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野際陽子の娘が語る 母が「良い妻」をやめたとき【野際陽子物語】

笹山敬輔演劇研究者
(写真:アフロ)

芸能人のいわゆる「高齢出産」は今や珍しくない。近年では華原朋美や浜崎あゆみ、持田香織が40代で第1子を出産した。厚生労働省の統計によれば、女性の第1子出産時の平均年齢は2011年に30歳を超え、その後も30代での初産が定着している。

だが、約50年前の1975年には平均年齢が25.7歳であり、約9割が20代で第1子を産んでいた。そんな時代に、野際陽子は38歳11ヶ月で初産を経験し、マスコミから芸能界の最高齢記録と言われた。娘で女優の真瀬樹里は、「子どもをつくるつもりのなかった母にとって、子どもをもつことは衝撃的な出来事だったんだと思います」と語る。出産と育児の経験は、一人の女優として一人の女性として、野際にどんな影響を与えたのだろうか。真瀬樹里に母・野際陽子について語ってもらった。

ミスキャストの母親

1975年1月1日早朝、野際は陣痛を感じて目が覚めた。まだ少し痛む程度だったため、彼女は新年の雑煮とお屠蘇を口にしてから、悠々と病院へ向かった。そのときは、声もあげずに痛みに耐え、堂々と産んでみせると思っていた。だが、夜になって人工破水の処置が施されると、想像を絶する激しい痛みに襲われ、麻酔をしてもらいようやく女の子を出産する。

麻酔から覚めると、ベッドの上では小さな命が蠢いていた。それはまるで神様からの贈り物に見えた。自分が人並み以上の親馬鹿になるかもしれないと思うと、野際は我ながら驚いたという。出産直後の取材では次のように語った。

彼はひたすら〝やさしい子〟に育てたいというんですけど、私は〝つよい女の子〟にしたいの。これからは女だって、自分で生きて行く力を持たなくっちゃ。自立心をつけて、男にだけ頼るような子にはしたくないわ

出典:『週刊明星』1975年1月19日号

野際はずっと結婚も出産もしないつもりで生きてきた。『キイハンター』で共演した千葉真一と半同棲の交際をしていたときも、結婚を真剣に考えていたわけではない。野際の両親も娘の自由を尊重し、結婚しろとは言わなかった。

だが、週刊誌はこぞって「結婚秒読み」と書き立てる。当時の社会通念では同棲イコール結婚だった。二人が愛しあっていたのはもちろんだが、彼女のなかで社会的な責任を取らなければならないとの思いが働き、37歳のときに千葉と結婚した。だから、2002年のインタビューで「今の時代だったら結婚していなかった」と語るのは本音だろう。

結婚後はそれまでの自由な生活が一変した。大きな仕事を引き受ける前には、夫の了承を得なければならない。彼女にとって初めての経験だった。それでも彼女は、俳優として自分の夢を追い続ける夫を支えた。千葉が夜中に後輩を連れて帰宅すると、大量のスパゲッティと何種類ものソースをつくって振る舞っている。娘の真瀬樹里は次のように語った。

母は結婚している間、むちゃくちゃ良い妻をやってました。でも、母の性格を考えると、夫のために尽くすのは似合わない人だったんだろうなって思います。そもそもは一人で生きていくタイプの人でしたから。

野際が娘にミルクを飲ませたり、おむつを換えたりしていると、友人から「ミスキャストの役を演じてるみたい」と笑われた。そのくらい野際は母のイメージからも遠かった。だが、母になってみて、本当に愛することがどんなものか分かった気がしたという。40代は女優の仕事を続けながら、子育てを最優先にした。

娘との葛藤の日々

母としての野際は娘を溺愛する一方で、「教育ママ」の一面もあった。とくに勉強とピアノに関しては厳しく、時間があると娘の隣に座って、ずっと監視していた。樹里はしょっちゅう怒鳴られたり、叩かれたりしている。だから、のちにドラマで怖い母親役を演じる姿を見ても、樹里は「実際はこんなもんじゃないぞ」と思った。

樹里は5歳のときに父の舞台を見て、女優になろうと決めた。だが、母は学校の規則を理由に芸能活動を絶対に認めてくれなかった。高校までは普通の少女時代を過ごしてほしい。母の願いの裏には、自分が戦争によって普通の生活を送れなかったという思いがあったのかもしれない。とはいえ、樹里にすれば、一刻も早く女優の世界に飛び込みたいと、焦る気持ちばかりが募る。十代の頃は毎日のように口論になり、母娘は葛藤の日々を送った。

大学1年のとき、ようやく芸能活動の許可が下り、念願の女優デビューを果たす。それからまもなく両親が離婚した。樹里が母から離婚の話を聞かされたのは中学生のときだ。

初めて聞いたときは母の前で大号泣でした。でも、それから時間が経つうちに、両親が幸せに生きるためには、その方がいいんだろうなって思えるようになりました。

離婚後の母はまるで本来の姿に戻ったかのように、のびのびとしていた。すでに冬彦の母で再ブレイクしていた野際は、活躍の場を一層広げていく。

そして、女優としての活動をスタートさせた樹里を母は誰よりも応援してくれた。母は生涯をかけて、娘にありったけの愛情を注いだ。樹里はそんな母から何度も言われた言葉がある。

母は男女平等であるべきと思っていたので、「男だから」「女だから」ということを一切、口にしませんでした。結婚に関しても、どちらかと言えばしなくてもいいくらいの感じで。ただ、一人の役者として、「素敵な女性になりなさい」とはよく言われました。それはつまり、「素敵な人間になりなさい」という意味だったと思います。

ずっと女の味方でいよう

野際は過去を振り返って、『キイハンター』のころの自分は勝手気ままで、女優の仕事を粗末にしていたかもしれないと語る。だが、出産を経て、「女優はマツゲをつけないと人前に出られないと考えていたのは間違い」だと気づいた。自分は女優として、女の本当の姿を演じていきたい。以後、役柄によっては、すっぴんのまま出演するのも厭わないようになった。野際にとっての女優開眼である。(『微笑』1993年6月12日号)

結婚・出産・離婚の経験を経て、野際は女優業が自分の生涯の仕事なのだと自覚するようになった。野際は次のように語る。

結婚して子供を産んで、自分というものを殺さなきゃいけないとなった時に、むしろ意識したと思います。結婚したことによって、女が置かれた立場の理不尽さ、女の弱さ、凄さ、喜びというものを実感して、今度はそれを演じたいと思えるようになったのかもしれない。

出典:『キネマ旬報』2008年10月上旬号

結婚するまで、野際は男性的に生きてきた。男たちの尻馬に乗って女の悪口を言ったこともある。女としての自分を意識してこなかった。だが、今なら女の立場の大変さも、女の気持ちもよく分かる。これからはどんなときも女の味方でいよう、野際は心のなかでそう誓った。

(文中敬称略)

〈参考文献〉

・真瀬樹里『母、野際陽子――81年のシナリオ』朝日新聞出版、2018年

【この記事は北日本新聞社の協力を得て取材・執筆しました。同社発行のフリーマガジン『まんまる』に掲載した連載記事を加筆・編集しています。今回の続きとなる最新回は4月14日発行の『まんまる』に掲載しています。】

演劇研究者

1979(昭和54)年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸・言語専攻修了。博士(文学)。専門は日本近代演劇。著書に『演技術の日本近代』(森話社)、『幻の近代アイドル史――明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』(彩流社)、『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫)、『興行師列伝――愛と裏切りの近代芸能史』(新潮新書)。最新刊に『ドリフターズとその時代』(文春新書)。

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