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東京から2時間の新潟市 構想から150年、工事はたった?年だった信濃川治水大事業を見に来ませんか 

斎藤秀俊水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授
新潟大堰から見た夕日と佐渡島(令和2年10月11日差し替え、筆者撮影)

 東京から新幹線で2時間。新潟市にある関屋分水路を散策してみませんか。関屋分水路は信濃川の河口域、新潟駅西側にある、 長さ1.76 km、 川幅240 ~ 290 mの人工水路です。 信濃川の洪水被害から新潟市中心部を守っています。昭和43年(1968)の起工式から昭和47年(1972)の通水式まで4年という速さで土地を掘りました。この壮大な洪水対策事業を、川に沿って散策しながら感じることができます。

構想から150年

 図1は国土地理院のデジタル標高地形図(新潟)です。新潟市を網羅しています。緑や青で示された地域が海抜ゼロメートル地域となり、信濃川の洪水により浸水する可能性のある土地が広いことがわかります。新潟駅すぐ近くに鳥屋野潟があることからもそれがわかります。

図1 関屋分水路付近のデジタル標高(国土地理院デジタル標高地形図を元に筆者作成)
図1 関屋分水路付近のデジタル標高(国土地理院デジタル標高地形図を元に筆者作成)

 新潟市の分水路構想は、文政年間(1818- 1829)に横山太郎兵衛氏が土地改良を目的として提唱したのが初めと言われています。

 大正時代から第二次世界大戦中にかけて、関屋分水の必要性を熱心に説き続けた人物がいました。新潟市内で商業を営んでいた横山太平氏と柏原正夫氏です。信濃川の上流から運ばれてくる土砂によって、新潟港(現在の新潟西港)の水深が浅くなり、船の行き来が難しくなると心配されていたのです。お二人の銅像は、図2に示すように関屋分水路の河口にある関分記念公園内に設置されています。

図2 関分記念公園内にある横山太平氏(右)と柏原正夫氏(左)の銅像(筆者撮影)
図2 関分記念公園内にある横山太平氏(右)と柏原正夫氏(左)の銅像(筆者撮影)

 昭和35年(1960)頃になり市内の地盤沈下による洪水被害が目立つようになると、関屋分水路案が信濃川の治水対策の最善策とみられるようになり、合わせて新潟港の改良も含めた関屋分水路計画が本格的に検討されました。

 昭和39年(1964) 3月、まず新潟県の事業として着手されましたが、その6月に発生した新潟地震によって一時中断、昭和40年(1965)に、信濃川が1級河川に指定されたことも重なり、関屋分水路建設は国の事業として行うことになりました。翌昭和41年(1966)から、北陸地方建設局は地元との折衝、測量などの調査に着手し、昭和43年(1968)に分水工事の起工式を挙行、昭和47年(1972) 8月10日には待望の通水式を迎えたのです。

 構想から150年、でも掘ってしまえばあっという間の工事だったのですね。

関分記念公園を訪れる

 関分記念公園内に図3に示すような展望台があります。晴れていると、ここから佐渡島を見ることができます。関屋分水路側に目を向けると図4のように全体を見通すことができます。

図3 関分記念公園にある展望台(筆者撮影)
図3 関分記念公園にある展望台(筆者撮影)
図4 展望台からの景色(筆者撮影)
図4 展望台からの景色(筆者撮影)

 下流の1.3 kmは標高約20 mの砂丘を横断するため掘削方式で、上流の0.5 kmは築堤方式で施工されています。図4の手前河口部には新潟大堰。幅41.2 mのゲートが5門と両岸の魚道からなります。車道と歩道が併設されていますので、立派な橋です。その上流には浜浦橋、掘割橋、有明大橋、JR越後線鉄道橋、関屋大橋と続きます。河幅は約240~290 m、低水路幅は信濃川との分流点で272 m、中央部で195 m、河口部の新潟大堰地点では218 mとなっています。

 関屋分水路の両岸には遊歩道が整備されていて、河口から信濃川との分流点に向かってゆっくりと散策することができます。長さは直線で2 kmもありませんので、関分記念公園に車を駐車して、関屋大橋を渡るなどして、両岸合計4 kmほどの散歩をされたらばいかがでしょうか。当時の大工事の感触がつかめるかもしれません。

関屋分水資料館を訪れる

 河口の関分記念公園の向かいには、図5に示すように、関屋分水資料館があります。ここでは、関屋分水路ができるまでの工事の様子や、分水路に生息する生き物、そしてもし関屋分水路がなければ洪水の時どうなるのかなど、パネル等でわかりやすく説明しています。現在、新型コロナウイルス感染防止対策のため、平日のみの開館ですので、予め開館時間などを調べてから訪れることをおすすめします。

図5 関屋分水資料館(筆者撮影)
図5 関屋分水資料館(筆者撮影)

 関屋分水路との分水点より下流の信濃川流域は洪水に強くなったと言えます。図6は関屋分水路がなかった場合の予想水位がどの程度の高さになるか、その下流域を例に示しています。関屋分水路がなかった場合の予想水位は3.33 mとなり、図の左側の堤防の高さと匹敵しています。破堤すれば周辺の民家は3 m以上の浸水を受け、これは2階の軒下に達することがわかります。この想定は、平成23年(2011)7月27日から降り出した雨による「平成23年新潟・福島豪雨」災害時の水位から推測されています。そろそろ1年になる昨年10月の「令和元年東日本台風」(台風19号)では、信濃川の上流の大河津分水路において、平成23年新潟・福島豪雨の時の最高水位をさらに40 cmほど上回ったそうですから、図6の想定だと、予想水位はさらに上がったことでしょう。

図6 関屋分水路がなかった場合の予想水位 (国土交通省 北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所 関屋分水路パンフレットより抜粋)
図6 関屋分水路がなかった場合の予想水位 (国土交通省 北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所 関屋分水路パンフレットより抜粋)

【参考】日本一の大河を河川氾濫から守る 目からウロコの大工事

河口の波をなめてはいけません

 国土交通省からのお願い看板が河口道路に掲示されていました。「新潟大堰のゲート付近は分水路からの水と日本海との接点のため、不意に大きな波が打ち寄せる場合があり大変危険です。立ち入らないでください。」

 図7の河口の様子を撮影した日は波が大変穏やかな日でした。一見すると何の問題もなさそうで、釣りをしている人々も特に危険を感じていなかったと思われます。でも、穏やかな海が突然暴れだして人の命を奪うものです。ぜひ筆者記事「平穏な浜が突然牙をむく水難事故 古賀の浜 水難事故調レポート」を参考にされてください。

図7 関屋分水路の河口にある看板(筆者撮影)
図7 関屋分水路の河口にある看板(筆者撮影)

 突然の大波が沖から来ると、その波は新潟大堰のゲートに当たり反射します。そして、次に来る大波とぶつかって、異常な高さまで成長する巨大な三角波が発生します。その波は、図に写っている消波ブロックの積層体を大きく超えてきます。そしてその波は消波ブロックの上の人を簡単に海中に引きずり込みます。ここで発生する三角波は間近に見ればわかりますが、そのスケール感があまりにも見事です。

さいごに

 分水路工事中の昭和45年に面白いことが起きました。実はそれまで、上流にある大河津分水よりも下流のこの辺りは信濃川ではなかったのです。国の正式名称は「旧信濃川」で、大河津分水路が信濃川でした。それが昭和45年に大河津分水は「大河津分水路」となり、旧信濃川は晴れて「信濃川」に戻ったのです。

 新潟県の信濃川河口域における分水事業というのは、文久年間には会津藩塩騒動にまでつながる興味深い歴史をもっています。いろいろな歴史に思いをはせ、関屋分水路周辺を散策されてはいかがでしょうか。

参考HP

国土交通省 北陸地方整備局 信濃川下流河川事務所

分水路開通までの歴史を知ることができます。

会津と越後を結ぶ、水の街道 関屋分水路

会津塩騒動と新潟の関係が詳しく説明されています。

関屋分水資料館

資料館の詳細はこちらから。

新潟街角今昔

分水路工事の様子が市民目線で書かれています。

水難学者/工学者 長岡技術科学大学大学院教授

ういてまて。救助技術がどんなに優れていても、要救助者が浮いて呼吸を確保できなければ水難からの生還は難しい。要救助側の命を守る考え方が「ういてまて」です。浮き輪を使おうが救命胴衣を着装してようが単純な背浮きであろうが、浮いて呼吸を確保し救助を待てた人が水難事故から生還できます。水難学者であると同時に工学者(材料工学)です。水難事故・偽装事件の解析実績多数。風呂から海まで水や雪氷にまつわる事故・事件、津波大雨災害、船舶事故、工学的要素があればなおさらのこのような話題を実験・現場第一主義に徹し提供していきます。オーサー大賞2021受賞。講演会・取材承ります。連絡先 jimu@uitemate.jp

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