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圧倒的「大丈夫力」が、若者たちを惹きつける/SLOW HOUSEオーナー 杉浦恵一さん

岡沼美樹恵フリーランスライター/編集者/翻訳者
「SLOW HOUSE @kesennuma」オーナーの杉浦恵一さん

宮城県気仙沼市は、カツオやホヤ、フカヒレなど豊かな海産物があることで知られる港町。その気仙沼に、2022年に新しいゲストハウスがオープンしました。それが、「SLOW HOUSE @kesennuma」。今回の物語の主人公は「SLOW HOUSE @kesennuma」オーナーの杉浦恵一さんです。

瀕死の大事故が変えた人生

愛知県で普通のサラリーマン家庭に生まれ育った杉浦さんは、高校生のときに、生死をさまようほどの大事故に遭います。気づいたときには、病院のベッドの上で、体を動かすこともままならず、ひたすら天井を眺めていたそうです。そのときに、大事故を生き延びたことの意味を考えながらも、杉浦さんは東京に行くことを決意しました。

「『オラ東京さ行くだ』的な感じで。退院して卒業した後に、2回目の手術するまでに半年の時間があったので、とりあえず3000円握りしめて東京に向かったんですよ」。

ヒッチハイクをしながら、東京の友人宅を訪ねた杉浦さん。その後、東京で知り合った人たちの家を泊まり歩き、2週間ほど滞在。そして、一度愛知に帰った杉浦さんは、「世話になりまくって、申し訳ないなって思って。手術まで時間あるから、バイトして10万くらいためてまた東京に行ったんです。ご飯くらいなら返せるなと思ったら、全員に断られて(笑)。またごちそうになっちゃって」。

東京の後は、3万円を握りしめて沖縄へ

東京に友人ができたという経験が「めちゃくちゃ面白かった」という杉浦さん。アウェーに行く楽しさを経験した杉浦さんは、手術後、今度は3万円を握りしめて沖縄に向かいました。しかしながら、滞在先のゲストハウスで財布を盗まれてしまう事件が発生。しかも、当時持っていた折り畳み式の携帯まで折れて壊れてしまいました。

「財布ない、携帯ない、免許ない。さすがに、『やばっ!』って一瞬なって。でも、海に行って空見たら、なんかいつもよりエモさがあって。社会と接続していない中で、はっきり海と空がきれいと思えて気分がよかったんですよ(笑)」。

常人であれば、絶望感にさいなまれそうなシチュエーションを杉浦さんは「楽しくなっちゃった」と言い切ります。しかしながら一文無しでは、ゲストハウスにもいられません。仲間が持ってきてくれた求人誌を見て仕事を探し、杉浦さんは仕事に就きました。4か月ほど沖縄で暮らしたある日、杉浦さんの首からガラスが出てきて、再び手術が必要に。

「愛知に戻って手術して、元気になったときに、沖縄で出会ったバイク乗りの人が『お遍路、よかったよ』って言っていたのを思い出して。僕もお遍路に行くことにしたんですよ」。

22歳で出かけた、お遍路の旅。そこで杉浦さんはずっと引っかかっていた「なぜ、あの事故で生かされたのか」の意味を知ります。「意味なんてない、っていうのが結論(笑)。起こった事柄に意味付けするのって、人間の遊びだな、って。どうとらえるかは僕次第。そこから全主導権を握った気がしたんですよ」。

無一文の旅から戻ったその時、大地が揺れた

その後、24歳になった杉浦さんは、無一文で旅をすることに。半年間、無一文で愛知から北海道、そこから折り返して愛知に戻る旅。「たまに誰かがお金くれたり、仕事を手伝わせてくれたり。それで、愛知に戻ったときに東日本大震災あって。ほんの少し前までいた場所で、お世話になってるし、旅から戻ってきたばかりで暇だし、自分は元気だし。『物資を持っている人が持っていく人がいない』と聞いて、『行きます!』って。親や友達は『原発爆発して自衛隊も撤退してるのに…』って言ったけど、こちとら1回死んでるんで」。

2011年3月20日前後のいわき
2011年3月20日前後のいわき

こうしてまず、いわき市にたどり着き、物資の配布などの手伝いを行った杉浦さん。そのとき、「地元の人が『どこから来たんだ?浜行こうや』って案内してくれて。震災から1週後くらいだったので、めちゃくちゃでしたよ。そのとき、『どんな感情を持てばいいの?』って思ったんですよ。22歳の時のお遍路中に、『生き残ったことに意味なんてない』って思って無敵になった気でいたけど、『これ、どうやって“楽しい”にしたらいいんだろう』ってちょっとしたパニックを起こしました」。

起こったことは、自分で「楽しい」にしてしまえばいい―。そう考えていた杉浦さんの心を、目の前の惨状が揺さぶりました。「時間をかけて、とにかく目の前にあることを全部やろう」と考えた杉浦さんは、いわきに3か月いて自分のできることに注力することに。そして、いわきでのプロジェクトが落ち着いた2011年の夏ごろ、杉浦さんはヒッチハイクでお世話になった秋田の人から「恵一くん、気仙沼に行ってみてよ」と連絡を受けるのです。

気仙沼でのミッションスタート

気仙沼での杉浦さんのミッションは、「場を作る」こと。

2011年夏ごろ気仙沼にやってきた杉浦さん。かつてワインバーだった場所に「場」をつくると、人がどんどん集まってきました。「僕、無駄に知り合いが多いので(笑)。それで、ボランティアを集めて、行政が入れない細かい案件を引き受けていたんです。ワインバーには地元の人も外の人も集まってきていて、窓が一つもない、外の世界と切り離された異空間で、『この先どうする』なんて話を毎日毎日して。なんかもう、そのときはみんな吹っ切れていて、とにかく前をむいていた。それで、この人たちと一緒に何かしたいと思って、本当に何が必要なのかを考えました」。

起こった悲劇をなくすことはできない。だけど、人々の記憶からは、なくなっていってしまう―。そのことに不安と焦燥を覚える、被災地の人々。杉浦さんは、その思いをキャンドルの灯りに託すことにしました。

「キャンドルのイベントに参加したことがあって。それで、キャンドルで何かできそうだなと思いました。それで、2011年の11月からやろう、ということで『ともしびプロジェクト』を始めました。そうしたら、『灯すことで想いを共有すること』に共感してくれる人者が多くて。『これならもっとできることがある』と思って、そのための場所と地元の雇用もをつくれるかも…と、キャンドル工房まで作っちゃいました(笑)」。

「1,000年に一度」といわれる東日本大震災。だから、杉浦さんは「1,000年経っても東日本大震災のことを忘れられないために、1,000年先の3011年まで灯りを灯していきたい」と話します。

震災をきかっけに生まれ、灯され続けていく灯り。その灯りには、震災の体験、学び、たくさんの人の思いが込められているのです。「1,000年やれると思ってないけど、でも始めないと始まらないし、続けることもできない。続くかどうかはわからないけど、やってみなくちゃ続かないし。それに、比叡山では1200年続いてる灯りもあるし」。

杉浦家に次々とやってくる居候ズ

コ・ワーキングプレイスシェアオフィス「co-ba KESENNUMA」の改装には、延べ100名もの助っ人が!
コ・ワーキングプレイスシェアオフィス「co-ba KESENNUMA」の改装には、延べ100名もの助っ人が!

「ともしびプロジェクト」の後は、コ・ワーキングプレイスシェアオフィス「co-ba KESENNUMA」を立ち上げ、新たな「場」を創出。内装の手伝いを、さまざまな人が買って出てくれました。「延べ100人が手伝ってくれて、みんな家に泊まってたんですよ」。

実は、杉浦さんの家は「居候ズ」と呼ばれる若者たちが、ひっきりなしに出入りしています。杉浦さんの人間性に魅了された若者たちが次々にやってくるのです。「家族が住んでいる家に、居候が何人かいて。狭くなってきたなーと思って、一軒挟んだ裏にもう一軒借りたら、もっと人が集まるようになっちゃった。これだけ人が集まり続けるので、この地方でなかなかすごいなと思うんですよね」。

しかも、居候ズからはお金を取りません。「労働力を提供してもらうんですよ。掃除してもらったり、料理してもらったり。宿代、飯代いらないから手伝って、って。得意なことで返してくれたらいい」。

居候ズの中には、人生に迷いがあって杉浦さんのもとを訪れる若者もいるそうですが、「アドバイスなんかしたことないですよ(笑)。アドバイスするんだったら、僕がちゃんとしなくちゃいけないじゃないですか。だから、適当に答えています。相談してきた人が腑に落ちるかどうかなんて僕には関係ない。でも『気に入ってるんなら、いれば?』とだけいう。1人増えようがあんま変わらないから。まぁ、僕は労働力としか見ていないので(笑)」。

ゲストハウス「SLOW HOUSE@kesennuma」も多くの若者が終結して改装工事を行いました
ゲストハウス「SLOW HOUSE@kesennuma」も多くの若者が終結して改装工事を行いました

圧倒的な「大丈夫力」

それにしてもなぜ、杉浦さんはこんなにも多くの人を惹きつけるのでしょうか。

「面白いことを素直にやっているから…? あとは、圧倒的な『大丈夫力』だと思います。これまで、自分でも不安がなかったわけじゃない。最初に東京に行くのもソワソワしてたはずだし。でも、大抵の場合、その状況起こっても大したことないんですよ。『やったことがないからわからないけど…でもどうせ大丈夫でしょ?』って」。

一番長い人で2年くらい、杉浦さんのもとにいるそう。「僕、支援しているっていう立ち位置は嫌なんですよ。だから、3か月に1度面談をして、「この先、どうする?」と話し合う。そこから事業性を持ってつながる人もいるんです」。

宿泊と仕事をパッケージ化して

地方に若者を定着させる

次から次へと杉浦さんのもとを訪ねてくる若者たち。そうした人たちが滞在できる場所として、杉浦さんは2022年9月にゲストハウス「SLOW HOUSE@kesennuma」をオープンさせました。

「人生の転機に訪れるゲストハウスにしたいな、と思って。その先で人材紹介みたいなこともしたいな、と。気仙沼って、一次産業の町で忙しさに波があるんですね。だから、忙しいときに人を送れたらいいなって。自分も若い時の旅って、現地の人と仲良くなって手伝えることやりたかったから。それにここ、人がどんどん来るので、仕事をつくらないといけないじゃないじゃないですか(笑)」。

自転車で日本を一周している若者や、宿泊予約サイトから予約してきた観光客など、「SLOW HOUSE@kesennuma」には常に若者が出入りしています。

「定額の住み放題ビジネス(※)とも提携しています。旅人とか『ちょっと気仙沼住んでみようかな』っていう人たちと、気仙沼での仕事とをマッチングしたいと考えています。今後『宿泊してくれたらバイトできるよ』っていう派遣業的にしていきたいんですよ」。

このアイデアは、杉浦さんがあるとき、「年末年始の掃除を手伝ってほしいんだ。杉浦くんのところ、若い人いるでしょ?」と、地元の人に声をかけられたのがきかっけで生まれたそう。

「それで、居候ズが掃除に行ってバイト代をもらってきたんですよ。あるときなんか、飲食店の仕出しの仕事を居候ズが持ってきて別の居候ズに紹介したりして。この仕事をこれから広げていって『なんでも手伝います。若いやつが行きます。指名もできる』みたいな感じにしようと考えています」。

さらに、この構想は気仙沼だけにとどまりません。

「若い人がいなくて困っている自治体は日本全国にあります。そういう場所に盛り上がりをつくりに行きたいんですよ。なんとなくのイメージだと、行政からの依頼を受けて課題をヒアリングして、空き家を貸してもらって直して、宿を作って。できればシェアオフィスなんかも作って、そこに人が入ってきて、現地の仕事に派遣する。これをパッケージ化ししたいな、と。僕じゃないとできないかどうかは実験だけど、各地で面白い人を探すのもポイントかな、と。まずは気仙沼みたいな大学や専門学校がなくて、車で30分走っても大きな町がないみたいな場所から始めたいです。『SLOW HOUSE@kesennuma』の@以降にいろんな地名を入れていって、“人が人に集まる”ってことを見せていきたいですよね」。

杉浦さんファミリー。個々の意思を尊重する両親のもとで、のびのび元気に育つ子どもたちの姿が印象的でした
杉浦さんファミリー。個々の意思を尊重する両親のもとで、のびのび元気に育つ子どもたちの姿が印象的でした

映像事業にゲストハウス、コ・ワーキング、「ともしびプロジェクト」に、キャンドル工房、不登校児たちに遊び場を提供する「旅する学校」と、杉浦さんの手掛ける事業はどんどん幅広くなっています。

「なんでも真剣にやるから、面白いんですよ」。

これからも「面白い、楽しい」をキーワードに、杉浦さんはさまざまなアクションを起こしていくでしょう。そこに共鳴したり、憧れを持ったり、癒しを求めたりする居候ズたちとともに―。

フリーランスライター/編集者/翻訳者

大学卒業後、株式会社東京ニュース通信社に入社。編集局でテレビ誌の制作に携わり、その後仙台でフリーランスに。雑誌、新聞、ウェブでエンターテインメント、スポーツ、広告、ビジネスなど幅広いジャンルの執筆活動を行う。2016年よりウェブメディア「暮らす仙台」で東北のよいもの・よいことを発信。ローカルビジネスの発展に注力している。好きなものは、旅、おいしいものを食べること、筋トレ、お酒、こけし、猫と犬。夢は、クリスマスのニューヨーク・セントラルパークでスケートをすること。妄想は、そのスケートのお相手がジム・カヴィーゼルだということ。

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