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韓国の政治文化を考える:「目上を立てる」儒教と「全員平等」の民主主義はいかに結びつくか

六辻彰二国際政治学者
文在寅候補の当選を喜ぶソウルの支持者(2017.5.10)(写真:ロイター/アフロ)

5月9日に行われた韓国大統領選挙で、文在寅氏が勝利しました。10年ぶりに保守派から政権を奪取した革新派の新大統領は、北朝鮮との対話を模索することを示唆しており、北朝鮮情勢にも小さくないインパクトをもつとみられます。

ところで、今回の選挙は朴槿恵前大統領の弾劾と罷免、そして逮捕に続くものでした。朴氏に対する抗議運動に代表されるように、韓国では国民の政治活動がしばしばオーバーヒートする傾向があります。

朴前大統領に対する抗議活動の場合、人口が5150万人の韓国で、100万人のデモが行われました。為政者への異議申し立ては民主的な行動ともいえますが、まだ罪が確定していなかった段階での抗議としては、やや行き過ぎの感もありました。

今回の大統領選挙で、全ての候補が、2015年の従軍慰安婦に関する日韓合意を見直す姿勢を打ち出していたことも、国民の政治活動の活発さと無縁ではありません。当選した文氏も従軍慰安婦に関する日韓合意の再交渉を日本政府に求める姿勢ですが、そこには少なからず、日韓合意に批判的な国内世論の過熱への警戒や配慮があるといえます。

日本からみて、やや過熱しすぎと映ることもある韓国民の政治活動は、なぜ生まれるのでしょうか。これを、韓国の政治文化から考えます。

儒教の光と影

韓国の政治文化を考える際、儒教の影響は見過ごせません。韓国では儒教の影響が強く、それは「本家」中国や江戸時代に儒教を国家イデオロギーとした日本を上回るといえます(個人的な感想では、韓国からの留学生は、日本や中国の学生と比べて礼儀正しい人が多い)。

孔子が広めた儒教は、家族や集団の一体性や調和、さらに子が親に従うように社会的序列を重視し、その一方で個人が自らの欲求や意見を安易に表に出すことを戒めます。その理想とする政治は、為政者が「法」によって人々を縛ることなく、「徳」によって人々を導くものです

しかし、どんな価値観や理念であれ、それを実行に移すのが人間である以上、光と影があることは避けられません。儒教についても同様で、人間同士の結びつきや上下関係を重視することは、慎みや謙虚さなどの美徳を生む一方、縁故主義をはびこらせ、上位者の意向の良し悪しを自ら判断することすら放棄させがちです

朴前大統領が個人的な友人に公務内容を話したことも、「大統領の長年の友人」というだけで多くの財閥がその要望に唯々諾々と従ったばかりか、むしろ率先してすり寄ったことも、孔子の教えとは無関係に、儒教が生みがちな影といえるでしょう。

世界各国の「透明性」を測定するトランスペアレンシー・インターナショナルの調査によると、2016年度の韓国の「腐敗度」は176ヵ国中52位。これはチェコ(47位)やイタリア(60位)とともに、先進国で最も低い水準です(ちなみに日本は20位、中国は79位)。

儒教と民主主義

欧米圏では、儒教が民主主義と相反するという観方が根強くあります。人種差別的な思考が強かった19世紀のヨーロッパでは、東アジア一帯を念頭に、儒教は「停滞」の象徴のようにさえ論じられました

現代でも、同様の観方は、欧米の比較政治学者の間でも珍しくありません。それによると、社会の一体性や秩序を重視し、目上の者にひたすら従い、自らの意見を表明しないことをよしとすることは、「慎み深い」としても、社会変革を促す「主体性」や「自発性」を損なうとみられます(同じ観点から、プロテスタントの国と比べてカトリックの国の方が民主主義に合わないという見方さえある)。

ただし、この観方は「(日本を含む)東アジアの儒教圏では民主主義が発達しにくい」という議論に行き着きやすく、さらにプロテスタント文化圏の優位を暗黙のうちに想定したもので、額面通りに受け止めることには、慎重であるべきでしょう。

その一方で、少なくとも、儒教の影響が強いとするなら、韓国で抗議活動や選挙運動が盛んなことは、一見したところ奇妙に映ります。為政者に対する批判は、儒教が重んじるタテの人間関係を否定しかねず、選挙運動が盛んなことは、社会の分裂を加速させかねないからです。

東アジア各国における政治の見方

それでは、韓国では政治がどのようにみられているのでしょうか。

猪口孝新潟県立大学学長が主催するアジアン・バロメーターは、アジア各国で意識調査を行っています。その調査結果を活用した研究は各国で行われていますが、例えばカリフォルニア大学のDoh Chull Shinらは、東南アジアを含む東アジア各国でどのような政治体制が好まれているかを比較しています

このうち、日中韓と台湾だけを抽出すると、表1のようになります。

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Dohらの定義によると、“能力主義”(Meritocracy)とは、有権者による選挙ではなく、試験などによって能力で選抜された人間に統治を任せるべきという考え方です。これは中国や朝鮮半島の歴代王朝で採用されていた科挙制度をはじめ、いわば官僚支配を認める立場です。

これに対して、“専制”(Autocracy)とは、選挙だけでなく、いかなる選抜をも好まない立場です。特定の家系の出身であることなど、いわば「自分たちと異なる特別な人間」に統治を委ねる志向といえます。「カリスマ」を求める志向も、これに該当するでしょう。

その一方で、Dohらは“民主主義”(Democracy)と“混合型”(Hybridity)を、複数の政党が選挙で争うことを認める点で一致しながらも、政府や国民の捉え方に違いがあるものとして捉えています。

これらのうち、「政府は国民に雇われている立場で、国民は自分たちの要望を表明しなければならない」、「政府は国民の要望を実現させなければならない」と考える人は“民主主義”に、「政府は両親のようなもので、国民にとって何が良いことかを決定しなければならない」、「政府は人々にとって良いことと考えることを実施しなければならない」と考える人は“混合型”に、それぞれ分類されます。

選挙への不信感

これらの分類に沿って表1の各国のデータをみていきます。まず、選挙を行なっている日本、韓国、台湾で、選挙を前提とする体制を支持する人々の間でも、「政府を使っている」(“民主主義”)より「政府に守られている」(“混合型”)と考える人が多いことは、東アジア全体で「お上意識」が強いことを示唆します。

民主的な体制の国でもそうだとすると、共産党一党支配のもとにある中国で、民主主義や混合型を志向する人が少ないことは、さして不思議ではありません。さらに当局の監視下に置かれやすい中国では、回答者が質問に警戒したことも考えられます。

しかし、ここでの文脈でむしろ注意すべきは、中国はさておき、日本や台湾と比較しても、韓国では“民主主義”と“混合型”の合計が10ポイントほど低く、“競争主義”と“専制”の合計が10ポイントほど高いことです。つまり、韓国における選挙への信頼度は、選挙が行われている国としては、総じて低いといえます

良くも悪くも、選挙は「自分の意見を明確にする」なかで「社会を分裂させる」効果があり、これらはいずれも儒教で戒められることです。社会の一体性や序列を重視するなら、選挙を通じて個人の自由な意志を表現することへの不信感が強かったとしても、不思議ではありません。つまり、選挙に対する信頼の低さからは、韓国における儒教の影響をうかがえるのです。

儒教精神の年代ギャップ

社会の一体性や上下関係を重視する儒教の影響が強いとすれば、なぜ韓国では、時にオーバーヒートするような政治活動が目立つのでしょうか

これに関しては、二つの考え方があり得ます。第一に、どこの地域や国でも、高齢者ほど伝統的な価値観を重視しやすいことから、「韓国でも若い世代には儒教の影響が薄く、個人の権利への意識が強くなっていることが、政府批判の原動力になっている」という見方です。

韓国において年代間で価値観に大きな違いがあることは、データからも確認されます。表2は、DohがParkとともに著した研究成果の一部です。

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それぞれの項目の内容は、以下の通りです。

  • “社会的序列”:親子などタテの人間関係を重視する人の割合
  • “社会的調和”:自己主張を抑制することで個人同士の関係や社会を安定させるべきと考える人の割合
  • “集団の優位”:個人を家族などの集団に組み込まれた存在と捉え、集団で実現させる価値のために、個人の権利より個人の義務を重視する人の割合
  • “反多元主義”:(英語圏諸国のように)個人や集団が自分の利益や考え方をオープンにして、その支持を競うことが社会の一体性を損なうと捉える人の割合

表2で示される傾向をおおざっぱにつかみとると、年齢が高いほど、教育水準や所得水準が低いほど、大都会より農村部に居住する人ほど、儒教で重視されるこれらの徳目を支持する割合が高いことがわかります。また、男性より女性に、この傾向が強いこともみてとれます。

ここでの本筋に照らして年齢層に焦点を絞ると、どの項目でも年齢層が高いほど数値が大きくなっていますが、とりわけタテの人間関係を重視する“社会的序列”は、60歳以上(50パーセント)と20歳代(15.7パーセント)との間に、約34ポイントの差があります。これは、各項目における最大値と最小値のギャップのうち最大のものです。ここからは、韓国の若年層の間に、年長者や社会的な権威に無批判に従うことを拒絶する傾向があることがわかります。

どこの世界でも、現代的な人権感覚を備えた世代が、厳しい上下関係に反感をもつことは、よくみられることです。その上下関係が厳しいほど、反感は募りやすいともいえます。だとすると、韓国の若い世代が、大統領という最大の社会的権威への批判に躊躇しないことも、自らの主張を隠さない政治活動に参加することも、不思議ではありません。

儒教と民主主義の両立可能性

ただし、映像などで確認できる限り、朴氏への抗議運動でも、今回の選挙運動でも、あるいは日韓合意に反対する集会でも、若年層と呼びにくい人も多く参加しています。つまり、若い世代の間で儒教精神が弱まっているとしても、それだけで全てを説明することはできないように思われます。

そこで導かれる第二の仮説は、「儒教精神が強いからこそ、政治活動が活発になる」ということです。この観点から、朴氏に対する抗議運動をみていきます。

先述のように、儒教では「徳による政治」が理想とされます。それに従うと、法は統治において重要な要素でなくなります。まして、個人が権利を要求することは「小賢しい」となりがちで、「法の下の平等」は絵に描いた餅になりがちです。そこではむしろ、自らを惜しまず、自分の利益を考えず、社会や集団のために尽くすことが称揚されます。

その観点からすれば、為政者は単に「手続きとしての選挙で選ばれた人間」であるだけでなく、国家全体のために我が身を投げ打つほどの「自己犠牲の塊」であることが求められる存在です。ほとんどの国や文化で「自己犠牲」は(実際はともあれ)為政者が備えるべき美徳ですが、儒教の影響が強ければ、その観念はより強くなるといえます。

それにしたがうと、汚職や権力乱用などは為政者としてあるまじき行為で、「法で禁じられる犯罪(crime)」以上の「道徳的に赦されざる罪(sin)」と位置付けられやすくなります。朴前大統領をはじめ、「為政者にふさわしくない」とみなされた歴代大統領に対する追及の激しさは、ここに起因するといえるでしょう。

選挙や日韓合意反対の集会への熱心さも、「道徳的な社会のあり方」を求める観念の強さに基づくという意味では同じです。

「反道徳的なもの」への不寛容

しかし、「理想的な社会のあり方」を求めること自体は重要だとしても、それが強すぎれば、社会を不安定化させることにもなりかねません。韓国の場合、不始末をした責任者に対して「罪を犯したなら法が定める罰を受ければよい」という割り切った考え方では済まず、当事者の全人格を否定するところまで行き着きがちです。

3月22日に初めて行われた朴前大統領に対する検察の取調べが14時間に及んだことは、法に基づく権利の観点からすると、容疑者に対する対応として行き過ぎです。しかし、韓国内では、さして問題にもなりませんでした。これは多くの人々が(法的に罪が確定する前の段階の)朴前大統領に対する取調べを「道徳的に赦されない行為をした者への制裁」とみなし、検察やメディアもその暗黙の圧力から逃れられないからと考えれば、不思議ではありません。

このように、「道徳」に基づく裁きは、際限のないものになりがちです。一般に、「道徳的に行為すべき」という考え方が強いほど、「不道徳」とみなされる者に対して容赦がありません。これはリゴリズムと呼ばれ、ドイツ観念論を打ち立てたカントや、現在の宗教過激派にも通じる立場です。

この観点からいえば、韓国では儒教に基づく道徳観念が強いからこそ、「個人の利益を追求し」、「果たすべき役割をないがしろにし」、「社会の調和と秩序を損なった」とみなされた者の糾弾に、異論すら許されない環境になりやすいと捉えられるのです。セウォル号船長に対する、やや行き過ぎとも映る糾弾は、その象徴です。

そして、その場合、政治活動に参加する者は、「独立した個人の判断に基づいて」というより、「本来あるべき国家や社会の一員として、あるいは不道徳な政権によって不公正に扱われた地域や集団の一員として、“忠孝の士としてこのように振る舞うべき”という暗黙のロールモデルに沿って」政治活動に参加していると考えれば、「儒教の影響が強いこと」と「政治活動が過熱しやすいこと」は両立可能です。韓国でナショナリズムが強いことも、この観点から理解できるでしょう。

政治への道徳的な期待が裏切られた時

政治への道徳的な期待が高ければ、それが裏切られた時の失望は大きくなります。それは、時に為政者への抗議活動をはじめとする政治活動のエネルギーにもなりますが、場合によっては政治から距離を置くエネルギーにもなります。

台湾の政治学者呉親恩は、東アジアにおける政治不信とそれに基づく反応を研究しています。図1はその成果の一部で、ここからは日中、台湾、香港と比べても、韓国で海外移住を考える人の割合が高いことがわかります。

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さらに、図2からは、韓国で「政治に不満」と応えた人のうち56.1パーセントが海外移住を考えており、これは中国当局の締め付けが強まる香港に次いで高い水準であることも分かります。抗議デモなどに参加する人より、投票など通常の政治活動に参加する人に海外移住を考える人が多いというデータもあります。

このように、韓国では政治への不信感が人材の海外流出をも加速させています。もともと政府への期待度が低ければ、政治不信を理由に海外移住を考えるという反応も出にくいはずです。ここに、韓国で政治に道徳的な期待が寄せられやすいことと、それが裏切られやすいことが表れているといえるでしょう。

道徳と法の狭間で

こうしてみたとき、日本の一般的な感覚からは、オーバーヒート気味にさえ映ることのある韓国の政治活動には、若年層を中心とする反権威主義の高まりとともに、いまだに儒教が根強く定着している、アンビバレントな状況をうかがえます。どちらの政治文化が優勢になるかは社会のあり方の変化によるところが大きいものの、韓国で政治活動が過熱しやすい状況に、当面大きな変化は考えにくいといえます。

逆に、この視点から日本を振り返ると、政治家や著名人などの「道義的責任」が追及されることは、やはり珍しくありません。ただし、日本では問題そのものが比較的簡単に忘れさられやすく、責任追及より事態の収拾に意識が向かいがちです。それは現実的な反応ともいえますが、結果的に「道義的責任は痛感しているが法的責任はない」といった釈明が通りやすいことは、「道徳的な正しさ」への確信の薄さをも示しているといえます。

繰り返しになりますが、いかなる教説も、それを実行するのが人間である以上、マイナスの側面から逃れられません。そのなかで重要なことは、何を信奉するにせよ、そのマイナス面を自覚することです。

これを欠いたまま「道徳的な正しさ」を要求することが、他の考え方や他者を抑圧するリゴリズムや虚無主義になりがちであるのと同じく、ひたすら「合法性」のみを強調することは、法の内容の公正さを問わない形式主義や「強者の論理」に堕しがちです。法と道義をめぐる対比からは、韓国の熱しやすさと日本の冷めやすさを見出すことができるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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