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陸上日本選手権、女子100mハードル4選手の、ハイレベルで、非情な戦い。そこで見えた心模様は‥‥。

折山淑美スポーツライター
日本選手権女子100mH決勝。結果を見る寺田と青木、福部(左2人目から)(写真:長田洋平/アフロスポーツ)

 12秒73の日本記録を持つ福部真子(日本建設工業)を筆頭に、今年の世界選手権参加標準記録の12秒78も視野に入る12秒8台を持つ3名を加えた4選手の厳しい競り合いになると予想された、日本陸上選手権女子100mハードル。6月3日の決勝では、0秒04差の中で4人全員がゴールする熾烈な戦いでその期待に応えてくれた。

 だが向かい風1・2mの中でスタートしたレースは、寺田明日香(ジャパンクリエイトグループ)が同じ12秒95ながら0秒007差で青木益未(七十七銀行)に競り勝って優勝。田中佑美(富士通)が12秒96の3位で福部は12秒99の4位と、最多3枠の世界選手権代表は世界ランキングでの出場が可能な上位3名となり、唯一標準記録を突破している福部が呑むという非情な結果にもなった。

 4人の戦いは強い雨の中で行われた、前日の予選と準決勝から始まっていた。

 その中で最もプレッシャーを感じていたのは福部だった。昨年は日本選手権で初優勝したあと、2週後の布勢スプリントで12秒突入の12秒93を出すと、高いレベルを維持して初出場の世界選手権も準決勝で12秒82の日本記録をマーク。その後は国内でも12秒台を連発して、9月の全日本実業団では12秒73まで記録を伸ばした。

 だが今年は、日本選手権3位以内で世界選手権内定という有利な立場になりながらも、昨年とは一転して追われる立場になった。さらに昨年までの12秒台は福部を含めて3人だけという状況から、4月の織田記念で初めて12秒台に入った田中が3戦連続で自己記録を更新して12秒89まで伸ばしたことで状況が変わった。昨年はスプリント強化でハードルを休んでいた寺田も5月には2戦連続で12秒86と調子を上げ、昨年の世界選手権代表の青木も含めれば誰かが世界選手権代表3枠から落選することになったからだ。

 有利な立場にいるからこそのプレッシャー。それを跳ね飛ばそうとする福部の予選走りには少し力みも見えた。それでも唯一12秒台となる12秒99を出すと、寺田との対戦となった準決勝では先行する寺田を最後にとらえて0秒005差で競り勝つ、12秒97のトップ通過。雨中の12秒台連発で自分を取り戻せたかに見えた。

 だがトップ通過が逆にプレッシャーを増幅させた。「招集前からずっと震えが止まらず、今まで感じてきたプレッシャーを遙かに超えているなと感じていた。スタートラインに立った時も全身の筋肉がこわばるような感じで、気持を落ち着かせようとしても自分が1番でゴールするイメージをまったくできず、怖さの方が緊張感を上回ってしまった」という。

 準決勝2位通過なら気持は大きく違っただろうし、男子100mと同じように準決勝と決勝が同じ日になるスケジュールなら決勝はまた違う意識で臨めたはずだ。決勝まで1日空いたスケジュールも、福部に取ってはマイナス要素になった。

 それと対照的に、最も余裕を持っていたのは寺田だった。本人の目標はあくまでも来年のパリ五輪で、世界選手権は「標準記録を突破して出られたら出る」というスタンス。昨年取り組んだスプリント力強化の手応えも感じ、パリ五輪参加標準記録有効期限の7月1日以降に12秒77の参加標準記録を突破し、12秒6台を安定して出せるようになるのが目標だった。

 それもあってか予選は最初から最後まで余裕を残して13秒28で走り、準決勝は「4台目までをしっかり意識し、あとは力まず流れていけばいいと思った。決勝に向けてコンディションを整えるレースができればいいと思っていたが、余裕を持って走っても12秒台が出るんだなという感じはある」と手応えを感じる走りにした。そして前半でリードした決勝も、最初に誤判定で2位までに入らない表示が出た時でも「あぁ、差されたんだなと思っただけ」と、あっさりした反応だった。

「中盤はダラけたところもあったけど、みんなが後ろから来ることはわかっていたので冷静に行くことを考えていた。もっと前に出て勝負したかったのでそこは不満だが、追いつかれても競り勝てたのは評価できると思う」(寺田)

 今年はスプリント力が上がったことで、ハードリングの動作もこれまでより速くしなければいけなくなり恐怖心も生まれているという。「それを克服するのが今の課題」というが、スピードを抑制される向かい風1・2mという条件も、寺田とってはプラスに作用したのだろう。

 2位になった青木は今季のランキングは4番目の12秒94で、5月21日のセイコーゴールデングランプリも5位という結果で不安も持っていた。「ゴールデングランプリで12秒台が5人になってからは、『もしかしたら日本選手権も4番で世界選手権の代表になれないのでは』ということばかり考えていた」という。だがそんな状況だったからこそ、挑戦する意識を持てたのだろう。

 予選では向かい風0・3mで13秒22だったが気持を前面に出す走りをし、準決勝も同走の田中を0秒01差で抑える気迫の走りをした。そんな攻めの気持は決勝でも持てたことで「レース中何台かハードルが浮いてしまったので『こういうレースをしていたら、この選手たちの中で勝てるわけないな』と思いつつ、しっかりインターバルを刻んで遠くから踏み切れば自分のスピードを生かせればと思って走った」という、彼女らしい粘りを見せる走りができた。

 3位の田中は、「今シーズン急激に記録が上がってきた選手なので、世界選手権は目標にはしていたが、具体的に想像が付くほど近いわけではなかった」とフラットな気持で臨めたのがプラスに作用した。これまで12秒台を出した時も「自分の走りを意識するだけ」と言う、崩れないハードリングで後半に追い込んでいた。

「スタート前から、音が鳴ったら出る。それ以降はなんとかなると思い、最後まで落ち着いて走るという3本立てでやってきているのが、この混戦の中でも落ち着いて戦えた理由だと思います。でも今回はメンタルのコントロールも重要だなと思いました。真子さんが『寝られない』と言っていたけど、私も具体的に想像すると全身が心臓になったみたいで眠れなくなりそうになったので、あえて違うことを考えることを意図的にやりました」(田中)

 感情が追いついてくるのが遅いので、まだ3位の実感は湧いてないと話していた田中だが、「少し時間がたって2位までがアジア選手権だったなと思って悔しくなりました」と笑う。そんなほんわかした性格も彼女は自分の強みにしている。

 ただこれからを見れば、今年の代表の夢は途絶えたが福部は今回の経験で精神的にはたくましくなってくるはず。技術などの情報を共有して、「みんなで世界に向かいたい」という意識を持っている彼女たちだが、少し前なら夢の記録だった12秒台を出しても代表から外れる選手が出てくるという厳しい状況になった。

 今回の日本選手権は、その非情な戦いが日本の女子100mハードルのレベルをさらに押し上げる原動力になるはずだということを、明示してくれる大会になった。

スポーツライター

1953年長野県生まれ。『週刊プレイボーイ』でライターを始め、徐々にスポーツ中心になり、『Number』『Sportiva』など執筆。陸上競技や水泳、スケート競技、ノルディックスキーなどの五輪競技を中心に取材。著書は、『誰よりも遠くへ―原田雅彦と男達の熱き闘い―』(集英社)『船木和喜をK点まで運んだ3つの風』(学習研究社)『眠らないウサギ―井上康生の柔道一直線!』(創美社)『末続慎吾×高野進--栄光への助走 日本人でも世界と戦える! 』(集英社)『泳げ!北島ッ 金メダルまでの軌跡』(太田出版)など。

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