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祝・オスカー候補入り!特殊メイクアーティスト辻一弘:「天才は人一倍努力している」

猿渡由紀L.A.在住映画ジャーナリスト
辻氏(左)に直々に仕事を頼んだゲイリー・オールドマン(中)。右はライト監督(写真:Shutterstock/アフロ)

 オスカーノミネーションが発表された。作品や男優、女優部門はもちろんのことながら、日本人として気になっていたのは、「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」で特殊メイクとヘアを担当した辻一弘氏。すでにこの部門のフロントランナーと言われていただけあって、予想どおり、辻氏は見事ノミネーションを果たした。

「もしも昨日が選べたら」(2006)と「マイ・ファット・ワイフ」(2007)でもこの部門に候補入りしており、今回は3度目。前回のノミネーションから10年経っているが、その間に特殊メイクを引退し、現在は現代美術に専念している。再びこの世界に戻ったのは、主演のゲイリー・オールドマンから直々のラブコールがあったせいだ。

 1969年、京都市生まれ。高校時代に独学で特殊メイクを学び、この世界の第一人者であるディック・スミス氏に手紙を送って96年に単身渡米、スミス氏の紹介でリック・ベイカー氏のスタジオに入社した。筆者は過去に何度かベイカー氏のインタビューしているのだが、そのたびに彼は辻氏の話題を自ら持ち出しては、「カズヒロは僕と同じレベルの仕事をするのではなく、僕よりすごいことをやってみせる。僕より上手く仕上げてくれるなら、やってもらったほうがいいよ(笑)。それに、彼は、僕と同じで、仕事への情熱を持っている。僕も彼も、お金のためじゃなく、好きだからやっているんだ。夜遅くなった時に最後まで残っているのは、いつだって僕らの車。納得がいくまで、どんなに時間がかかってもやりたいからさ」などと、辻氏のことを大絶賛している。

 7回のオスカーに輝くベイカー氏はまた、「カズヒロこそ、この業界の将来をになう人間だ」とも言っていた。そんな辻氏の実力があらためて証明されたのが、オールドマンをチャーチルに変身させてみせた今作だ。今作を引き受けた経緯、大変だったこと、成功の秘密などについて、話を聞いた。

辻氏の特殊メイクとヘアでチャーチル英首相に変身したゲイリー・オールドマン(右)。左は妻役のクリスティン・スコット・トーマス(写真/Focus Features)
辻氏の特殊メイクとヘアでチャーチル英首相に変身したゲイリー・オールドマン(右)。左は妻役のクリスティン・スコット・トーマス(写真/Focus Features)

今作では、さまざまな賞を受賞されたり、ノミネートされたりしています。久しぶりのお仕事で、このように高く評価されたお気持ちは?

 光栄です。一番嬉しいのは、ゲイリー(・オールドマン)が今作で次々に賞を取っていっていることですね。彼はこれまでにも認められていていいはずなのに、賞を取っていなかった。自分も関わったもので彼が賞を取るというのは、栄誉なことです。

そもそも辻さんが今作の特殊メイクを担当することになったのは、ゲイリー本人から要望があったからと聞いていますが。

 そうです。ゲイリーと最初に会ったのは、「PLANET OF THE APES 猿の惑星」(2001)でした。最初は彼が出ることになっていて、リック・ベイカーの工房まで顔型を取りにきてくれたんです。結局、彼はあの映画に出ないことになったんですが、2002年に僕が作ったディック・スミスのポートレートを見に来てくれました。それを見て、僕と仕事をしたいと思ってくれたらしいです。

 2012年ごろに僕のドキュメンタリーがあって(『Dream Out Loud(日本未公開)』)、それにも協力してくれていたんですが、一昨年、彼からこの映画についてのメールが来たんです。僕が(今作の特殊メイクを)引き受けるなら、彼もこの役を受けるし、僕がやらないなら断る、と。

 僕は2012年から映画業界を辞めてファインアートに行っていたんですけど、もともと特殊メイクに興味を持ったきっかけは、ディック・スミスがやったリンカーン大統領のメイクだったんです。それについての記事を読んだ時に、これをやりたいと思って。つまりずっと、キャラクターメイクというか、人に似せたりとか、そういうのをやりたかったのに、なかなかそういう機会がなくて、コメディやSFなんかが多かったんですよ。これは僕がずっと一番やりたかった仕事の内容だし、1週間ほど悩んだんですが、結局、やることにしたんです。

たしかに、過去2回のオスカーノミネーションも、両方コメディでしたね。

 はい。どうでもいいようなコメディでしたね(笑)。 ああいうのだと、ノミネートされても、投票する人は本気で取らないんですよ。だからいろいろと、今回はよかったですね。

チャーチルという実在の重要な人物ということで、それだけ責任もあったのでしょうか?

 もちろんそうです。みんなチャーチルがどんな顔なのかを知っていて、ごまかしがききませんから。あと、ゲイリーがチャーチルと全然似ていない。完全に似せるのは不可能なので、その範囲の中でどこまで近づけて、メイクとして大袈裟にならない範囲で近づけていくか、そこが難しかったです。あと、予算も限られていて、撮影後にコンピュータで修正することもできませんでしたし。

メイクだけでなく、ヘアも辻氏が手がけている(写真/Focus Features)
メイクだけでなく、ヘアも辻氏が手がけている(写真/Focus Features)

それに、ゲイリーが自然に演技できるメイクじゃないといけないわけですよね?

 そうですね。余計なものをつけたり、少しでも大袈裟にやってしまったりすると、動きにくくなる。観客は、少しでもおかしかったら本能的に気づくんですよ。何がおかしいのかわからなくても、何かおかしいなと。それが始まったら、ストーリーに入っていけなくなる。

デザインの過程では、どれくらい時間がかかっているんですか?

 最初に顔型を取ってから、最初のテストメイクを3種類。そこまでで2ヶ月ちょっと。次の2種類を1ヶ月後にテストして、デザインの基本が決まって、ロンドンにそれを持って行ってもう一度テスト。さらに調整して、撮影でした。僕自身は、最初の段階からセットでメイクはしないという話になっていたので、現場でのメイクさんにやり方を全部説明して引き渡しています。

ゴールデン・グローブの受賞スピーチで、ゲイリーは辻さんにも感謝しつつ、あの特殊メイクを63回もやったと言っていましたけど、現場で辻さんはやっていないということですね?

 そうです。僕はもう、現場に行くのが疲れたんで(笑)。精神的に持たないんで。

映画を見て、普通の人は、「すごい、ゲイリー・オールドマンだとわからなかった。どうやっているんだろう?」と思うくらいかと思いますけど、素人目にはわからない部分で、実はここがすごく大変だったという部分はありますか?

 全部ですね(笑)。デザインの段階から。まったく(ゲイリーとチャーチルの)プロポーションが違うんで。どうやっても完全には似ないんですよ。あと、ゲイリーも60歳近いんで、肌がかなり柔らかいというか。若い肌は、はりがあるから、メイクのピースをつけても動きやすいんです。肌の下の筋肉が動いて、表面に動きが伝わる時、若いとはりがあって、ちゃんと伝わるんですよね。でも、肌がたるんでくると、上のピースが一緒に動かないんです。それで、どこまでで止めるかとか、本人の肌を露出するとか工夫が必要でした。寄りのカットもかなり多かったですしね。

 あと、かつらも。かつらというのは、上手くやる人がなかなかいないんで、デザインもカットも全部自分でやって送りました。

ジョー・ライト監督(『つぐない』『アンナ・カレーニナ』)は、ここまでの特殊メイクを扱ったことはないはずですが、どのようにコミュニケーションを取りながらやっていかれたのですか?

 最初にテストメイクの結果を見せて、いろいろ話し合いました。特殊メイクの良い点と悪い点というのを、まだよくわかっていらっしゃらなかったんで。あくまでも偽物の肌をつけるので、不可能なことっていうのがあるわけですよ。それを理解してもらうために、例を見せて、こういうふうにできるけど、そうするとこういうことが起こる、などと説明しました。たとえば動きとか表情によって、どこかに変なシワが入ってしまうことがあったりするんですよね。そういうものだというのを理解してもらうまでにちょっと時間がかかりました。

照明も工夫が必要なんでしょうか?

 いや、僕は、特殊メイクがバレるからライティングを変えてくれとは言いたくないんですよね。完璧な形で出して、ひとりの人間として撮影して欲しいんです。特殊メイクだとバレないようにライティングを変えてと言うのは、僕にしたら失礼なことなんで。

プロとしてのプライドですか?

 もちろんそうですね。そこで補ってもらうわけにはいかないんですよ。だから、それはよっぽどのことがないかぎり言わないです。

このお仕事まで事実上引退されていたわけですが、その決断をしたのはなぜですか?

 いろいろあるんですけど、ひとつには、何人かのわがままな役者さんと仕事をしたこと。役者さんの、周りの人々の扱いがひどくて、こんな役者さんのためにどうして自分は一生懸命やっているんだろうと感じ始めたんです。それで映画の仕事自体に魅力を感じなくなっていったんですね。

 そんなうちに、人生がんばって仕事をしてもあと40年、このまま続けても幸せになれるのかなとも思い始めて。あとは、ディック(・スミス)さん。彼が引退して、人生を振り返っていろいろ話をしたんですけど、あの人も後悔が多かったんです。結果的にはすごいことをやった人ですけど。それで、やっぱり自分の本当にやりたいことをやるべきだと思ったんです。

辻氏が制作したディック・スミスのポートレート(撮影/猿渡由紀)
辻氏が制作したディック・スミスのポートレート(撮影/猿渡由紀)

 ディック(・スミス)さんのポートレートを作って、ディックさんがそれを見て感動してくれた時に、こういうことがやりたいんだと思ってはいました。でも、どうしたら良いかわからなかったんですね。ファインアートだけで食べていけるのかなと悩んで。でも結局2012年に、もうこのままだったら生きていないのと一緒だと思い、(映画の仕事を)やめたんです。

じゃあ結構長いこと考えていらしたんですね?

 そうですね。なかなかやっぱり、名声と地位を手に入れて生活も安定していたんで、これでまた最初から全部をやり直すというのは可能なのかなと悩みましたね。

今作を手がけてみて、またやってもいいなと思いますか?それともやはりファインアートに専念されるのですか?

 もちろん(ファインアートに)専念しますけど、もし、デザインだけとか、そういう仕事がきたら、取るつもりではいます。特殊メイクの工程が好きですから。そのお金をファインアートの方に回せますしね。僕のやっていることってお金がかかるんですよ。ギリギリでやるのも辛いですし。

辻氏は今作で放送映画批評家協会賞を受賞したほか、英国アカデミー賞、メイクアップアーティスト&ヘアスタイリスト組合賞にもノミネートされている(写真/Sandro Baebier)
辻氏は今作で放送映画批評家協会賞を受賞したほか、英国アカデミー賞、メイクアップアーティスト&ヘアスタイリスト組合賞にもノミネートされている(写真/Sandro Baebier)

日本人がなかなか手に入れられないような世界的成功を収められたわけですが 、今振り返って、どうしてご自分にはそれができたんだと思いますか?

 ただ、好きでやり続けていただけですね。こだわりをもって、自分しかできないことをやろうと思い、ずっとやり続けてきただけ。何においても、いろいろ前例というものがあるんですけど、自分にあったやり方でやってないと、どうともならないんですよ。例にしたがってやっても、同じレベルにはいかない。その前例と同じにはならないんです。自分にはこれが正しいと思うことを信じてやってきたからかなと思いますね。

今の日本の若い人にアドバイスをあげるとしたら?

 自分が本当に好きなことを見つけて、自分の可能性を信じてやっていくのが大事、ということですかね。僕はよく言うんですが、 絶対、日本から2、3ヶ月出て、他の国で生活してみるべきです。日本は狭いので、日本で成功して一番になっても、世界で見たらたいしたことがないんですよ。ほかの国に行ってみて、高いレベルの中で経験を積むのが大事だと思います。

リックさんは、辻さんのことを大絶賛していらしたんですが、逆に辻さんはリックさんから何を学びましたか?

 あの人は、天才的な人なんで….。なんていうのかな、学ぶっていうより、尊敬の目で見るしかないという感じでしたね。あの人もこれが好きで、それだけの理由でやっているんですよ。純粋に好きで、楽しんでいる。そして本当にちゃんとやっているんです。僕もそうでしたけど。いつも工房で最後まで残っているのは、僕らふたりなんですよ。簡単にちょこちょことやってできるもんじゃないですから。本当にこだわって納得するまで、時間がなくなるまでやり続けるものなんです。

 みんな理解していないんですけど、天才として生まれた人なんて、誰もいないんですよ。そういう人は、人以上にやっているんです。 みんな、そこがわかってない。若い人は、大変だからとか、家にスペースがないから、お金がないからとか、言い訳ばっかり。 やりたかったら、どうしてでも、何をしてでもやらないと。それくらいの情熱がないと、どうともならないですよ。辛いのは当たり前。それをわかっていないから、できない。だから上手くいかないんです。努力しない天才なんて、いないんですよ。

オスカー授賞式は米西海岸時間3月4日(日)。「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」は、3月、日本全国ロードショー。

L.A.在住映画ジャーナリスト

神戸市出身。上智大学文学部新聞学科卒。女性誌編集者(映画担当)を経て渡米。L.A.をベースに、ハリウッドスター、映画監督のインタビュー記事や、撮影現場レポート記事、ハリウッド事情のコラムを、「シュプール」「ハーパース・バザー日本版」「週刊文春」「キネマ旬報」他の雑誌や新聞、Yahoo、東洋経済オンライン、文春オンライン、ぴあ、シネマトゥデイなどのウェブサイトに寄稿。米放送映画批評家協会(CCA)、米女性映画批評家サークル(WFCC)会員。映画と同じくらい、ヨガと猫を愛する。著書に「ウディ・アレン 追放」(文藝春秋社)。

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