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【追悼】「今」を生き続けた内海桂子の漫才師人生

笹山敬輔演劇研究者
(写真:アフロ)

現役最高齢漫才師であり、漫才協会名誉会長の内海桂子さんが、97歳で亡くなった。近年、ナイツの活躍もあって、「漫才協会」の名をテレビでよく耳にするようになった。漫才協会の前身は、1935年に設立された「帝都漫才組合」であり、桂子さんが漫才師として初舞台を踏んだのは、その3年後だった。まさに東京漫才とともに歩んだ芸人人生である。追悼の意を込めて、その軌跡を振り返りたい。

代役として初舞台

桂子さんは、もとから漫才師になりたかったわけではない。1922年に千葉県銚子に生まれ、本名は安藤良子である。母が離婚再婚を繰り返し、生活が苦しかったこともあって、9歳で蕎麦屋に奉公に出た。その後、母の勧めで三味線と踊りを習うようになり、一時は芸者を目指したこともある。

芸能界に入るきっかけは、演芸団の地方巡業に踊り子として参加したことだった。そこで一組の夫婦漫才師に出会う。巡業から戻った後、その漫才師の妻が妊娠したため、代わりに出てほしいと頼まれたのだ。稽古をする時間もなく、次の日にはいきなり本番を迎える。のちのインタビューで「全部、人のためだった」と語っているように、漫才師デビューは、代役としての出演だった。16歳のときである。

コンビは約4年で解消するが、その後も相方を変えながら、漫才師を続けていった。戦時下には、陸軍からの依頼で、戦地慰問に2度派遣されている。演劇や映画が国策協力を求められた時代であり、笑いも同じだった。2度目の慰問は、1944年2月から2ヶ月間、天津の近くから各駐屯地を訪問している。そこは、戦争の最前線の地だった。桂子さんは、そのときの体験を次のように語っている。

氷の張った川をトラックで走っていると、タイヤがスリップして立ち往生しました。私たちの席は、座席ではなく、荷台の上です。寒風が吹き付ける中、服を着込んで震えていました。兵隊さんが降りて、トラックを後ろから押していると、山のほうから敵が狙い撃ちしてきたのです。鉄砲の弾がビュービュー飛んでくる。こちらの兵隊さんも、私たちを安全に逃がそうと、懸命に援護射撃をしてくれますが、本当に、生きた心地がしませんでした。トラックを降り、必死に目的地の部隊まで歩きました。

出典:『文藝春秋』2012年9月号

帰国してからも国内の農村等への慰問を行い、終戦の日も移動中で玉音放送は聞けなかった。

桂子・好江の葛藤の歴史

敗戦後は、吉原で団子を売ったり、キャバレーで働いたりして暮らしを立てていた。キャバレーで働いていたときの源氏名が、「桂子」である。その一方で、助っ人として、相方のいない漫才師と舞台に立つこともあった。後年、桂子さんは「漫才は誰とでもやれる」と語っており、それは、自分を売るためでなく、相手に合わせることを考えてきたからだという。激動の時代を生き抜いてきた凄みを感じさせる言葉だ。

桂子さんが内海好江さんとコンビを組んだのは、1950年である。桂子さんが28歳、好江さんが14歳のときだった。年齢もキャリアも大きく離れたコンビ、ここから二人の葛藤の歴史がはじまる。

傍からは大人と子供の関係のように見えても、舞台の上では五分と五分に見せなければならない。桂子さんは、着物の着方から三味線まで、徹底的に仕込んだ。好江さんは、両親が漫才師だったこともあり、「先輩とやるからには、1年間絶対に口答えするな」と教えられていた。だが、その指導は苛烈を極め、稽古を脇で見ていた獅子てんやは、「桂子さんは鬼ばばあだ」と言ったという。

1956年にNHK漫才コンクールがはじまり、桂子・好江も出場したが、三回連続で優勝を逃してしまった。このとき、桂子さんから「あんたがいい加減な気持ちでやってるから」と責められ、好江さんは睡眠薬を飲んで自殺を図っている。何とか一命をとりとめ、再度奮起したこともあり、4回目で見事優勝した。

コンビの人気は高まり、話芸にもますます磨きがかかっていったが、結成から約10年が経過したころ、好江さんのなかで押さえていた気持ちが爆発する。新しい相方の候補まで探しており、コンビ解消は時間の問題だった。このときは、東京漫才界の重鎮であるリーガル万吉らが仲介して、何とか収まった。

二人はその後も、愛憎入り交じった感情を抱えていたのだろう。その一方で、コンビの活動は順調で、数々の賞を受賞し、東京漫才を代表する存在になっていた。そして、結成から30年を超えた1982年、芸術選奨文部大臣賞を漫才師として初めて受賞した。その受賞記念パーティでのことである。

まず桂子師匠が、先に口を開き、お礼の言葉を述べられた。次は、好江師匠の番だ。

「さすがコンビ、考えていることは同じだと見えて、私が言おうと思っていたことは全部お姉さんに言われてしまいました。ですから今まで三十三年間、一度も言ったことのないことを言わせてもらいます」という前置きがあって、「お姉さん、今日まで育ててくれて、ありがとう」

すでに涙になっていた桂子師匠、思いもよらない言葉にさらに大泣き。好江師匠に手を差し伸べて、「こんなに育ってくれてありがとう」

桂子・好江が、がっちりと握手したのである。

出典:柵木眞・河本瑞貴『マセキ会長回顧録』

1997年、好江さんは胃ガンのため、61歳で早逝した。最後の舞台は、好江さんが三味線を持てなかったため、二人とも三味線を置き、ネタをせずにしゃべりだけの漫才だった。

「今」をつかんでしゃべる

1970年代後半から、桂子・好江の活躍は、漫才師の枠を超えて広がっていった。1977年には、新劇出身の小沢昭一が新劇を解体しようとしてはじめた「芸能座」に役者として客演し、2ヶ月間全国を巡業した。1979年からは、永六輔が企画・構成・出演したNHKのテレビ番組『ばらえてい テレビファソラシド』にレギュラー出演している。同番組は、まだ密室芸をしていたタモリを起用したことでも有名だ。これらの活動を通して、コンビだけでなく、それぞれの個性が発揮されていった。

異色なのは、映画監督の今村昌平が開校した横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の講師を務めたことだ。桂子クラス・好江クラスに分かれ、俳優志望の生徒たちに漫才を教えた。そして、1984年、桂子クラスに出川哲朗、好江クラスに内村光良と南原清隆が入ってくる。ここでコンビを組んだウッチャンナンチャンは、翌年の『お笑いスター誕生!!』に出場し、スターになっていった。

桂子さんは、2010年にツイッターをはじめるなど、最期まで新しいことに挑戦し続けた。それは、漫才は即興でしゃべるものであり、時流に乗ったテーマを取り入れなければならないという信念からだろう。ウッチャンナンチャンやナイツをはじめ、多くの若い芸人がリスペクトする所以でもあると思う。

8年前のインタビューで、桂子さんは次のように語っている。

九十歳になっても「今」をつかんで喋れるような芸人でいなくてはね。歳とったら、芸も話も昔のまんまでしょ。それじゃ今の人はわかんないわよ。

出典:『週刊文春』2012年9月13日号

演劇研究者

1979(昭和54)年、富山県生まれ。筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸・言語専攻修了。博士(文学)。専門は日本近代演劇。著書に『演技術の日本近代』(森話社)、『幻の近代アイドル史――明治・大正・昭和の大衆芸能盛衰記』(彩流社)、『昭和芸人 七人の最期』(文春文庫)、『興行師列伝――愛と裏切りの近代芸能史』(新潮新書)。最新刊に『ドリフターズとその時代』(文春新書)。

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