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日本学術会議にお願いしたいこと

佐藤丙午拓殖大学国際学部教授/海外事情研究所所長
(写真:イメージマート)

○日本学術会議の書簡について

 2022年7月27日の読売新聞の報道で、日本学術会議(以下学術会議)が小林科学技術相に25日付の書簡を送り、軍民の「デュアルユース(両用)」の先端科学技術研究について、軍事に無関係な研究と「単純に二分することはもはや困難」とし、事実上容認する見解をまとめた、と報じられた。記事によると、見解では「科学技術を(軍事への)潜在的な転用可能性をもって峻別し、その扱いを一律に判断することは現実的ではない」と指摘しているという。

 実際の書簡はまだ公開されておらず、学術会議内でどのような議論を経てこのような結論に至ったか明らかにされていない段階ではあるが、このような見解が出されることには、非常に感慨深いものがある。ただそれは、学術会議がついに「軍事研究」を容認したとナイーブに感動するものではなく、ようやく学術会議の思考停止が解け、科学技術と軍事問題の議論が活性化する可能性が展望できるようになった、という期待が膨らむためである。

○2017年声明の見直し?

 実は今回の書簡で示された見解は、軍事問題と科学技術に関する学術会議の従来の認識から1ミリも出ていない。梶田会長名で送付されたとする今回の書簡は、2017年3月の「軍事的安全保障研究に関する声明」において表明された両用技術に関する認識を、忠実に踏襲するものである。その意味で、書簡で「もはや困難」という認識が示されているのが事実なのであれば、2017年の議論の時点で既に、それが困難であることを多くの安全保障関係者が指摘していたことを、どのように理解するのか、学術会議には説明する義務があるとも思う。

 学術会議は1949年に発足したが、その創設の理念に基づいて、1950年に「戦争を目的とする科学研究には絶対従わない決意の表明」が発表されている。この表明では、「さきの声明を実現し、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する」としている。

 さらに1967年には、「軍事目的のための科学研究を行わない声明」が発表され、「日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が又平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する」としている。

 この二つの声明が発表された背景には、様々な経緯があることをふまえる必要はあるが、これら声明に共通しているのは、「戦争目的」や「軍事目的」の定義が明確にされておらず、ごく一般的な文学表現を用いて、本来であれば詳細な検討が必要な内容を禁止していることである。50年の声明が検討された際には、「戦争目的」という言葉の背後に具体的に想定していたものがあったのだろう。しかし、その記憶や記録が継承されることなく、さらには声明が必要であった意義を、時代の要請に合わせて再検討することもなかったため、次第に学術会議は過去に縛られたままの状態から抜け出せなくなっていった。

 このため、戦争や軍事の解釈や、それらと平和との関係は曖昧なまま、日本社会、とりわけ日本の学術界に、軍事に関係しそうな問題から距離を置くことを正当化する「空気」を作り出した。大学関係者の多くも、学術会議に睨まれる(大学の対外評価や、研究者個人の「出世」に関わる!)ことを恐れ、軍事問題や安全保障問題と距離をおいた。筆者自身も大学院時代に、安全保障問題を研究テーマに選ぼうとした際、先輩などから「大学への就職の道がなくなるよ」と脅された(アドバイスをする側には善意があったのだろうが)記憶を持つ。

○「見直し」と、学術会議の責任について

 防衛省が2015年に安全保障技術研究推進制度(以下推進制度)を創設し、防衛省から大学や民間研究機関の研究に資金を出すことが可能になると、日本学術会議は大きな問題に直面することになる。推進制度の研究開発資金は、研究資金の減少に苦しむ各大学の研究者にとって、新たな資金源として魅力的なものになる可能性があった。そうなると、日本学術会議のこれまでの方針の妥当性に注目が集まり、場合によっては、これまで積み上げてきた自身の権威が揺らぐ可能性があった。

 推進制度の運営方針は、「受託者による研究成果の公表を制限することはありません」、「特定秘密を始めとする秘密を受託者に提供することはありません」、「研究成果を特定秘密を始めとする秘密に指定することはありません」、「プログラムオフィサーが研究内容に介入することはありません」、というものであった。この方針から、もし推進制度に参加すると、研究者が軍事や戦争研究に強制的に参加させられ、研究内容や成果も秘匿され、自由が奪われ、国に服従させられる、と解釈することは困難であろう。あえて難癖をつけるとすれば、「防衛省は嘘つきである」という、子供の喧嘩の際の捨て台詞以上の批判はできないだろう。

 つまり、この推進制度の構築は、学術会議がこれまでの方針を再検討し、日本の研究者が置かれた社会環境、資金状態、日本の社会の科学技術の発展の方向、軍民の垣根がほぼ無くなったとされる軍事開発の現状、兵器開発のあり方、など、多くの問題を検討するきっかけとなるはずであった。しかし、設置された「安全保障と学術に関する検討委員会」が審議の結果、幹事会に「報告」した2017年の「軍事的安全保障研究に関する声明」は、必要な議論のほぼ全てを封印するものだったように思う。

○2017年声明について

 ただし、2017年の声明は、学術会議が直面する苦悩を素直に分析し、それに対して、推進制度の関係においてのみ明確に判断を下している。いわゆる軍事研究に関する学術会議の苦悩の本質は、研究者の参加を禁止したい「軍事研究」や「戦争研究」の存在とは何か、明確に示すことは不可能であるということであった。2017年声明ではこれを「民生的研究と軍事的安全保障研究との区別が容易でないのは確かである。それは科学技術につきまとう問題である」としている。

 そして、2017年声明では、軍事的安全保障研究に含まれうるものの一つとして、研究成果が軍事的に利用される可能性がある研究をあげている。そして、「基礎研究であれば一律に軍事的安全保障研究にはあたらないわけではなく、軍事利用につなげることを目的とする基礎研究は軍事的安全保障研究の一環であると考えられる」ともしている。そして、科学者が、自らの研究成果がいかなる目的に使用されるかを全面的に管理することは難しい。研究の「出口」を管理しきれないからこそ、まずは「入口」において慎重な判断を行うことが求められる。」と主張するのである。

 これを読むと、2022年7月の学術会議の書簡の位置付けが理解できると思う。学術会議は、当初から軍事目的で開発されるものではないという汎用技術の特徴を完全に理解していたし、現在も十分にその特性を理解している。基礎研究の分野に軍事、「平和」研究の区別はなく、当該技術の用途が、軍事用か別か、に分けられるのみである。つまり、技術を使用する側の判断が問題なのであって、研究の「入口」段階でそれを区別することはできない。学術会議にとって残念なことなのかもしれないが、技術を「生み出した」研究者は、その最終用途を管理することはできない。これには、ノーベルやアインシュタインをはじめ、過去の研究者の嘆きを思い出してみるといいだろう。

 つまり、2017年声明は、学術会議の過去の声明を借りて、推進制度への研究者の参加を禁止することのみを目的としたものであったと理解すべきであろう。少し長いが、声明の中から、「5 科学者コミュニティの自己規律」を抜粋しよう。そこでは、

「科学者の研究成果は、時に科学者の意図を離れて軍事目的に転用され、場合によっては攻撃的な目的のためにも使用されうる。大学等の各研究機関は、施設・情報・知的財産等の管理責任を有し、自由な研究環境や教育環境を維持する責任を負うことから、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究については、その適切性について、目的・方法・応用の妥当性の観点から、技術的・倫理的に審査する制度を設けることが望まれる。」

 ただし、科学技術をめぐる日本の状況は、学術会議とは無関係に進みつつある。国際的に見ても、各国は軍事開発と民間技術開発の一体性は強まりつつあり、相互の研究開発予算は、各機関が協調して運用することが珍しくはなくなっている。軍事分野での研究では、研究の方向性や深度の指標を明確に規定しやすく、将来の見込みを想定せずに進める研究開発に比べて、成果が見えやすい。

○アカデミーの役割と国家安全保障

 では、2022年の書簡で学術会議は何を目指しているのだろうか。書簡を読む限り、学術会議は「軍事研究を禁止する」方針を変更しないとしている。ただこれは、軍事研究の禁止が、どうしても譲れない方針だ、という決意を示す程のものではなく、方針を変更するための手続きは非常に重く、それをするだけの推進力はどこにも存在しないことを示唆しているのだろう。

 にもかかわらず、今回の書簡は、推進制度への参加を「容認する」ことを主眼としているわけでもなさそうである。であれば、真の狙いは何なのであろうか。従来の規範は変えない、認識も共通である、そして禁止を目的とした内容にも触れない、とすれば、そこに何か別の目的があると考えるのは当然である。それを説明してほしいと願うのは、学術会議を擁護する側も、批判する側も共通する関心事ではないだろうか。

 学術会議をめぐる問題は、多くの場所で、多くの問題で、広範に指摘されており、状況によっては完全に民間団体として運営される、欧米諸国で見られるような「学術アカデミー」へと脱皮させるべきとの意見も見られる。そのように組織が混乱している状況で、伝統的に堅持してきた重要な方針を議論し、それを新たなものに進歩させる余裕も持てず、馬力も生み出せない、と考えるのは自然なことである。

 ただし、科学技術をめぐる日本の状況は、学術会議とは無関係に進みつつある。国際的に見ても、各国で軍事開発と民間技術開発の一体性は強まりつつあり、相互の研究開発予算は、各機関が協調して運用することが珍しくはなくなっている。軍事分野での研究では、研究の方向性や深度の指標を明確に規定しやすく、将来の見込みを想定せずに進める研究開発に比べて、成果が見えやすい。

 学術会議はこのような国際社会の動向に対応し、国内の方針を変更することを、「敗戦処理」と受け取り、抵抗しているようにも見える。たしかに、日本の「ガラパゴス」な方針を変えるのは苦しいと思う。平和を祈念し、それまでの方針を大切に扱ってきた、尊敬すべき先輩研究者の顔を思い浮かべると、方針の転換に躊躇うのも理解はできる。ただ、伝統を「不磨の大典」にしては、研究者として最も必要な、社会の要請に応えるという役割は果たすことは困難になる。

 これまでの歴史的経緯から、日本の研究者に軍事問題へのアレルギーがあるのは理解できる。ただ、そのアレルギーを生み出した責任の一端が、学術会議の声明にあるとすれば、それを正すことも責任の一端なのではないかと思う。そして、学術会議に集う諸先生の見識を信頼しているがゆえに、この件をきっかけに、歴史的経緯に雁字搦めになっている日本社会を変える方策を示してほしいと願うのである。

以上

拓殖大学国際学部教授/海外事情研究所所長

岡山県出身。一橋大学大学院修了(博士・法学)。防衛庁防衛研究所主任研究官(アメリカ研究担当)より拓殖大学海外事情研究所教授。専門は、国際関係論、安全保障、アメリカ政治、日米関係、軍備管理軍縮、防衛産業、安全保障貿易管理等。経済産業省産業構造審議会貿易経済協力分科会安全保障貿易管理小委員会委員、外務省核不拡散・核軍縮に関する有識者懇談会委員、防衛省防衛装備・技術移転に係る諸課題に関する検討会委員、日本原子力研究開発機構核不拡散科学技術フォーラム委員等を経験する。特定通常兵器使用禁止制限条約(CCW)の自律型致死兵器システム(LAWS)国連専門家会合パネルに日本代表団として参加。

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