦傾向を知る良い機会になると思った。

 スタジアム周辺へ着くと雨足が強まってきたが、そこに集う人波はいつもと同じだった。夕方の5時を過ぎて気温は7度まで下がったが、サポーターの熱気は変わらない。彼らは湯気が立ち上る屋台を囲んで賑やかに談笑している。

(写真:島崎英純)
(写真:島崎英純)

 長谷部誠のフィジカルコンディションが気になっていた。彼は前節のウニオン・ベルリン戦の試合終了間際に味方GKケヴィン・トラップと衝突して脳震盪を起こしていた。試合後はチームと共にバスに乗ってフランクフルトへ戻ったが、翌日以降は大事を取って全体練習を欠席していた。

 日本サッカー協会の指針では、脳震盪を起こした選手は6つの回復ステージを経て復帰するのが望ましいとされている。そのステージは各1日を費やすのを旨とされていて、完全な休息、軽い有酸素運動、接触なし、接触ありのトレーニングと段階を経て、そのうえで復帰のプランニングを決める。アイントラハトのアディ・ヒュッター監督はブレーメン戦前々日の会見で、「マコトは今日(4日)から通常トレーニングに復帰した」とコメントしていた。ブレーメン戦の後は国際Aマッチウィークによる約2週間の中断期間に入る。慎重を期すならば、長谷部は当然ブレーメン戦を回避して体調を整え、然るべき時期に再びピッチへ立つと目されていた。

 ただし、アイントラハトのチーム事情には懸念もあった。ミッドウィークに開催されたUEFAヨーロッパリーグ、アウェーのギマランイス(ポルトガル)戦で長谷部を欠いたチームは1-0と辛勝。攻守共に低調な内容で、改めてリベロ・長谷部の存在の大きさを痛感していたのである。

 それでも、今節のブレーメン戦までは急造布陣で臨まねばならない。森保一監督率いる日本代表へ再招集された鎌田大地は当然スターティングメンバーに名を連ねるとしても、リベロの人選は熟慮が必要だった。ギマランイス戦ではマルティン・ヒンターエッガーが代役を務めたが、彼は純然たるストッパーで、アルマミ・トゥーレやエヴァン・エンディカらを従えてバックラインを統率する能力は心もとない。シーズン序盤にマルコ・ルスが同ポジションで試されたこともあったが、彼はその試合で負傷を負って長期離脱を強いられている。今のアイントラハトに長谷部の代わりはいない。それが今回のブレーメン戦にどう影響するのかが気がかりだった。

 試合開始1時間前にメンバー表が配られた。鎌田の先発を確認し、何気なくキャプテンの名前を見ると、『Makoto Hasebe』と記されていた。まさかのスタメン。ウニオン戦から9日を経て、長谷部は敢然とブンデスリーガの舞台に戻ることを決断したのだった。

 試合は序盤からアイントラハトがゲームをコントロールする展開が続く。左サイドのフィリップ・コスティッチがいつものように独力で局面打開を図る。チームメイトの特性を熟知し始めている鎌田はあえて左へ流れず、右のダニー・ダ・コスタとコンビネーションを図ろうとしている。最前線には空中戦に強いゴンサロ・パシエンシアとセカンドボールへの嗅覚が鋭いアンドレ・シウバがいるから、ボランチのジブリル・ソウとセバスティアン・ローデはシンプルなパスさばきに徹していた。対するブレーメンはパスを組み立てられず、3トップを狙ったカウンターに頼るしかなさそうだった。

 長谷部の動きが重く見える。当初は雨によるピッチコンディションが何らかの影響を与えているように思えた。それでも、彼の特長のひとつである判断スピードが上がらない。いつもならば最後尾でボールキープした刹那に相手の急所を見極めてピンポイントパスを送るのに、今回は前方へのパスを躊躇って真横の味方へボールを預ける所作が目立つ。対面する相手FWへの対応にも難儀している。長谷部がリベロのポジションを任される最大の理由は、移り変わる戦況の中で次のプレーを確実に予測できる能力が優れているからだ。相手ボールホルダー、相手FWの挙動を見極めて一歩先に動き出して攻撃を寸断する。その絶妙な“読み”が、35歳の長谷部を支えるバックボーンになっていたはずだった。

 相手の出足に遅れた。一歩前に足が出ない。仕方がないのでセカンドチョイスに移って防御態勢を取る。また間に合わない。ポジションを修正する。アプローチしたが届かない。バックステップして陣形を整える。チームはワンサイドでゲームを支配しているが、バックラインの安定が図れない。不穏な匂いがした。

 27分、ブレーメンのカウンターを受けた。ドリブルで前進するレオナルド・ビッテンコートと対峙した長谷部はたたらを踏みながらもボールを視認して防御態勢を築いていた。

 左側をジョシュ・サージェントが走っているが、それはヒンターエッガーが見ているはずだ。ビッテンコートからパスが放たれ、ボールが体の右側を通る。その到達地点にはサージェントが居た。ダイアゴナルランでヒンターエッガーを引き離したのだ。サージェントのシュートをGKフレデリク・レノウがセーブする。こぼれ球を拾ったビッテンコートのシュートはバーを直撃。窮地を逃れたかに見えたがしかし、混戦の中でボールがゴール左へ流れた。誰かが飛び込んでくる。必死でダイブしたが、届かなかったーー。

 相手1トップ、デイヴィ・クラーセンに被弾。アイントラハトはブレーメンに先制を許した。

 1点ビハインドで折り返した後半の55分、鎌田の右CKからローデが強烈なシュートを突き刺し、アイントラハトが同点に追いつく。コメルツバンク・アレーナに詰めかけた観衆のボルテージが最高潮に達する。攻め手を失ったブレーメンは虫の息で、防戦に努めるしかなかった。88分、トゥーレのアーリークロスに反応したパシエンシアがヘディングシュートを打ち込み、GKジリ・パブレンカがセーブしたこぼれ球をシウバがプッシュして逆転。頼もしきFWたちが見せた必殺のホットラインで、アイントラハトは勝利を確定させたかに思えた。

 試合後のインタビューを取材するため、記者席を離れて足早にミックスゾーンへと移動する。まだ試合は終わっていない。室内に取り付けられたテレビモニターを観る。アイントラハトが反撃を受けている。

 相手シュートはレノウが防いだ。セーブしたボールが右方向へ流れた。また、誰かが飛び込んでくる。渾身の力を振り絞って足を伸ばしたがボールに届かない。相手がもんどり打って倒れる。主審がホイッスルを鳴らし、ペナルティスポットを指差したーー。

 長谷部は、またしてもクラーセンの突破を止められなかった。いつもならば主審の判定に激しく抗議するところだが、今回ばかりは自らの失策を認めて引き下がった。ミロト・ラシカがPKを決めると、長谷部は『よく決めたな』とばかりに彼の背中をポンと叩いた。

 試合後の長谷部は勝っても負けても、自らのプレーが勝敗の引き金になっても、必ず冷静さを取り戻している。鎌田がドーピング検査で忙しなくドクタールームへ引き上げる中、長谷部はテレビインタビュー2本と、多くの日本人メディアが並ぶ囲み取材に対応した。

「脳震盪を起こしてからの復帰プランは段階的にやっていたので、日曜日にはプレーできるなとは思っていました」

 体調についても「まったく問題ない」と言う長谷部は、最後の場面でPKを与えた自身のプレーについても淡々と語っていた。平静さを保ちながら、少しだけ顔をしかめながら。彼の激しい気性を知る者としては、その静かなる佇まいが、忸怩たる悔恨を映し出す鏡に見えた。

 雨が降り続いている。サポーターが足早に帰路についている。閑散としたスタジアムを出て後ろを振り返ると、漆黒の森林に囲まれた“戦場”が、穏やかな光を放つ街灯に照らされていた。

 今日の長谷部は何を思うのだろう。いずれにしても、彼は彼らしく、その結果を受け入れて、次なる明日を見据えている。

Im Frankfurt-第3回(了)

スポーツライター

1970年生まれ。東京都出身。2001年7月から2006年7月までサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当記者を務めた。2006年8月よりフリーライターとして活動し、2018年3月からドイツ・フランクフルトに住居を構えてヨーロッパ・サッカーシーンの取材活動を行っている。また浦和レッズOBの福田正博氏とともにウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信。浦和レッズ関連の情報やチーム分析、動画、選手コラムなどの原稿も日々更新中。

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