公と個の狭間で――ワクチンが問う医療報道
諸外国を追いかけるように、日本でも新型コロナウイルス感染症に対するワクチン接種が本格始動した。4月からは一般の人々が対象となる。
史上かつてないほどの大事業
政府は、まずは高齢者、次いで基礎疾患のある人々など……と徐々に範囲を広げていく方針だ。政府の見通しでは、米製薬企業ファイザー社との契約で年内にワクチン7200万人分の供給を受ける。ほかに米モデルナ社、英アストラゼネカ社とも契約を結んでおり、接種回数にして総計3億1400万回分を確保しているという。この数量からみても、最終的には接種人数を1億人規模にして、願わくは集団免疫の状態にもっていきたいということなのだろう。国レベルで史上かつてないほどの公衆衛生の大事業が始まったのである。
良いニュース、悪いニュース
現時点で接種の先行国から届く報道を参考にする限り、ワクチンの接種人数が数千万の域に達するころには、コロナ禍の新規感染者数や重症者数が目に見えて減ってゆくことが期待される。だが、その一方で、これほど大勢の人々が短期に集中して接種を受ければ、副反応を起こす人も相当数にのぼるのではないか、という心配がある。なかには重篤な症状の人も出てくるだろう。
接種率が高まるにつれて、日々、報道記者の手もとには良いニュースと悪いニュースが交じり合って届くことが予想される。その局面をメディアはどのように伝え、どう論評するか――医療ジャーナリズムは苦慮することになる、と私には思われる。
政府もゼロリスクを否定
この点については、政府のほうがすでに腹を括っている感がある。首相官邸の公式ウェブサイトで「新型コロナワクチンについて」のコーナーに入ってみよう。ワクチンは、どんな病気に対するものでも副反応の可能性があることを述べ、「治療を要したり、障害が残るほどの副反応は、極めて稀ではあるものの、ゼロではありません」と言い切っている。
これは、感染症対策の専門家なら百も承知のことなのだろう。だから、そういう事態に備えて、予防接種による健康被害に対しては救済制度も設けられている。事前にリスク情報を開示するのは当然の義務と言える。とはいえ、政府が国民の健康を守るための一大事業にとりかかろうというときに「障害が残るほどの副反応」のリスクもゼロではない、と明言していることの意味は大きい。
戦後史を振り返ると、政府は新技術を導入するとき、それに伴うリスクを小さく見せようとしてきたように思う。その典型が、原子力の「安全神話」だ。今回は、それとは違って「障害が残るほどの副反応」という厳しい表現まで使ってゼロリスクでないとの見方を表明した。そのことは前進と受けとめてよい。
恩恵対リスクの構図
官邸サイトの記述を字面通りに読めば、こういう理屈になる。ワクチン接種はリスクが避けられない。だから、情報は丁寧に開示する。みなさんは、受けるかどうかを「最終的には個人の判断で」決めてほしい――。各人の自由意思に委ねたかたちだが、契約数量の規模からみれば、一人でも多くの人に接種を受けてほしい、というのが本音だろう。
政府が、リスクがあることを認めつつ接種を進めるのは、ワクチンにはリスクを上回る恩恵があるとみているからに違いない。日本に限らず各国のワクチン政策の背景には、この論理がある。
恩恵には、大きく分けて三つある。発症予防、重症化予防、感染予防だ。前者二つは接種者本人のためになる。たとえば、ファイザー社のものでは発症予防について「有効性が95%」という治験結果が出ている。本人が恩恵を受けるのは間違いなさそうだ。三つめの感染予防は新型コロナの場合、見極めが難しい。無症状感染者が感染を広げたりもするので、発症予防が即、感染予防とならないこともある。ただ今後、接種が進めば効果が見えてくるかもしれない。もし感染予防ができれば集団免疫が生まれ、社会全体も恩恵に浴することになる。
問題は、この構図をマスメディアが適切に伝えられるかどうかだ。副反応の発生を大きく伝えれば、ワクチン敬遠の感情が生まれ、接種率を下げるおそれがある。逆にワクチンの効果だけを報道すれば、その陰で副反応の被害を受けた人々の人権を軽視することになりかねない。こんなときに私たちの社会はどんな選択をすべきか。その判断の助けとなる報道にメディアは心を砕かなくてはならない。
一般論で言えば、こんなときマスメディアは、バランスをとろうとする。両論併記のような報道だ。だが、これが正解とは必ずしも言えない。具体的に考えてみよう。
大規模接種でリスクが血肉化
官邸サイトは、新型コロナワクチンの副反応について「急性のアレルギー反応であるアナフィラキシーの発生頻度」が「100万人に5人程度」という米国での報告を引用している。「100万人に5人」は20万分の1の確率。宝くじで高額賞金を手にすることはまずないと思っている人なら、安心していられる数字だ。個々の接種のリスクには現実感がない。
だが、社会全体を見ると、そうは言っていられない。この確率が正しければ、接種を受ける人が5000万人なら250人ほど、1億人なら500人ほどがアナフィラキシーを起こすことになる。机上のリスクが、血肉を伴う現実の被害となるのだ。アナフィラキシーには薬物治療という対応策があり、接種場所では即応できる態勢が整えられているというが、発症者が数百人に及ぶなら、なかに重篤な症状の人が現れても不思議はない。
バランスをとるだけではダメ
政府は、新型コロナ対策の「基本的対処方針」で「国民に対して、ワクチンの安全性及び有効性についての情報を提供する」と約束しているから、重篤な事例の発生は公表されるだろう。もちろん個人情報保護の観点から、本人を特定できる事柄は伏せられることになる。メディアも、それをあばいたりはしないはずだ。ただ、当事者やその家族のなかに、副反応の体験を語って接種に負の側面があることを訴えたいという人が現れる可能性はある。たとえば、匿名が条件であれ、記者会見が開かれたらどうだろうか。それは当事者側の肉声だから、読者や視聴者の心を動かすことだろう。
ただ、こうしたときでもメディアは、日々伝わってくるワクチンの効果、すなわち恩恵の一面を伝えなくてはならない。バランスをとるという定石に従えば、「副反応」と「効果」に新聞なら同じ行数を割く、テレビなら同じ時間をあてがう、ということになろう。だが、そういう気遣いでよいのか、となると話は別だ。
メディアの任務は、ワクチンに対して私たちの社会がどういう選択をするか、その判断に役立つ情報――公衆衛生から生命倫理、法律や経済まで幅広い専門家の見解や海外の事例報告など――を整理して提供することだろう。もちろん、選択の主体は個々の有権者であり、その代表としての政府だ。メディアが決めることではない。ただ有権者、すなわち読者や視聴者が冷静に考えをまとめるのを手伝う役割はメディアが担っている、とみるべきだ。
「公」の問題、不慣れだった
日本の医療ジャーナリズムはこれまで、一人ひとりの心身の健康に注目する傾向を強めてきた。がんや糖尿病などの患者やその不安を抱く人々に寄り添い、診断治療の最新情報や健康増進の助言を発信してきたのだ。読売新聞「医療ルネサンス」、朝日新聞「患者を生きる」などの長期連載は、この流れのなかにある。だから、「個」の問題をとりあげるノウハウは身につけている。
ところが、「公」の問題は不慣れだ。公衆衛生の分野で、感染症の蔓延のように公益が私権とぶつかりあう危機が長い間なかったからだろう。コロナ禍とそれに対するワクチン接種で、医療ジャーナリズムは「個」のみならず「公」の視点も併せもたなくてはならなくなった。
「個」と「公」両にらみで
一方にワクチンが社会を救う現実があり、もう一方に、その副反応が一部の人を苦しめる現実もある。私たちはまもなく、そんな状況に置かれることになりそうだ。前者は「公」にとって、後者は「個」にとって、それぞれ大問題である。メディアは、その狭間で「個」と「公」どちらのことも考えなくてはならない。紙面のつくり方に、ニュースの出し方に、今までにはなかったほどの思慮深さが求められている。