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初出場から今年で30年 平成期の番組の顔? SMAPの『紅白歌合戦』史を振り返る

太田省一社会学者
(写真:アフロ)

 『NHK紅白歌合戦』(以下、「紅白」と表記)の話題で賑わう季節がやってきた。実は今年2021年は、解散から5年が経つアイドルグループ・SMAPが、「紅白」に初出場してからちょうど30年に当たる。1991年以来、計23回の出場を誇ったSMAP。常連であっただけではなく、彼らが「紅白」という番組そのものを支えた時代が確実にあった。では、それはどのような時代であり、そこで彼らはどのように「紅白」の中心であったのか? この機会に改めて振り返ってみたい。

初出場、そして転換期を迎えていた「紅白」

 1991年9月9日のCDデビューから約3か月後、SMAPは早くも「紅白」に初出場(それ以前に、光GENJIのバックダンサーとして出演したことはあった)を果たす。白組の2番手として披露したのは、そのCDデビュー曲「Can't Stop!! -LOVING-」である。この年の紅組司会は浅野ゆう子で、彼女が主演した学園ドラマ『学校へ行こう!』(フジテレビ系、1991年放送)に中居正広と稲垣吾郎が生徒役で出演していた縁もあって、パフォーマンス終わりに「いやあ、白組のボクちゃんたち、元気ですねえー」と、親しみを込めて語る場面もあった。

 実はこの時期、「紅白」は大きな転換機を迎えていた。1960年代から1970年代には80%台を記録することもあった世帯視聴率は徐々に下がり始め、1980年代後半になると60%を下回るようにさえなった。その背景には、歌謡曲が衰退しはじめ、後にJ-POPと呼ばれる新しいジャンルの音楽が台頭する直前のちょうど端境期を迎えていたということがあった。音楽の潮流が変わり始め、国民的番組としての岐路に立たされた紅白。まことしやかに「番組打ち切り」さえ噂される、そんな時期に彼らは登場したことになる。

SMAPの「紅白」成長物語

 「紅白」において、当初よくあるアイドル歌手としての出場に過ぎなかったSMAPの位置づけが変わり始めるのは、1994年の「がんばりましょう」で白組6番手になったあたりからである。1996年には、初めての後半、しかもトップバッターという重要なポジションを任された。

 このとき歌ったのが、同年大ヒットした「SHAKE」である。その年の白組司会だった古舘伊知郎は、曲の前に、「時代をねじ伏せた男たち、SMAPの登場です」と高らかに紹介した。紅組司会で、その年木村拓哉と『ロングバケーション』(フジテレビ系)で共演していた当時19歳の松たか子も、観客席からのひときわ大きな歓声に「もう何も言うことはありません」と応じるなど、彼らは時代の寵児になりつつあった。

 また、歌手としての出場のみならず、1997年には、中居正広が白組司会に抜擢された。当時25歳での司会は白組の最年少記録で、オープニングでは、白を基調にした紋付袴姿で登場し、手にした扇子には大きく「ド緊張」と書かれていた(ちなみに中居は、これまで計6回、司会を担当している)のが初々しい。中居が司会を務めるようになったことで、NHKでありながら『SMAP×SMAP』(フジテレビ系、1996年放送開始)の人気キャラクターが登場するなど、SMAPを中心にしたバラエティ的演出も頻繁に見られるようになった。

 その一方で、本業の歌手としての「序列」も上がり続けた。1997年にも「ダイナマイト」と「セロリ」のメドレーで後半のトップを飾ると、翌1998年には、森進一、北島三郎、五木ひろしら演歌の大御所たちに挟まれ、白組の最後から3番目という番組の終盤で歌うことになる。曲は、グループにとって初のミリオンセラーとなった「夜空ノムコウ」。木村拓哉が弾くギターとともに歌い上げる5人を包み込むように、観客のみならず、歌手や審査員も一緒にペンライトを振る光景は、彼らが紛れもなく番組の主役になったことを表していた。

 そして2003年には、ついに初の大トリという大役を担うことになる。曲は、同年記録的な大ヒットとなった「世界に一つだけの花」である。しかも、「紅白」でグループがトリを務めるのは、これが史上初のことだった。それまで、トリはソロ歌手という暗黙の了解があったが、それを覆したのだ。このときの歌手別視聴率57.1%(ビデオリサーチ調べ。関東地区世帯視聴率)は、全出場歌手中のトップの数字だった。結局、2016年の解散(最後の出場は2015年)までに、全部で6回のトリ(すべて大トリ)を務めることになる。

 付け加えれば、トップバッター(1992年の「雪が降ってきた」)と大トリの両方を経験したのはSMAPのみ。それを見ても、1990年代から2010年代にかけての「紅白」は、このグループの唯一無二の成長物語とともにあったと言っても過言ではないだろう。

時代とともにあったSMAP

 ところで、大晦日に放送される「紅白」は、その年の世相を映し出す番組でもある。一種のニュース番組であり、歌のなかにその年の出来事、ひいては時代や社会の雰囲気が反映される。彼らはその点においても、この時代の「紅白」という番組を象徴する存在だった。

 たとえば、戦後60年という大きな節目の年に当たる2005年のトリで歌ったのは、「Triangle」(作詞・作曲:市川喜康)だった。その詞には、「戦火の少女」や「精悍な顔つきで構えた銃」という言葉が出てくる。また「破壊でしか見出せない 未来の世界を愛せないよ」とも、歌われる。曲全体としても、上の世代の記憶や思いを受け継ごうという、戦後60年という年に呼応した強い社会的なメッセージがあり、アイドルの一般的イメージからはかけ離れた楽曲だったと言える。

 また、2007年には、歌合戦が終わって審査結果の集計を待つあいだに、SMAPを交え、出場歌手全員で「世界に一つだけの花」を歌う場面があった。その際、白組司会の笑福亭鶴瓶は、環境破壊や争いごとを繰り返す人間の愚かさを嘆きつつ、同曲を「希望の一曲」と紹介した。

 そして、時代とともにあった彼らの魅力が最大限に発揮されたのが、2011年のステージだった。

 その年の3月11日に発生した東日本大震災は、繰り返すまでもなく、きわめて深刻な被害をもたらし、人びとのこころに言葉にし難い傷を残した。そんな一年の締め括りに、SMAPが大トリで歌ったのが、「not alone ~幸せになろうよ~」(作詞:権八成裕、作曲:菅野よう子)と1994年発売のシングル「オリジナル スマイル」(作詞:森浩美、作曲:MARK DAVIS)だった。

 「遠く離れた きみが今見る空は ぼくの見る空と 同じだと気づく」と被災地に寄り添うように歌う「not alone ~幸せになろうよ~」は、一転「笑顔抱きしめ 悲しみすべて 街の中から消してしまえ 晴れわたる空 昇ってゆこうよ 世界中がしあわせになれ!」と思いを爆発させる「オリジナル スマイル」へと続く。観客席に降りて会場も一体となって歌ったその場面は、「紅白」史上屈指の名場面と言ってよいだろう。

「紅白」の抱える課題

 昭和の「紅白」は、テレビとともに繁栄した歌謡曲が健在で、高度経済成長がもたらした「一億総中流」の意識もあって、あまり苦労せずとも一体感を醸し出すことができた。だが最初にふれたように、平成になってバブルが崩壊し、歌謡曲も衰退し始めると、一体感の基盤は崩れ、視聴率も下降傾向になった。

 そんな平成の「紅白」の危機を救ったのが、SMAPだった。歌、バラエティ、さらにドラマと多彩に活躍した彼らは「テレビの申し子」と言うに相応しく、歌謡曲に代わる存在として、性別や世代を超えて人びとをつなぐ中心的な役割を果たした。

 そして現在。インターネット発のヒット曲が増え、「紅白」出場歌手の多様化は顕著だ。加えて、世の中の価値観の多様化もますます進んでいる。それを象徴するように、今年は、「カラフル」をテーマに掲げ、番組のロゴも今までのように「紅」と「白」をくっきり分けず、そのあいだのグラデーションがあるマークへと変わった。また「紅組司会」、「白組司会」とせず、ただ「司会」と呼ぶことになった。

 では、そんな多様性の時代のなかで、どうやって一体感を得ればよいのか? それが、「紅白」の抱える大きな課題だろう。

未来への希望としてのSMAP

 解散から5年、そして「紅白」初出場から30年のいまこうして改めて振り返ってみると、SMAPこそは、多様性と一体感、その2つの両立を体現し得た存在だったのではあるまいか。メンバーそれぞれが見事なほどに“バラバラな個性”の持ち主でありながら、一緒になったときには、グループでしか生まれない輝きを放つ。そして、その輝きは、「紅白」という場で遺憾なく発揮された。

 そうだとすれば、「紅白」に12年連続で出場し、SMAPの空白の後を担った嵐も不在となったいまこそ、「紅白」のステージで「世界に一つだけの花」(作詞・作曲:槇原敬之)を歌う彼らを改めて見てみたいと、ふと思う。誰もが「もともと特別なOnly one」であることを静かに、そして力強く訴えるこの曲は、一人ひとり異なる個性を尊重する多様性の時代の始まりを先取りするものだった。なおかつ、それをSMAPが歌うことで、多様性のなかにも一体感は実現可能なのだということを、私たちは自然に実感することができた。

 だから、「紅白」のSMAPを振り返ることは、ただ単に懐かしさに浸ることではない。それは、私たちの未来への希望がそこにあったことを、もう一度発見することでもあるのだ。

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

社会学者

社会学者、文筆家。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。それを踏まえ、現在はテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、歌番組、ドラマなどについて執筆活動を続けている。著書として、『水谷豊論』(青土社)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)などがある。

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