ホロコースト時代に収容所で隠れて作ったブレスレッドが地中から発見 米国に住む家族の元に戻る
収容所の強制労働時に隠れて作ったブレスレッド、名前と入れ墨の番号が刻印
第二次世界大戦の時に、ナチスドイツが支配下の欧州で約600万人のユダヤ人を殺害した、いわゆるホロコースト。ホロコースト生存者のベン・ファイナー氏は9歳でナチス・ドイツに逮捕されて、戦争が終結するまで5年間、収容所を転々とさせられていた。ナチスドイツは「労働を通じたユダヤ人の絶滅」を遂行していたため、労働に適さない老人や子供は収容所の到着直後に選別されてガス室で殺害された。ベン・ファイナー氏は9歳だったが鍵職人として手に職があったため、収容所で鍵作りの仕事をしながら生き延びることができた。
そしてベン・ファイナー氏がブーヘンバルト強制収容所で隠れてこっそりと作っていたブレスレッドが、ブーヘンバルト強制収容所跡地の土の中から研究者によって発見された。ブレスレッドにはベン・ファイナー氏の名前(ベニック・ウルマンと書かれている。ウルマンはファイナー氏の母親の姓)とアウシュビッツ絶滅収容所に収容されていた時に入れられた入れ墨の番号178873が刻印されていた。収容所では名前は剥奪され、囚人番号で管理され、その囚人番号が腕に入れ墨されていた。収容所で囚人がこのようなブレスレッドを作っているところがナチス・ドイツに見つかったら罰せられていたはずだ。
研究者はおそらくベン・ファイナー氏がブーヘンバルト強制収容所にいたことを証明するために、鍵仕事の合間にナチスに隠れて作ったのだろうと推察しているが、ベン・ファイナー氏は2016年に他界してしまっているため、確認する術はもうない。ベン・ファイナー氏は9歳でナチス・ドイツに逮捕されて家族や親せきらが離散してしまい、14歳で終戦を迎えた時には260人の親戚のうち、生き残ったのはベン・ファイナー氏も含めて6人のみだった。
「怖がってはいけません。ただ生き延びることだけを考えるんだ」
ベン・ファイナー氏は戦後、アメリカのセントルイスに移住して生活していた。セントルイスのカプラン・フェルドマン・ホロコースト博物館で、何回もホロコースト時代の経験や記憶を後世に語り継ぐための講演会を行っており、セントルイスの学生たちの間でも有名人だった。
ベン・ファイナー氏がブーヘンバルト強制収容所で作っていたブレスレッドは、セントルイスに住む家族の元に届けられた。そしてカプラン・フェルドマン・ホロコースト博物館に寄贈されて展示されることになった。ベン・ファイナー氏の娘のシャロン・ベリー氏は「父はとても魅力的な人でした。講演会などでも多くの人を引き付けていました。父はホロコースト時代に収容所を転々とさせられていたことを振り返って、2010年の講演会の時に"怖がってはいけません。ただ生き延びることだけを考えるんだ"と語っていました。父にとってホロコースト時代の経験や記憶を語ることが、彼自身の癒しになっていました。この小さなメタルのブレスレッドに、当時14歳だった少年が伝えたかったことの全てが詰まっているように思えます。これは父の物語であり、ホロコーストの歴史とともに後世に語り継がれていってほしいです」と語っている。
ホロコースト生存者らの遺品も伝える記憶のデジタル化
戦後70年以上が経過しホロコースト生存者らの高齢化も進み、多くの人が他界してしまった。当時の記憶や経験を後世に伝えようとしてホロコースト生存者らの証言を動画や3Dなどで記録して保存している、いわゆる記憶のデジタル化は積極的に進められている。また、今回のブレスレッドのように、ホロコーストの犠牲者の遺品やメモ、生存者らが所有していたホロコースト時代の物の多くは、家族らがホロコースト博物館などに寄付している。
欧米では主要都市のほとんどにホロコースト博物館があり、ホロコーストに関する様々な物品が展示されている。そして、それらの多くはデジタル化されて世界中からオンラインで閲覧が可能であり、研究者やホロコースト教育に活用されている。いわゆる記憶のデジタル化の一環であり、後世にホロコーストの歴史を伝えることに貢献している。
また最近ではアウシュビッツ絶滅収容所で働いていた親衛隊とドイツ軍や家族のための食堂を修理して保存する動きも見られている。