窮迫の25年:覇権国・米国の憂鬱

冷戦が終結した1989年から、25年目を迎えました。冷戦終結当時、世界は-少なくとも西側先進国は-ある種の昂揚感ユーフォリアに包まれました。第二次世界大戦後の世界を覆っていた重石が取れた。これで世界は平和になる。多くの人がそのように感じていたように記憶しています。

しかし、その後の25年間を振り返ってみたとき、そのユーフォリアが一過性のものであったことは、改めて言うまでもありません。2014年を迎えた現在、世界は暗雲で覆われています。昨年一年間を振り返れば、世界各地でテロが横行し、新興国の台頭によって大国間のバランスは流動化し、世界金融危機の影響から抜けきれない国も多く、さらに多くの国では政府などに対する抗議運動が絶えません。なぜ、世界はこれほどまでに不安定化したのでしょうか。

米国のリーダーシップの衰退

これを眺めたとき、まず見過ごせないのは、米国のリーダーシップが長期的かつ相対的に揺るぎ始めていることです。2013年9月24日、国連総会の演説で、オバマ大統領は「世界におけるリーダーシップの真空」を告白しました。現役の米国大統領自身が、それを満天下のもとで認めたことの意味は重大です。

昨年1年を振り返ってみても、大きなところでいえば、例えば8月に発生したシリアにおける化学兵器の使用が、自ら設けた「レッドライン」を超えるものであることを認めながらも、最終的に米国は介入しませんでした。介入そのものの良し悪しは一旦置いておきます。ここで重要なことは、中ロの反対や同盟国の消極的反応という条件があったにせよ、米国が自ら世界に打ち出した「大量破壊兵器の使用は許さない」という原則が守られず、しかも世界の多くの人がそれを目撃したことです

もう一つあげるとすれば、10月には連邦議会の上下両院で、民主党と共和党がオバマケアをめぐって対立した挙句に暫定予算案で合意できず、一部の連邦政府機関が閉鎖に追い込まれデフォルトの危機すら懸念される事態に陥ったことです。最終的に暫定案が発効したのは10月17日。この間、国内政治に追われたオバマ大統領は、10月4日に開かれたAPEC首脳会議も欠席するなど、国際的に信用を失墜させることになりました。

米国の軍事力、経済力に対する不信感を招く事態が相次ぐことに、米国の内部からも「米国は世界が『米国中心主義』」から離脱する傾向を受け入れるべき」という論調が出ています。なかでも、世界的に名の知れた雑誌『フォーブス』が毎年行っている「世界で最も影響力のある人」ランキングで、今年の一位が、アサド政権に化学兵器の放棄を同意させ、シリアをめぐる膠着状態をひとまず収束させたプーチン大統領だったことは、米国内部の気運を象徴します。

リーダーシップの衰退 ≠ 米国が大国でなくなった

米国の国際政治学者イアン・ブレマーは、中心的な役割を果たせる国がない世界を「Gゼロ」と表現しました。ブレマーによると、西側先進国なかでも米国の国際的なリーダーシップが衰え、新興国との協力が不可欠になりながらも、これらが(例えば温室効果ガス排出規制のように)国際的な責任を負うより自らの国内開発に関心を集中させ、結果的にどの国も国際的な政治・経済体制を構築・制御できない世界になった、というのです。少なくとも昨年1年を振り返ったとき、Gゼロ論は説得力があるといえるでしょう。

ただし、基本的にGゼロの視座を受け入れるとしても、留意しなければならないことが3点あります。

第一に、単純な事実として、米国はいまだ世界で抜きんでて大きな力をもつことです。図1は、各国、各グループのGDPの世界全体に占める比率を示しています。ここから見て取れるように、冷戦終結後の世界において、米国のGDPは全体の25パーセント前後を推移しており、ほぼ横ばいといっていいでしょう。

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次に図2は、2012年度の値で比較した、上位20カ国の軍事予算です。ここからは、やはり冷戦終結後、米国の軍事予算は上位20カ国の合計の約40パーセントを占め続けてきたことが分かります。対テロ戦争で苦戦している印象が強いとはいえ、正規軍同士で正面からぶつかった場合、米軍に勝てる軍隊は世界にないといえます。

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しかし、米国自身の経済力、軍事力が大きく衰えているといえない一方で、留意すべき第二点目としていえることは、-矛盾しているようにみえるかもしれませんが-その圧倒的な優位は相対的に低下しつつある、ということです。図1、図2のいずれからも、中国をはじめとする新興国の台頭は、今更ながら、はっきり確認できます。

新興国の台頭は、1990年代の世界規模での市場経済化によって加速しました。それまで先進国企業を大規模に誘致し、工業化を推し進め、輸出で外貨を獲得して経済成長を図るスタイルは、韓国、シンガポール、台湾など、アジアNIES(新興工業経済群)と呼ばれる一部に限られていました。しかし、冷戦終結後、西側先進国なかでも米国が熱心に推し進めたグローバルな市場経済化により、生産拠点の移動は当たり前となりました。そして、グローバルな市場経済化の恩恵を最も受けたのが中国やインドだったことは、多くの人が認めるでしょう。

つまり、新興国の台頭は、いわば米国をはじめとする西側先進国によってもたらされた側面があるといえます(後述)。いずれにせよ、新興国なかでも中国の追撃があまりに急激であることにより、米国自身の力に大きな変化がなくても、そしてむしろ科学技術や経済で世界をリードしながらも、そのギャップが縮小し、結果的に米国が「一人勝ち」の世界でなくなりつつあるのです。

そしてこれに関連して第三に、米国のリーダーシップの衰退には、経済・軍事的に同盟国が停滞してきたことに由来する側面がある、ということです。世界において中国など新興国が経済、軍事の両面で比重を増すなか、先ほどみたように米国はいずれもほぼ横ばいですが、米国以外の先進国の比重は縮小する傾向が顕著です。「米国以外の先進国」には、もちろん日本も含まれます。

このデータにおける「先進国」とは、経済協力開発機構(OECD)加盟国のうちの高所得国を指します。OECDは大戦終結直後の1948年に設立された、ヨーロッパの経済復興を支援する「マーシャル・プラン」の実施主体「欧州経済協力機構」(OEEC)を母体とします。すなわち、そもそも「先進国」というカテゴリーは単に所得水準だけでなく、政治的な立場をも含意するのです。この観点から先ほどのデータを振り返れば、経済・軍事の両面で世界レベルの比重を下げているのは、米国ではなく、その同盟国となります。言い換えれば、西側先進国の陣営は、米国を除く多くの国が新興国の台頭に押されているのです。

この状況は、以前のように、米国を中心とする西側先進国の、グループとしての圧倒的な経済力・軍事力で世界をリードすることが困難になったことを意味するため、結果的には米国の影響力は低下せざるを得ません。ブレマーが指摘した、そしてオバマ大統領が演説で認めた米国のリーダーシップの衰退には、同盟国の相対的な衰退によるところがあることは確かでしょう。

冷戦終結からの米国の歩み:絶頂期

しかし、その一方で、「米国のリーダーシップの衰退」は、日本を含む同盟国にいわば「足を引っ張られた」だけが原因とはいえません。米国のリーダーシップは、米国自身によって損なわれた側面があることが否定できません。これを考える際にまず、米国と他の主だった国や地域との関係をみていきます。

冷戦終結後の1990年代、米国はまさに「我が世の春」だったとさえいえるかもしれません。1991年の湾岸戦争では、安保理決議を経た正統な軍事行動としてイラク軍をクウェートから放逐し、一つの成功モデルを確立しました。同じく1991年、ソ連が崩壊し、その国際的な立場を継承したロシア連邦を1998年までに段階的にG8(主要国首脳会議)の一国として迎えることで、憂いを和らげました。経済面では、折からの情報技術革命によって、クリントン政権期(1993-2000)の平均GDP成長率は3.89パーセント(世銀データベースで算出)と、成熟した経済大国としては異例の成長を実現させました。

この間、白人警官による黒人への集団暴行事件をきっかけとするロサンゼルス暴動(1992)、ソマリア内戦への介入の失敗(1993-95)、クリントン元大統領の女性スキャンダル(1998)、そしてコソボ内戦に対するNATOの介入と中ロの反発(1999)などはあったにせよ、米国の国際的なリーダーシップは総じて安定的だったといえます。

まず、同盟国であるヨーロッパ諸国は、やはり冷戦の「勝利」のユーフォリアにあり、さらにマーストリヒト条約(1992)によるEU統合という歴史的な大実験に忙殺されるようになり、市場開放を推し進めようとする米国への警戒感をみせながらも、その関係を再考する切迫した必要に迫られていませんでした。

一方、1990年代、米国はソマリア内戦での経験を踏まえて、海外での軍事行動に安保理決議を経ることを常態化させましたが、コソボ内戦などを除けば、中ロが拒否権を発動することは稀でした。ソ連崩壊後のロシアは、市場経済化の過程で急激なインフレに陥り、アジア通貨危機(1997)の影響もあり、1993年から2000年までの平均GDP成長率はマイナス2.06パーセントを記録。この状況下、エリツィン大統領はクリントン大統領との友好関係を頼りとしていました。そして、中国はやはり1993年から2000年までの平均GDP成長率が10.14パーセントを記録し、爆発的な成長を実現させていましたが、この段階では先進国からの投資への依存度が高かったうえに、江沢民国家主席(任1993-2003)が米国との友好関係を優先させたことから、大きなトラブルは発生しませんでした。

リーダーシップの転機:絶頂から暴走へ

ところが、2000年代に入ると、米国のリーダーシップに大きな疑問符がつくことになりました。「対テロ戦争」、なかでも米国同時多発テロ事件(2001)への報復としてのアフガン攻撃はともかく、「フセイン政権が大量破壊兵器を保有している」という情報に基づいて行われたイラク攻撃(2003)は、その決定的な契機となりました。

当時、コンドリーザ・ライス国務長官は「マンハッタンにきのこ雲が上ってからでは遅い」と力説し、フセイン政権から国際テロ組織に核兵器が渡り、それが米国本土で炸裂するという最悪のシナリオを回避するためとして、イラクへの攻撃を正当化しました。「危険を事前に除去するための防衛的措置」は「予防先制」と呼ばれましたが、これは(1)確証の乏しい情報に基づいていたこと、(2)仮にイラクが大量破壊兵器をもっていたとしても、それを理由に米国が攻撃してよいという国際法上の根拠は乏しいこと、(3)米国の安全と主権のためなら、他国の同意や権利、さらに国際的なルールも度外視する一国主義/ユニラテラリズム(unilateralism)に基づいていたこと、などの問題をはらんでいました。

そのため、安保理でフランスやドイツが強硬に反対し、バチカンなども懸念を示したのですが、結果的に米国は「イラクが国連の大量破壊兵器の査察に応じず、安保理決議に違反を続けた場合、イラクに対して『重大な帰結をもたらし得る』」という、きわめて曖昧な表現の安保理決議1441(2002.11.8)を根拠にイラクを攻撃。それが9.11後の米国民全体のパニックを背景としたことを斟酌するとしても、これが米国の国際的評価に大きな傷をつけたことは確かです。

これを期に、ヨーロッパ諸国と米国の「大西洋同盟」に隙間風が目立つようになりました。イラク攻撃に付き合った英国、スペイン、ポーランドなどでも、自国軍兵士に死傷者が増え、さらにマドリード(2004)やロンドン(2005)で大規模なテロが発生するに及んで、アフガンやイラクからの早期撤退を求める世論は高まったことは、不思議ではありません。米軍のグアンタナモ基地における「捕虜」(米軍は捕虜ではなくテロリストという犯罪者と位置付けている)虐待もまた、人権規範に敏感なヨーロッパで米国への違和感を大きくするものでした。

その結果、ブッシュ政権(2001-2008)の末期に至るまで、フランス大統領やドイツ首相との個別の会談は、ほとんど行われなかったのです。2008年大統領選挙でオバマ陣営の外交問題顧問を務めた政治学者のズビグネフ・ブレジンスキーが、2009年初頭の論文のなかで、オバマ大統領の課題としてヨーロッパ諸国との関係改善を強調したことは、示唆的です。