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沖縄民衆運動の到達点としての生存権を描く  輿石正監督 『シバサシー安里清信の残照―』

大野和興ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

沖縄戦後史の重要な出来事である反CTS闘争のリーダー安里清信の生涯を描いたドキュメンタリー映画である。監督は沖縄に根を張り、活動する輿石正さん。制作は輿石さんが代表をつとめるじんぶん企画。ドキュメンタリーというありきたりのジャンル分けではなく、評伝映画といった方が適切かもしれない。沖縄を体現する一人の人物の精神史が見事に切り取られ、映像に定着されている。日本の沖縄支配が生んだ強靭な個性の精神の旅は、いまオスプレイ配備に対し徹底した闘いを挑んでいる沖縄の人びとの思いの源流がどこにあるのかを教えてくれる。

安里清信は第一次大戦の前夜、1913年に沖縄・与那城村慶名で生まれた。大戦後に襲った恐慌のなかで沖縄は極度の飢餓に襲われる。人びとはソテツを食べ、飢えをしのいだ。毒性があり、調理法をあやまると死の危険性があるものだ。ソテツ地獄と呼ばれた。学校では天皇と日本国家への忠誠心を注入する徹底した皇民化教育がおこなわれていた。幼児そして少年期に体験した貧困・飢えと皇民化教育が安里の精神形成の大きな要素となる。豊かな実りと安心をもたらしてくれる大地と海への信頼と権力による精神の縛りへの反発である。これが、安里が晩年の十年をかけて闘いぬいた反CTS闘争につながる。

権力による精神の縛りへの反発、と書いた。そんな生やさしいものではないよ、と安里はいうかもしれない。ここには安里ももう一つの体験が加わる。15歳で嘉手納農業高校に入学した安里は、卒業の何年か後、朝鮮に教師として赴任する。23歳だった。出発に際し、安里の叔父の一人が彼にいった。「朝鮮も沖縄も日本の植民地で、同じような苦しみを味わっている。そのことを忘れないように」。輿石は、叔父のこの言葉は安里のその後の生き方を決めた、という意味のことを、この映画で語っている。

安里25歳、日中戦争がはじまった。安里は現地で三回赤紙が来て応召される。中国戦線で部隊の大半が戦死する激しい戦闘も経験した。朝鮮で敗戦を迎える。妻が乳飲み子とともに自決。安里、32歳。アジア太平洋戦争は終わったが、安里の戦争は彼が69歳で死ぬまで続く。

帰りついた沖縄では瓦礫と飢えからの再生が待っていた。しかし、日本軍に代わって米軍が登場、土地取り上げが頻発し、いまに続く基地との闘いが始まる。安里は教師として再び教壇に立つ。輿石の映像は、その資格があるかを自らに問う彼の揺れ動く心を描く。初の公選制琉球政府屋良朝苗主席の実現、本土復帰、屋良革新知事の誕生と彼の闘いは続くが、何かしっくりこない。輿石の映像はその微妙な心の揺れをそこはかとなく見るものに暗示する。

1971年。安里66歳。金武湾を埋め立て、石油基地・コンビナートを建設する開発計画に反対する反CTSの住民運動とともに行動を起こす。「金武湾を守る会」をつくり、代表に。闘争は座り込みやデモ、学習会、裁判闘争と多彩に闘われる。安里も周りには常におじい、おばあがいて、闘いの中で若者に話しかけ、踊りや歌や言い伝えを通して琉球の文化を伝える。輿石の映像は、反CTS闘争が文化運動でもあったことを見事に伝えている。

75年は沖縄海洋博と金武湾座り込みが同時並行する。ベトナムでは民族解放戦線によって米軍が海に追い落とされていた。安里は闘いの日々になかで、本土復帰とは何だったのかを問い続ける。「守る会」は生存権裁判を提起する。安里が執筆した訴状は、海と大地への感謝の言葉で始まる異色のものだった。そして闘いのスローガンは“海と大地と協同の力”。焦土と化した戦後の沖縄と、人びとのいのちを支えたのは、海草と魚と貝といもだった。その海を死に追いやる金武湾埋め立てと石油基地・コンビナートは許せない人びとの思いが、この言葉には込められていた。

哲学者花崎皋平は、安里の思想の原点をこの生存基盤と一体のものとして生存権をとらえる、この考え方にあるとして、次のように述べている。「(安里の)『生存権』の主張は、生存基盤との一体的な生き方に倫理的、精神的な価値を置く世界観、自然観と結びついていた。(中略)『生存』はたんに個としての生存を意味するのではなく、類的な、永遠の、絶対的な『生存』であった」(『田中正造と民衆思想の継承』七つ森書館2010年)。

開発計画は日本国、自分たちがつくったはずの革新県政、産業振興を夢見る村当局が一体となって進めていた。その開発計画には原子力発電所建設も明記されていた。10年にわたる住民の闘いは、埋め立てを最小限に面積に食い止め、原発建設を阻止した。いま沖縄には福島第一原発の放射能禍を逃れ、多くの人が移住している。「原発のない沖縄」の陰にこうした闘いがあったことを、どれだけの人が知っているだろうとふと思った。

安里は1981年11月、東京で最後の講演をしている。その時のテーマは「ヤマトユからウチナンユへ」というものだったと輿石の映像は伝えて、「独立へ」ということだったと輿石自身のナレーションで述べている。オスプレイ配備の強行は、沖縄の人びとの尊厳を傷つける侮辱以外の何物でもない。いま沖縄では広く静かに独立論が浸みわたっていると聞く。安里の闘いは終わっていない。  (制作:じんぶん企画 90分、DVD定価:税込3000円、お問い合わせは「じんぶん企画」0980-53-6012)

ジャーナリスト(農業・食料問題)、日刊ベリタ編集長

1940年、愛媛県生まれ。四国山地のまっただ中で育ち、村歩きを仕事として日本とアジアの村を歩く。村の視座からの発信を心掛けてきた。著書に『農と食の政治経済学』(緑風出版)、『百姓の義ームラを守る・ムラを超える』(社会評論社)、『日本の農業を考える』(岩波書店)、『食大乱の時代』(七つ森書館)、『百姓が時代を創る』(七つ森書館)『農と食の戦後史ー敗戦からポスト・コロナまで』(緑風出版)ほか多数。ドキュメンタリー映像監督作品『出稼ぎの時代から』。独立系ニュースサイト日刊ベリタ編集長、NPO法人日本消費消費者連盟顧問 国際有機農業映画祭運営委員会。

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