Yahoo!ニュース

『とと姉ちゃん』、『ゆとりですがなにか』、『トットてれび』。『あまちゃん』以降のテレビドラマ

成馬零一ライター、ドラマ評論家

人気脚本家の話題作が多数登場した春クールのテレビドラマ。

しかし、少し視点を変えると『あまちゃん』(NHK)以降とでも呼ぶような状況が生まれていることに気づかされる。

『半沢直樹』(TBS系)と共に2013年を代表する大ヒットドラマとして国民的支持を受けた『あまちゃん』は、今でもBSやCSで再放送されれば盛り上がる息の長いヒットコンテンツだが、三年経って、その影響はどのような形でテレデドラマに爪痕を残しているのか。

現在放送中のドラマを通して検証してみようと思う。

『あまちゃん』がテレビドラマに残したもの

連続テレビ小説『あまちゃん』は、母親の故郷である岩手県にある架空の町・北三陸市で暮らすことになった天野アキ(能年玲奈)が祖母の影響で海女になったことから、町おこしのためにローカルアイドルとして活躍することになる姿を描いたドラマだ。

物語は80年代と2000年代後半以降の現代を往復することで母の春子(小泉今日子)と娘のアキの話を交差しながら日本の芸能史をたどっていく。やがて物語は2011年の東日本大震災に遭遇した故郷の復興へと向かっていくのだが、AKB48を筆頭に同時代に盛り上がっていたアイドルブームと震災以降の日本の状況を描いたという意味でも、その時代を象徴する画期的な作品だったと言えよう。

放送当時、雑誌やネットのメディアのほとんどが『あまちゃん』特集を組んでいた。

リアルタイムで多くの視聴者がSNSで作品分析や感想を書いていたことを思い出すと、アニメで言えば『新世紀エヴァンゲリオン』(以下、『エヴァ』)に匹敵する文化的影響力と同時代性を獲得した映像表現だったと言っても過言ではないだろう。もちろん、話題性だけでなく、脚本も映像も破格の新しさが存在した。何よりアイドルを中心とした芸能史を用いて東日本大震災まで含めた戦後日本の歴史を描こうとした姿勢が偉大だった。

だが、『あまちゃん』の大ヒットによって、映像表現としてのテレビドラマがカルチャーとして再評価されるという流れには向かわなかったように感じる。

これは、放送当時から思っていたのだが、当時の『あまちゃん』ブームは、朝ドラブームであり、地方の町おこしブームでありアイドルブームであり、テレビドラマという手法自体は単なる器としか思われていなかったのではないかと思う。

当時のテレビドラマは『あまちゃん』で観光客が押し寄せた北三陸みたいなもので、あの時、押し寄せたマスコミ関係者も含めた観光客のほとんどは、テレビドラマというジャンル自体に対する愛情では動いていなかった。

そのため、『エヴァ』がアニメ自体の文化的な立ち位置を盛り上げたようなムーブメントはテレビドラマでは結局起こらなかった。

『あまちゃん』ファンは『あまちゃん』という作品の中で自己完結しており、昔からのドラマ好きは、淡々とほかのドラマを見ているというのが、現在の状況ではないかと思う。ただ、このこと自体に対して悲観的になる気持ちはまったくない。

むしろ映画やアニメのようなファンコミュニティが、テレビドラマになかったことは、喜ぶべきことではないかと思う。

『とと姉ちゃん』にみる朝ドラの一人勝ち状態

とはいえ『あまちゃん』の成功は、連続テレビ小説(以下、朝ドラ)という放送枠への影響は大きかったと言える。

今のテレビドラマは基本的には「朝ドラとそれ以外」という構図で出来上がっている。視聴率の面でも話題性の面でもSNSで言及される数の多さにおいても朝ドラは突出している。それ以前なら保守的な朝ドラとドラマとして冒険ができる民放ドラマ。そしてもっとも先鋭的な実験ができる深夜ドラマという棲み分けができていたのだが、その構造は『ゲゲゲの女房』(NHK)が放送された2010年を境に崩れていく。『あまちゃん』の成功によって、興業的にも脚本、演出の先鋭性においても話題を独占するという朝ドラ一人勝ちの状況が成立してしまった。言うなれば、今の朝ドラは漫画で言えば少年ジャンプであり、邦楽で言えばAKB48みたいな存在なのだ。

現在放送中の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』(NHK)も、毎日平均視聴率20%(関東地区)越えを果たしており、最近では24%(同)を超えることも多い。

その第一の理由に、毎日15分ずつ放送され再放送も充実している「朝ドラの見やすさ」があることは確かだろう。

そこに、NHKだからこそ可能な丁寧なドラマ作りを続けることで朝ドラ・ブランドを作り上げてきた。

雑誌『暮らしの手帖』を発行した暮らしの手帖社の創業者・大橋鎭子をモデルとした小橋常子(高畑充希)の生涯を描いた本作も、脚本に『怪物くん』や『妖怪人間ベム』(ともに日本テレビ系)や、アニメ『TIGER&BUNNY』で知られる新進気鋭の西田征史を向かえて、ロケーションを多用した雄弁なカメラワークの元で、昭和初期の物語をユーモラスに描き高い評価を得ている。

2010年の『ゲゲゲの女房』以降、朝ドラは持ち直してきたが、この状況が完全に定着したのは『あまちゃん』以降であり、前クールの『あさが来た』以降、更に加速しはじめている。

放送当時、『あまちゃん』の魅力について多くの人々が議論したが、あれから三年経ち、今のテレビドラマの状況を俯瞰して見ると、結局、大勝ちした理由は、朝ドラという「放送枠」の強さだったことは間違えないだろう。

『ゆとりですがなにか』に見る宮藤官九郎の苦闘

次に作り手自身に対する影響について考えてみたい。

今クールは『あまちゃん』の脚本家である宮藤官九郎の最新作『ゆとりですがなにか』(日本テレビ系)が放送されている。

本作は「ゆとり第一世代」と言われる1987年生まれの20代の青年たちを主役としたドラマだ。

演出は『Mother』や『Woman』といった坂元裕二の社会派ドラマで知られる水田伸生。そのため、シリアス度が高く、過去作にあったコメディの要素はとても小さなものとなっている。『あまちゃん』の一年後に宮藤が執筆した『ごめんね青春!』が、元々、宮藤が00年代に主戦場としていた磯山晶プロデューサーと作っていたTBS系ドラマの延長線上にあったものだったのに対し、制作スタッフの座組みが変わったことで、今までとは違うドラマを作ろうとしているという気概は伝わってくる。

00年代の宮藤は新進気鋭の若手脚本家として若者向けドラマを手掛けてきた。

『あまちゃん』はその到達点であると同時に、新鋭若手作家から中堅作家へとステップアップする契機となった作品だが、それゆえに今の宮藤は若手でもベテランでもない宙吊りの立場で、どちらにも行けずに迷っているように見える。

『ゆとりですがなにか』が面白いのは、そんな宮藤の葛藤が見え隠れすることだ。本作が面白いのはゆとり第一世代の主人公が年配の上司たちと対立するのではなく、自分より下の年齢のゆとり世代に苛立つ姿を描いているところで、それはそのまま、青年でもベテランでもない現在の宮藤の葛藤を描いているように見える。

自分が叱った新卒二年目の後輩から逆切れされて訴訟を起こされるというハードな展開に対して「日曜の夜に見るには暗すぎる」という批判もあるが、批判を覚悟で痛々しい部分にも踏み込んでいく姿勢は断固として支持したい。

テレビ黎明期を神話化する『トットてれび』

一方、まだ放送前だが、テレビ番組としての『あまちゃん』の影響を強く引き継いだものとなりそうなのが、『あまちゃん』のプロデューサーだった訓覇圭、チーフディレクターだった井上剛、音楽を担当した大友良英が参加しているNHK土曜ドラマで放送される『トットてれび』だろう。(4月30日、夜8時15分から放送開始)

脚本は連続テレビ小説『花子とアン』(NHK)の中園ミホ。若き日の黒柳徹子を演じるのは満島ひかり、そしてナレーションは小泉今日子。テレビ黎明期を舞台に、森繁久弥や渥美清といったスターの若かりし日の姿が描かれる。

おそらく、歌あり、笑いあり、ドラマありという『シャボン玉ホリデー』のような総合バラエティーショーとしてのテレビ番組となるだろう。

宮藤官九郎の師匠にあたる大人計画・主催の劇作家・松尾スズキが手掛けたバラエティーショー『恋はアナタのおそば』(NHK)もそうだったが、こういった手間暇かけた豪華なテレビ番組はNHK以外では、おそらく不可能だろう。

こういった作り手自身によるテレビ黎明期の神話化は、かつて一億総白痴化とジャーナリストの大宅壮一が言ったような軽薄なメディアの代表であったテレビが、いつしか歴史のある老舗のメディアとなったことの表れだろう。

その意味で、企画自体は保守的とも言えるが、公共放送のNHKがこういう番組をやること自体はある種の必然だと言えよう。

むしろ問題なのは、本来保守的なはずのNHKドラマがラディカルに見えてしまうくらい、民放のドラマが朝ドラを筆頭とするNHKドラマに遅れをとっていることだ。

朝ドラから旅立つ若手俳優と能年玲奈の不在

最後に朝ドラが今のテレビドラマで果たしている大きな役割について触れたい。

前クールの『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ系)なら有村架純、高畑充希。今期で言えば『お迎えデス』(日本テレビ系)の福士蒼汰、土屋太凰『そのおこだわり、私にもくれよ!』(テレビ東京系)の松岡茉優など、民放ドラマの主演に朝ドラで注目された若手俳優がキャスティングされることが増えている。

もちろん、元々民放ドラマに出演していたり、すでに映画で活躍していた俳優も多いので、必ずしも全員が朝ドラで発見されたとは言い難いのだが、それでも朝ドラに出ることで全国区の人気となった俳優を起用するというケースが多いことは確かだろう。逆にいうと、今の民放ドラマが朝ドラ人気に便乗する手段は、キャスティングぐらいしかないとも言える。

このように、作り手や出演俳優に関しては、『あまちゃん』以降もそれぞれ別の場所で活躍していると言える。

ただし、主演の能年玲奈を除いてだ。

過去にも演じた役の影響があまりにも大きすぎて、パブリックイメージが固まってしまい役者として伸び悩んでしまう女優はたくさんいたが、彼女の場合はまだ、女優としてのポテンシャルが評価される以前の段階で、舞台にすら立たせてもらえていないのが現状だ。

主演女優としてあれだけ見事な成果を残した彼女の主演作品が『あまちゃん』以降ほとんどない理由については、所属事務所との軋轢だと週刊誌等では報じられているが、そういった大人の事情で潰されてしまうということ自体が『あまちゃん』のアキを彷彿とさせるのが何とも皮肉だ。

しかし、彼女の女優としてのポテンシャルを考えると、ここで終わってしまうのはあまりにも、もったいない。

彼女の復活を『あまちゃん』に熱狂した1ファンとして、強く待ち望んでいる。

ライター、ドラマ評論家

1976年生まれ、ライター、ドラマ評論家。テレビドラマ評論を中心に、漫画、アニメ、映画、アイドルなどについて幅広く執筆。単著に「TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!」(宝島社新書)、「キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家」(河出書房新社)がある。サイゾーウーマン、リアルサウンド、LoGIRLなどのWEBサイトでドラマ評を連載中。

成馬零一の最近の記事