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家族5人を震災で失った少年。今、12年分の思いをともしびに込めて/フリーランサー 千葉瑛太さん

岡沼美樹恵フリーランスライター/編集者/翻訳者
現在は、フリーランサーとして全国を飛び回っている千葉瑛太さん

まもなく、3月11日。多くの人の命を奪った東日本大震災のことを、必然と思い出す季節になりました。この日、家族を失った子どもたちも少なくありません。

宮城県気仙沼市で生まれ育った千葉瑛太さんも、そんな子どもたちのひとりです。

その瑛太さんは、今年から、気仙沼で3月11日に行われる「3.11 BLUE CANDLE NIGHT」にプロジェクトメンバーとして参加することになりました。瑛太さんが地元・気仙沼のプロジェクトにかかわるのは、これが初めてです。12年の間に彼に起こったこと。そして今の彼が取り組もうとしていること。幼かった少年は今、ふるさとの気仙沼でこれまでの思いをカタチにしようとしています。

3週間家族に会えない。「そういうことかな」と覚悟はしていた

瑛太さんが9歳、小学校3年生のときに、あの東日本大震災が起こりました。

発災当時、瑛太さんは小学校で帰りの会の真っ最中。「実は、震災の2日前にも結構大きな地震があって、そのときは特に大きな被害はなかったんです。でも、震災のときは『明らかに一昨日のとは違う』と感じました」と、瑛太さんは当時を振り返ります。

先生の誘導で校庭に避難したものの、校庭は地割れを起こしており、教室に戻って不安な夜を過ごしました。震災翌日の昼になると、叔父さんが瑛太さんを迎えにきてくれて、そのまま叔父さんの家で避難生活を送るようになります。「2日後に父親と再会できました。でも、おじいちゃん、おばあちゃん、母親、妹たちとは会えないままでした」。

時間ばかりが過ぎてゆく中、「3週間も会えないってことは、そうなのかな…ってどこかで思っていたんです。だから、5人が亡くなったことを知ったときはやっぱりそうか…って、妙に納得したのを覚えています」。

何気ない一言で、父がバッティングセンターを設立!

しばらくすると、父親の清英さんは、震災で大きなダメージを受けた稼業の牛乳販売店を立て直すために奔走し始めます。瑛太さんもお父さんの出張に同行しました。「岩手に行ったときに、バッティングセンターに立ち寄ったんです。父親も野球をしていたし、僕も小学生のころから野球をしていたから。きっと、バットとかボールに触れることで、親子のコミュニケーションをとろうとしてくれたんじゃないかな。岩手出張のたびに、バッティングセンターに連れて行ってもらって、それは僕たち親子にとってとても大切な時間でした。それで言ったんですよね。『気仙沼にもあったらいいのにな。ねぇ、作ってよ』って」。

バットを一緒に振る時間は、親子にとって特別な時間でした
バットを一緒に振る時間は、親子にとって特別な時間でした

その言葉を聞いた清英さんは、二つ返事で「うん」と返答。ところが、半年経っても何のアクションもありませんでした。

「それで僕、『ねぇ、いつ作るの?』って聞いたらしいんです。それで父親は僕が本気だと思ったみたいで。それまでも、ご飯作って、仕事に行って、すごく忙しかったはずなのに、父親もそこで本気になってくれた。そして2012年にバッティングセンターに着手し始めたんです」。

瑛太さんが小学生のときに書いたメッセージ
瑛太さんが小学生のときに書いたメッセージ

地域の人たち、そして全国の人たちからの応援もあり、バッティングセンター「気仙沼フェニックスバッティングセンター」は、2014年に完成しました。7つある打席は、すべて両打ち。それは、清英さんが左打ちで、バッティングセンターに左打ちが少ないことがちょっぴり不満だったから。

「オープンした日のことは忘れません。本当にたくさんの人が来てくれて。こんなにたくさんの人がかかわってくれたんだ…ってすごくうれしかったのを覚えています。当時、僕は小学校6年生になっていました」。

向き合い続けた8年分の3.11

その後、地元の中学校に進学した瑛太さん。ある日、清英さんから驚くような提案を受けました。

「東京の高校に行け、と言われたんです。僕は地元の高校に進学する気でいたので、『なんでそんなこと言うんだよ』って、喧嘩になって。でも、今なら父親の気持ちがすごくよくわかるんですよね。『もっと広い世界を見てこい』ってことだったし、実際に進学後は、東京で寮生活をしながら自分で自分の身の回りのことをしたり、全国から来ている人と友達になって、僕の世界は一気に広がりました。本当に井の中の蛙だったんだな、って思い知りましたね」。

帰省時には、自転車で東京から気仙沼まで帰ったり、ヒッチハイクをしたり、日本全国を旅するようになったそうです。その中で、瑛太さんは海外にも出かけるようになりました。「高1の研修でハワイ、2年生のときに父親と台湾に旅行して、3年生のときには、アメリカのオレゴン州に留学しました」。

当時9歳だった少年は、今では父とお酒を楽しめる年齢になりました
当時9歳だった少年は、今では父とお酒を楽しめる年齢になりました

新しいことや人に出会い、挑戦を続ける一方で変わらないこともありました。

それは、新聞社やTV局による毎年恒例の3.11の取材。

「毎年同じことを聞かれて、『また同じ質問かよ』と思っていましたが、あるとき、自分の中で『あれ?去年と考えていることが変わったな』とか『もしかしたら当時はこんなふうに考えていたかも』と、毎年迎える3.11を通して、考え方がどんどんアップデートされていきました」。

自分の中に落とし込めていたことで、「慌ただしい日常の中で、3.11だけは自分の内面と向き合える貴重な機会になっていることに気づきました。そして、旅路での出会いや、僕の発信を見てくれる人が多くなり、過去の経験や気仙沼に興味を持ってくれる人も増えました。それならこれまで続けてきた3.11への思いや願いの発信を、目に見える形にしたいなと思いはじめるようになっていきました」。

高校卒業後、瑛太さんはイギリスの大学への進学を目指して勉学に励みますが、新型コロナウイルスの世界的パンデミックによって、計画がとん挫します。「ポコッと時間が空いたんですよね。それで僕、旅に出たんです。大阪の四ツ橋っていうところのホテルに行ったら、オーナーが気仙沼にゆかりある方で。僕もご縁を感じて、東京の八王子からバッグ1個だけで移住することにしました。そのうちに、パソコン1台持って、旅をしながら働けるフリーランスの仕事に興味を持つようになって、2022年の5月からフリーランスとして働くことにしたんです」。

以降、企業や個人事業主の広告、SNSの運用、LINEを使用したマーケティングを受託しているという瑛太さん。今でも、活動の拠点は東京と大阪です。そんな瑛太さんが、記事冒頭でも紹介した「3.11 BLUE CANDLE NIGHT」に参加することになったのはなぜなのでしょう。

今なら、ふるさとの気仙沼に何かができる!

個人事業主として企業のwebマーケティング支援を仕事に、全国を飛び回る瑛太さん。

「学生時代は自分のことだけでいっぱいいっぱいでした。ずっと気仙沼に何かお返ししたいって思っていたけれど、どう考えても実力不足で。そんな中で、成人式以来、1年ぶりに情報収集もかねて気仙沼に帰ったとき、杉浦さんと久しぶりに会って話をしたんです」。

2022年の3.11 BLUE CANDLE NIGHTの様子
2022年の3.11 BLUE CANDLE NIGHTの様子

杉浦さんとは、気仙沼初のシェアオフィス「co-ba KESENNUMA」や、ゲストハウス「SLOW HOUSE @kesennuma」のオーナーで、「3.11 BLUE CANDLE NIGHT」を主催する「ともしびプロジェクト」の発起人である杉浦恵一さん

ともしびプロジェクト」は、毎月11日にキャンドルを灯してSNSなどで発信し、被災地に思いを寄せようという活動を続けています。

2011年11月11日の第1回目から、月命日の11日にキャンドルを灯してゆく活動は、今年で12年目を迎えました。そして、2022年からは、海と空をイメージした青いキャンドルに明かりを灯す「3.11 BLUE CANDLE NIGHT」を3月11日に行っています。

青いキャンドルに火を灯し、東北に思いを寄せるイベントです
青いキャンドルに火を灯し、東北に思いを寄せるイベントです

「もともと、杉浦さんのことは知っていて、“キャンドルの人”っていう認識でした(笑)。震災から10年以上たって、いろいろなことが風化していく中で、『100年、1000年と残していきたい』っていうこの活動にすごく親和性を感じました。それで、一緒にやらせてほしいって話をしたんです。僕は、これまでメディアでお話させていただく機会もあって、伝えてくることはしてきたけれど、形にするということはできていなかったから」。

さらに、こうも話します。

「杉浦さんが大切にされてきた『灯す』の意味をこれから深めていきたいと思ったんです。正直、今は『灯す』ことに特別な理由や意味は私の中でありません。でも、3.11もずっとそうでした。当時3.11に特別な想いなんてなかったですから(笑)。でも、毎年毎年、同じ日に震災に向き合い続けることで、自身の考えが深まり、その思いに共感や応援が集まってきました。今の僕にできることで、イベントを支えていきたいと思っています」。

瑛太さんは、自身が得意とする「マーケティング力」で、このプロジェクトを支えます。

「今は、動画でもショートが主流で、なんでもコスパを重視する時代。でも、この『3.11 BLUE CANDLE NIGHT』をきっかけに、きちんと振り返る時間を持ってほしい。気仙沼で青いキャンドルに灯りをともす文化を、長い時間をかけて定着させていきたいと今では考えています」。

「3.11 BLUE CANDLE NIGHT」は、誰でも参加が可能。

公式ウェブサイトから申し込めば、送料の198円だけで20本までの青いキャンドルを自宅に配送してもらえるので、日本全国から参加することが可能です。また、気仙沼では、杉浦さんのキャンドル工房を開放。夜には、宗教を超えて祈りをささげる「命灯会」を行います。

杉浦さん(写真中央)の企画した命灯会では。宗教も国境も超えて祈りを捧げます
杉浦さん(写真中央)の企画した命灯会では。宗教も国境も超えて祈りを捧げます

杉浦さんはこう語ります。

「今回、瑛太がプロジェクトに共感してくれて、一緒に作り上げる仲間になってくれたように、当時まだ幼かった子が、参加してくれることを願っています。何で表現し、カタチにするかを模索した10年。これからは次の世代に「灯す」を繋げていきたいと思います。世界中の灯す文化だって、そうやって受け継がれてきていると僕は思うんです。そして、全国のたくさんの人がこのプロジェクトに賛同してくれて、小さな明かりをみんなが持ち寄って大きくしていければ嬉しい。そんな仲間を僕と瑛太は募集しています」。

このプロジェクトは公式L I N Eがメインの発信媒体となり、リアルタイムで情報を更新しています。まずは気軽に「ともしびプロジェク」トの公式L I N Eに登録してみてください。

2023年の3月11日は、土曜日。気仙沼に来てみるもよし。遠くから思いを寄せるもよし。ぜひ、今年の3.11には青いキャンドルに火をともして、東北に思いを寄せてみませんか?

フリーランスライター/編集者/翻訳者

大学卒業後、株式会社東京ニュース通信社に入社。編集局でテレビ誌の制作に携わり、その後仙台でフリーランスに。雑誌、新聞、ウェブでエンターテインメント、スポーツ、広告、ビジネスなど幅広いジャンルの執筆活動を行う。2016年よりウェブメディア「暮らす仙台」で東北のよいもの・よいことを発信。ローカルビジネスの発展に注力している。好きなものは、旅、おいしいものを食べること、筋トレ、お酒、こけし、猫と犬。夢は、クリスマスのニューヨーク・セントラルパークでスケートをすること。妄想は、そのスケートのお相手がジム・カヴィーゼルだということ。

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