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'GSOMIA終了'が文政権にもたらす二つの「リスク」

徐台教ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長
6月28日、大阪で行われたG20サミットで握手する日米首脳。(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

韓国政府が22日に決めた「日韓軍事情報包括保護協定(GSOMIA)」の終了。直後から日本社会ではこれが、韓国国内政治の脈絡で決められたとの見方が広まっているようだが、実情はやや異なる。

●疑惑1:「疑惑」を隠すため?

「’チョ国’隠そうと韓米日の安保共調を壊すのか、国民はバカではない」

これはGSOMIA終了決定から一晩明けた23日、韓国の代表的な保守紙『朝鮮日報』に掲載された社説のタイトルだ。

チョ国(チョ・グク)とは、この度法務部長官に任命されたソウル大学の教授で、17年5月の文在寅政権の発足時から約2年にわたり、青瓦台(大統領府)要職の民情主席秘書官を務めた人物だ。スマートな容貌と知的な印象も相まって、高い知名度がある。

だが、このいわば文政権の「顔」であると同時に、左派のアイコンでもあるチョ氏はここ数日、強い批判にさらされている。法務部長官職就任のための人事聴聞会を控え、各種疑惑が噴出しているからだ。

韓国の聯合ニュースが19日に伝えたところによると、その疑惑は少なくとも7つにのぼる。▲私設ファンドへの投資、▲不動産偽装売買、▲弟の偽装離婚と債務弁済回避疑惑、▲娘の奨学金受領疑惑、▲偽装転入と総合所得税の遅延納付、▲南韓社会主義労働者同盟(社労盟)活動疑惑、▲論文剽窃などだ。

渦中のチョ・グク前民情主席。写真は同氏のフェイスブックより引用。
渦中のチョ・グク前民情主席。写真は同氏のフェイスブックより引用。

さらに娘の大学不正入学疑惑もあり、連日韓国メディアではトップ級の扱いで報じられている。各紙社説も必ずこの話題に触れるほどだ。

「公正」「正義」を掲げてきた文政権、さらに法律家としてこれまで同様の脈絡での発言を続けてきたチョ氏の「裏の顔」が、大きな注目を集めているわけだ。

もちろん、現段階でこれは「疑惑」に過ぎない。人事聴聞会を通じ、その真偽や是非が問われることになる。だが、娘の進学における「不正疑惑」は娘と同世代の若者層をはじめ、子の教育という韓国社会最大のテーマに関心を持つ広範な層からの反発を買っている。これは左右の政治的性向を問わないものだ。

このチョ氏への攻撃から目をそらすため、GSOMIA終了を決めたという見方がある。だが、韓国主要9紙の社説の中で、GSOMIA終了と「チョ・クグ疑惑」を重ねた見解を示しているのは『朝鮮日報』だけである。一般的な理解とはとても言い難い。

韓国政治に詳しい慶南発展院の李官厚(イ・グァヌ)研究員も23日、筆者との電話インタビューで「今回の決定はチョ・グクとはまったくの別問題」と一蹴した。

●疑惑2:左派層を意識?

「軍事協定破棄 文政権、世論意識し『禁じ手』」

23日、産経新聞に掲載されたある記事のタイトルだ。記事では「韓国の文在寅政権が日本とのGSOMIAの破棄を決めたのは、政権支持層も意識したためとみられる。3年間の政権運営の審判となる総選挙も来春に控え、目に見えた対日強硬措置を求める左派層の意向を無視できないとの分析もある」とした。

こちらの見解は、対日強硬措置を求める文政権支持層の意向を意識したというものだ。

似たような論調としては、韓国紙『中央日報』は23日付け記事「青瓦台がジ―ソミアを破棄することにした4つの理由」の中で、3つ目の理由として「国民情緒」を挙げた点がある。

同紙はこの根拠として、韓国政府関係者が22日に「GSOMIA終了」に合わせて明かした「国民の意志を把握するためにほぼ毎日世論調査を実施した」というコメントを引用し、「賛成意見が多数であったからだろう」と推測している。

韓国政府の世論調査は非公開だが、実際にこれまでのGSOMIA破棄について問う世論調査では賛成意見が多かった。

週末ごと5週に続けて行われている「安倍糾弾デモ」参加者の手に、「韓日軍事情報協定破棄せよ!」と書かれたプラカードを掲げている。8月15日、筆者撮影。
週末ごと5週に続けて行われている「安倍糾弾デモ」参加者の手に、「韓日軍事情報協定破棄せよ!」と書かれたプラカードを掲げている。8月15日、筆者撮影。

『リアルメーター』社が7月31日に発表したものでは破棄賛成47%―破棄反対42%、同社による8月6日の調査では破棄賛成48%―破棄反対39%となっていた。

一方、『リアルメーター』社による8月一週目の文政権の国政支持率は50.4%だった。そこで、同社調査ににおけるGSOMIA反対層と文政権支持層の統計の内訳を比べてみた。

すると与党・共に民主党支持者の90.7%が文政権を支持し、70.8%がGSOMIA破棄に賛成だった。

文政権に批判的な市民はどうか。第一野党・自由韓国党支持者のうち5.3%が文政権を支持し、14.6%がGSOMIA破棄に賛成していた。

また、第二野党・正しい政党支持者のうち24.3%が文政権を支持し、20.2%がGSOMIA破棄に賛成だった。第五野党・わが共和党の6.9%が文政権を支持し、22.8%がGSOMIA破棄に賛成だった。

こうした結果からGSOMIA終了(破棄)を、保守層を含む幅広い層が支持していることが分かる。支持層向けというよりも、民意を意識したものと理解した方が良さそうだ。

●GSOMIA終了による2つのリスク

しかし、文在寅政権にとって今回の決定は「リスク」である。それも一つではなく二つもある。順に見ていく。

(1)米韓同盟リスク

まず、GSOMIA延長を求める国の意向に逆らったことによる「米韓同盟リスク」を負った点がある。伝統的に米国との協調を最重要視する保守野党はさっそく批判を強めている。

自由韓国党は23日の論評で「GSOMIA破棄により韓米日の軍事安保協力体系と米韓同盟が倒れ、韓米日の軍事共調を通じ支えられてきた東北アジアの安保が崩壊する」と明かした。

正しい未来党も同日の論評で「青瓦台の軽率な論評で米韓同盟すら揺れている」とし、「下手をすると東北アジアのいじめられっ子になり得る状況で、同盟である米国の支持が絶対的に必要な状況だ。しかし青瓦台はこれ見よがしに米国が望まない決定を断行した」と強く批判した。

こうした批判の背景に、米政府関係者による「強い失望」「憂慮」「米側が聞いていた内容と異なる」といった発言があるのは言うまでもない。

韓国の市民にとって米韓同盟とは、朝鮮戦争(1950〜53年)以降、国家の存立を担保してきたものと刷り込まれているため、米韓同盟が揺らぐという批判(米側はさすがにここまで言及していないが)に世論は敏感にならざるを得ない。

さらに今後、米国が今回の韓国の決定への「対価」を求め、その根拠として「米韓間の信頼回復」を掲げてくる場合、米韓同盟を危機にさらしたという野党の批判はさらに強まることになるだろう。

また、7月25日から8月24日までわずかひと月の間に、7度にわたり行われた北朝鮮によるミサイル発射実験に対する「安心」も揺らぐと、野党が同様に攻め立てることは確実だ。

8月7日、北朝鮮の国営メディアは金正恩委員長が「新型戦術誘導弾の威力示威発射を参観した」と伝えた。写真は朝鮮中央通信より。
8月7日、北朝鮮の国営メディアは金正恩委員長が「新型戦術誘導弾の威力示威発射を参観した」と伝えた。写真は朝鮮中央通信より。

(2)経済リスク

次に日本からのさらなる「報復」のリスクがある。『韓国ギャラップ』が8月8日に発表した世論調査結果によると、「今回の日韓間の紛争でより大きな被害を受ける」と答えた市民は57%にのぼる(日本22%、互いに似ている15%)。

現在のところ、韓国メディアに今回の一連の日本による輸出規制強化措置(韓国ではこう表現)により経済的な被害が発生したという報道はほぼ見当たらない。

このため、韓国政府の日本や米国に対し引かない姿勢への評価が維持されるだろう。だが、日本メディアを通じこぼれ出てくる日本政府の反応うはどれも強いものばかりだ。今後、日本が報復に踏み切る場合、世論が急激に悪化するリスクがある。

これについて前出の李官厚研究員は「感情的には(GSOMIA終了に対する)支持が高いだろうが、日本の追加措置により産業的な被害が一、二か月後に顕在化する場合、文政権にとってブーメランとなる可能性がある」と分析した。

●リスクを取る決断の背景は

見てきたように、文政権にとって今回の決断は重荷となる。政権を連日攻め立てているチョ・グク候補への疑惑に加え、さらなる攻撃材料を与えてしまったからだ。

ここで改めて問われるのが、文政権はなぜそんな決断をしたのかという部分だ。普通に考える場合、GSOMIAを維持していく方が韓国政府にとって行動の幅が広がるし、上記のリスクも無くなる。

これはなんら確証がない筆者の予想であるが、文政権は「これまで米国、日本の下に位置付けられ続けていた韓国とは異なる」という点を示すタイミングは今しかないと思ったのではないか。

筆者は昨日の記事で以下のように書いた。

...歴史認識問題の解決も、米国に対し自主外交を行うこともまた、新しい東アジアの秩序を求める文在寅政権にとっては必然的な通り道といえる。しかしあえて本音を述べるならば、その全てが肯定的なムードの中で行われてほしかった。悪いタイミングで舵を切ってしまわなかったか。

しかし今考えると、一般的にうまく事がいっている時は、何かを変えるタイミングとしてふさわしくない。

安倍政権との認識の差異が明確となり、放っておいてもトランプ政権からの要求がエスカレートすることが分かる今こそ、変化の時と捉えているのかもしれない。

ソウル在住ジャーナリスト。『コリア・フォーカス』編集長

群馬県生まれの在日コリアン3世。1999年からソウルに住み人権NGO代表や日本メディアの記者として朝鮮半島問題に関わる。2015年韓国に「永住帰国」すると同時に独立。16年10月から半年以上「ろうそくデモ」と朴槿恵大統領弾劾に伴う大統領選挙を密着取材。17年5月に韓国政治、南北関係など朝鮮半島情勢を扱う『コリアン・ポリティクス』を創刊。20年2月に朝鮮半島と日本の社会問題を解決するメディア『ニュースタンス』への転換を経て、23年9月から再び朝鮮半島情勢に焦点を当てる『コリア・フォーカス』にリニューアル。ソウル外国人特派員協会(SFCC)正会員。22年「第7回鶴峰賞言論部門優秀賞」受賞。

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