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15周年を迎えた『モヤさま』 「なにも起こらない」面白さが街歩き番組を変えた

太田省一社会学者
(写真:アフロ)

 テレビ東京『モヤモヤさまぁ~ず2』(以下、『モヤさま』)が、この4月で開始15周年を迎えた。当初は深夜でひっそりとレギュラー放送が始まった同番組も、いまやテレ東を代表する番組だ。それと同時に、この番組は「街歩き番組」の新たなスタイルをつくった番組でもある。そんな『モヤさま』の魅力、そして歴史的意義を改めて探ってみたい。

新宿ではなく北新宿

 『モヤさま』が始まった当初、こんな長寿番組になるとは想像できなかった。とにかく、これほど脱力感あふれる番組も、あまり見たことがなかったからである。

 2007年に正月特番として初めて放送された際、訪れた街が北新宿。「新宿」ではあるが、中心からは少し外れたところ。有名スポットがあるわけではなく、普通の街ブラ番組では取り上げないような街だ。

 そんな街を、さまぁ~ずの2人とアシスタントの大江麻理子が目的もないままぶらぶら歩き、気になる店などがあるとふらっと入ってみる。だが特に変わったことが起きるわけでもない。『モヤさま1』がないのに「2」であること、ナレーションのショウ君の声がイントネーションの独特な合成音声であることなども、脱力感に輪をかける。

 要するに、すべてがユルい。だがそのユルさが、逆に新鮮だった。特番は評判を呼び、2007年4月からは深夜の30分番組としてレギュラー化。その後放送時間などの変更もたびたびあったが、いまや押しも押されもせぬテレ東の看板番組だ。さまぁ~ずも、テレビ東京開局50周年番組でMCを務めるなど、テレ東の顔的存在になった。

「リアルな素人」を見せる街歩き番組

 では、『モヤさま』の魅力は、具体的にどこにあるのだろうか? 

 やはり一番の魅力は、ただの「素人」ではなく、「リアルな素人」を見せてくれるところだろう。

 番組にも時々登場するテレビ東京のプロデューサー・伊藤隆行、通称伊藤Pは、ひとつのシーンを思い浮かべて『モヤさま』を企画したという。それは、こんなシーンだ。商店街を歩くさまぁ~ずの2人。そこに素人のイヤなおじさんが突然出てくる。逃げようとする大竹一樹。それを「逃げんじゃねえよ!」と制する三村マサカズ(伊藤隆行『伊藤Pのモヤモヤ仕事術』)。

 一見なんでもない場面だが、そこには街歩き番組の常識を覆すような斬新な発想が隠されている。

 街歩き番組で出会う地元の人びとは、大体の場合、人当たりがよく親切な「いいひと」だ。街歩き番組の代表格である『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK、1995年放送開始)などを思い出してもらえば、納得してもらえるだろう。だからこそ、そうした番組ではほのぼのとした気持ちになることができる。

 だが実際は、必ずしもそんなことはないはずだ。機嫌が悪かったり無愛想であったり、少なくともいつもニコニコしているとは限らない。しかしテレビカメラの前では、体裁を取り繕ってしまう。

 伊藤隆行が思い描いた先述のイメージには、そうしたテレビ的な建前を突き崩し、素人のリアルな姿を見せたいという意図があったと思える。北新宿というチョイスも、変にテレビ慣れしていない、等身大の素人に出会える可能性の高さを考えてのことだっただろう。

 たとえば、番組初期に登場した北品川(ここも「品川」ではない)での一幕が、まさにそうだった。

 昔下町でよく見かけた共用の井戸を見つけ、懐かしがって水を出してみるさまぁ~ず。すると井戸の前にある家の窓からひとりの男性が顔を出す。井戸のことを聞こうとするさまぁ~ずだが、いくら話しかけてもその男性は「え?」と聞き返す。その間がユーモラスでなんとも親しみが持て、さまぁ~ずは、その「え?」を聞きたさに、意味なく同じような質問を繰り返す。

 そこには、その男性の日常でのありのままの姿が垣間見える。そしてさまぁ~ずも、男性にただツッコんで終わりではなく、男性のリアルな「素」の部分の面白さを付かず離れずの距離感で引き出していく。そのさじ加減が絶妙だ。

さまぁ~ずが醸し出す「地元の子ども」感

 また、さまぁ~ずの芸人としての力量だけでなく、人間的魅力もこの番組には欠かせない。それは、さまぁ~ずが醸し出す「地元の子ども」感だ。

 三村マサカズと大竹一樹は高校の同級生で、ともに東京都墨田区出身(『モヤさま』で三村の実家が登場したこともある)。いわば、同じ下町の遊び仲間がそのまま芸人になったような匂いがある。そんな2人のまとう雰囲気が、どこの街であっても自分たちの地元のようにしてしまう。イタズラ好きだが憎めない。そんな2人の魅力が随所で発揮される。先述の北品川でのくだりも、さまぁ~ずの「地元の子ども」的空気感があってこそ、成立する笑いだろう。

 大江麻理子、狩野恵里、福田典子、そして田中瞳と代々テレビ東京の女性アナウンサーが務めてきたアシスタントも、そうしたさまぁ~ずの「地元の子ども」的空気感のなかで素の魅力を発揮してきた。

 彼女たちは、基本は進行役だが、さまぁ~ずに振られて特技を披露したり、一発芸を披露したりする。

 狩野恵里ならば、得意のピアノを披露し、本格的な発音の英語で洋楽を熱唱する。そのクセの強さをさまぁ~ずにツッコまれるが、狩野は動じることなく、やりきる。田中瞳も、世代的にはまったく知らない往年の人気タレント・宮尾すすむの想像物真似をさまぁ~ずに無茶振りされ、全力でやるようになった。アナウンサーがこれほどキャラ立ちする番組も、あまりないだろう。

 さまぁ~ずと彼女たちが、まさに子どものように遊びに興じる場面もおなじみだ。一緒に公園のすべり台で遊ぶなどは当たり前。その街のおもちゃ屋さんで買った水鉄砲で、みんながびしょ濡れになるまで遊ぶのも恒例になった。

 だから、『モヤさま』の女性アナウンサーは、肩書こそ「アシスタント」だが、大事な仲間でもある。ニューヨークへの赴任が決まり、番組を離れることになった大江麻理子にさまぁ~ずが送った「大江、お前は最高の相棒だったよ」という言葉が、3人の関係性を物語る。

テレビには「なにも起こらない」面白さも必要

 こうして『モヤさま』以来、街歩き番組は、単なる情報番組ではなくなった。

 そこにあるのは、一言で言えば「なにも起こらない」面白さだ。得てしてテレビは、「なにかが起きる」ことを強調する。当然であるかのように、「奇跡」や「感動」と呼ばれるような劇的ななにかが起きることをアピールする。だがそれも行き過ぎると興ざめになる。

 いわばその対極にあるのが、『モヤさま』だろう。そこでは、なにも起こらない。もちろんなにかを起こそうともしていない。だがだからこそ、そこに生まれる笑いは心地良い。そんな自然体のスタイルは、テレビが成熟したひとつの証しだ。

 テレビ東京自体、『モヤさま』をはじめとして、そんな「なにも起こらない」テレビをリードしてきた。たとえば、昨年末放送された『ヤギと大悟』を見ても、その伝統は健在だ。

 この番組は、千鳥の大悟が出演する旅番組。ただし、旅の主役は人間ではなくヤギだ。ヤギと大悟のペアがのんびり散歩しながら、ヤギが許可を得て時々民家や校庭の雑草を食べる。ただそれだけである。目的地などはなく、ヤギがお腹いっぱいになった時点で番組は終了する。

 これなどは、まさに究極のユルさだろう。そこには、『モヤさま』がもたらした「なにも起こらない」面白さのエッセンスが、しっかりと受け継がれているのが感じられる。やはりテレビには、そんな面白さも必要だ。

社会学者

社会学者、文筆家。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、歌番組、ドラマなどについて執筆活動を続けている。著書として、『水谷豊論』(青土社)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)などがある。

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