何でも「安楽死」と呼びすぎる日本 「医療的幇助自殺」、「鎮静」との違いは

(写真:アフロ)

安楽死が話題になっている2019年6月

2019年6月19日、オーストラリアのビクトリア州で安楽死が開始となります。

自分で致死的な薬剤を用いる場合(医療的幇助自殺)も、それが難しければ医療者によって遂行される場合(安楽死)もあるようです<参考;https://www.parliament.vic.gov.au/publications/research-papers/download/36-research-papers/13834-voluntary-assisted-dying-bill-2017

また2019年6月2日のNHKスペシャル「彼女は安楽死を選んだ」で、神経難病である多系統萎縮症を患う50代前半の日本人女性が、スイスで医療的幇助自殺を遂げるドキュメンタリーが放映され、大変な話題となりました。

それを受け、筆者も自分のクリニックブログで改めて安楽死と緩和ケアの違いを取り上げたところ、多くの方に閲覧して頂いたようです。

安楽死という言葉はしばしば使われています。

匿名のネット空間では、「犯罪に他人を巻き込まずに1人で死ね。安楽死をそのために導入しろ」とか、「末期はモルヒネで安楽死させれば良い」とか、“何でも安楽死”というような使われ方が為されることもあります。

改めて、それぞれの言葉や意味を明らかにし、冷静に何が最良なのかを話し合うことが必要だと感じた次第です。

なお、筆者は倫理学・法学の専門家ではなく、2000人以上の終末期の方に携わってきた現場の医師であるため、その視点からの寄稿であることをおことわりしておきます。

日本は何でもかんでも安楽死と呼びすぎ

正確な医学の言葉として、狭義の安楽死が指し示すものはそれほど広くはありません。

それは医師等の医療者により、致死的な薬剤を注射等で投与されることによって、直接的な死がもたらされることです。

あまり馴染みがない言葉なので、いつも日本ではメディアを含めて「安楽死」の呼称になってしまいますが、先日のNHKスペシャルで描かれたのは「医療的幇助自殺」です。以前は「医師幇助自殺」と呼ばれましたが、最近は医師以外が致死薬を準備することもあるとして、医療的幇助自殺とも呼ばれることが増えて来ているとのことです。また自殺(suicide)という言葉が好まれず、死(dying)の言葉が使われるようにもなっているとのこと<世界の安楽死概観>。

イメージでは安楽死は広くヨーロッパで認められているような印象を持っている方もおられるかもしれませんが、そうでもありません。文献「世界の安楽死概観」によれば下記のようになっています。

  1. 安楽死のみ容認されている国・地域・・・カナダ・ケベック州、コロンビア
  2. 医療的幇助自殺のみ容認されている国・地域・・・米国の一部州<オレゴン州、カリフォルニア州、コロラド州、コロンビア特別区、モンタナ州(判例)、ワシントン州、バーモント州>、スイス(刑法解釈)
  3. 両方が容認されている国・地域・・・オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、カナダ連邦、(2019年6月施行予定)豪ビクトリア州

スイスというと「安楽死」と記事で書かれることが多いのですが、実際には医療的幇助自殺なのですね。

確かに、受ける側からすると、どちらも同じ、だからそんなに言葉にこだわる必要はないと思われる方もいるかもしれません。

ただ、やる側の医療者からすれば、施行してすぐに目の前で死去されるのと、薬だけ出すのとでは、心理的な抵抗感は異なるでしょう。今後、真剣にこれらの制度が話し合われる際は、必要な区分となって来るでしょうし、今から区別して使われるようになるのが良いと考えます。

安楽死か、安楽死以外か

処置は、命を直接的に終わらせる安楽死や医療的幇助自殺と、そうではないものに分けられます。

命を直接的に終わらせないけれども、治療をはじめからしない(→差し控え)、途中からやめる(→中止)という方法があります。

海外ではこれを「治療の差し控えと中止」と呼んでおり、事前指示による治療中止を法的に容認している国があります。アジアでは台湾、韓国、シンガポール、タイなどがありますが、日本は「人生の最終段階における医療の決定プロセスに関するガイドライン」で丁寧に話し合って決めてゆくというプロセスが提示されています。

なお日本は、私の印象では、不開始(差し控え)には寛容(やりやすい)ですが、中止―例えば人工呼吸器の取り外し―には厳しく、海外では差し控えと中止がほぼ等価と捉えられるのと違いがあります。

治療の差し控えや中止が、消極的安楽死や尊厳死と呼称されるのは、先述のNHKスペシャルでも紹介されていましたが、これらの用語はしばしば混同を招きます。

実際、消極的安楽死という言葉はふさわしくないという見解もあります<参考;Euthanasia and Physician-Assisted Suicide: a View From An EAPC Ethics Task Force>。

狭義の安楽死が、医師による致死的な薬剤使用による直接死であることから考えると、直接死に至らしめないことも少なくない「治療の差し控え・中止」という言葉と、消極的安楽死という表現はそぐわない印象もあります。

尊厳死という言葉も、海外では、例えばアメリカ・オレゴン州の「Oregon Death with Dignity Act」のように、尊厳死=医療的幇助自殺と捉えられて使用されており、日本で使われる「尊厳死」と指し示すものが異なります。

日本での尊厳死や平穏死は、その方の望まれるように治療を過度にならぬように調整し、穏やかに最後を送って頂くという意味で用いられ、私はそれらの言葉を嫌いではありませんが、今後「どこまでを日本では法で許容すべきなのか」という話をする際には、やはり海外の標準的な「安楽死」「医療的幇助自殺」「治療の差し控え・中止」と3つに絞って議論するのが良いと考えます。

緩和ケアがあります

日本で安楽死のような制度が真剣に議論され、導入如何が検討されるのはまだまだ先でしょう。

それでは安楽死がなければ、終末期は苦痛にのたうち回って最後を過ごすことになるのか―とひょっとしてそのような心配をされる方もいるかもしれません。

しかし、がんの場合は、余命が非常に限られている場合に、命の長さを大きく変化させることなく、胃カメラを眠って行うのと同じ鎮静薬を用いて(注;モルヒネではありません)、意識を低下させることによって苦痛を緩和するという「苦痛緩和のための鎮静」という方法があり、『がん患者の治療抵抗性の苦痛と鎮静に関する基本的な考え方の手引き』というガイドラインも出されています。

適切な時期にこれが行われることで、相当な苦痛は緩和することができます。ただし、施行が早すぎるとコミュニケーションを図る機会が損なわれ、遅すぎると苦痛を味わう時間が長くなるという難しさがあります。

またこの鎮静がなくても穏やかに時間を過ごせる方もいますが、必要な方もいるのは事実で、鎮静を正しく理解して適切に施行できる医療者の数が十分とは言えないため、そのさらなる普及が求められていると考えます。

さらに、現在は鎮静のガイドラインもがん対象のものしかないため、必要なケースでは他の病気においても使用できるようになってゆくことが課題だと考えます。慢性心不全や慢性閉塞性肺疾患の最終末期、あるいは先日、東京の公立福生病院の透析中止で話題になった、慢性腎不全の透析終了後の高度の苦痛等に対してです。また、筋萎縮性側索硬化症(ALS)の緩和ケアにおいても、海外の文献では鎮静に言及されています。

日本では、安楽死に比べて、鎮静の知名度はまだまだ高くありません。「鎮静にはモルヒネは使わないこと」「いきなり持続的ではなく、必要時に用いる方法で始めること」「適切な時期の開始ならば命の長さを大きく変えないこと」などをご存じない方も少なくないでしょう。ぜひ知って頂ければと思います。

なお、緩和ケアはより良く生きることを支えるケアであり、安楽死とは異なります。また苦痛緩和のための鎮静も安楽死ではありません。死をもたらすことを目的としていないためです。

欧州緩和ケア学会の白書<Euthanasia and physician-assisted suicide: A white paper from the European Association for Palliative Care>に『「その方の最も悲惨な状況においても、信頼とパートナーシップに立脚した繊細なコミュニケーションは、状況を改善し、彼/彼女の命に生きる価値はあるのだと見方を変えることができる」という考えに緩和ケアは立っている』という一節があります。絶望の中にも希望を見出し、再び生きても良いと思えるようにサポートし続けるのが緩和ケアです。

一方でもちろん、その限界もあります。

あるツイートを紹介します。

「病名がわかる前、最悪の事を考えることがよくあった。安楽死が認められてたら行けるところまで頑張るか、と思えるのになーなんてことも考えた。もしも安楽死の制度ができたとして、それによって生きようと思える人もいるだろうからこの議論は結論が出ない気がする。」

自分によって、いつでも苦痛がない終止符を打てるという安心感によって、生きられるという考えもあるとの指摘です。

それもあると思います。

今後様々な対話が為され、何が最良なのかということがよく話し合われていくことを願います。