加藤初さん(元巨人)が亡くなって3年 晩年の韓国での指導者生活の日々を偲ぶ
数日前、パソコンのフォルダ内を整理していると、以下のファイルを見つけた。
『コーチ室加藤初.mp3』
ファイルの作成日は2010年6月。当時、筆者がやっていたポッドキャスト番組のコーナーの一つ『コーチ室』用に収録した、SK加藤初投手コーチ(元西鉄、巨人)のインタビュー音源だった。
12月11日は加藤初さんの命日だ。亡くなって3年になる。久々に聴いた加藤さんの声。そのインタビューの中で加藤さんが語っていたこと、そして加藤さんの野球人生最後の居場所となった韓国での日々を振り返る。
「鉄仮面」の素顔
加藤さんと韓国球界の縁は01年の秋から。LGの投手インストラクターとして秋季キャンプに参加したのが始まりだった。
「キム・ソングン監督(現ソフトバンク・コーチングアドバイザー)が土井正博さんに『誰かピッチングコーチできるのいるか?』と聞いて、西武を辞めたばかりの私に声がかかりました」
誘ったキム・ソングン氏に加藤さんについて尋ねると、当時のことをよく覚えていた。
「加藤さんを招くにあたってヤン・サンムン投手コーチ(当時)に『加藤さんのやり方に口出しするな』と釘を刺しておいた。しかし加藤さんは最初の2、3日、選手にまったくアドバイスしなかった。4日目になって『何も言わないのか?』と聞いてもそのスタイルを変えることはなかった。後ろから支えるタイプのコーチだった。しかし選手に厳しいことを言う時にはかなり激しかった」
キム・ソングン氏の「後ろから支えるタイプのコーチ」という言葉から加藤さんらしさを感じる一方で、筆者は激しい加藤さんを見たことがなかった。
加藤さんといえば現役時代、そのポーカーフェイスから「鉄仮面」として知られていた。しかし素顔はとっても茶目っ気のある人だった。今でも目に浮かぶ加藤さんの表情がある。
「世界で最も長く、厳しい練習をする監督」として通っていたキム・ソングン氏。そのため同氏が率いるチームでは、選手だけではなくコーチも長い時間、ユニフォーム姿でグラウンドにいるのが常だった。
「加藤さん、大変ですね」と声を掛けると、加藤さんが周囲に背を向けて見せたのはおどけた顔。それは伊東四朗さんがドラマやコメディーでとぼけた時に見せる表情にそっくりで、加藤さんがいつか「ニン!」と言うのではないかと、笑いを堪えるので必死だったのを思い出す。
質問をすればいつも立ち止まって、ボソボソとではあるが丁寧に答えてくれる。それが加藤さんだった。
肌で感じた球界の進化
加藤さんは11年限りでSKのコーチを退団するまで、長きに渡り、韓国で指導者生活を過ごした。加藤さんはその間、韓国球界の変化を肌で感じてきた。
「02年の頃、ピッチャーはただバッターに向かって投げるだけ、バッターは来た球を打つだけで、右打ちやチームプレーが徹底されていなかった。しかし、しばらくすると野球が細かくなった。守りだとダブルプレーでの一歩目のスタートのスピードが全然変わりました」
韓国は08年の北京オリンピックで金メダルを獲得、翌09年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では準優勝に輝いた。韓国野球の成熟を感じさせた時期だ。
加藤さんは日韓の実力差について「02年の頃は(韓国より)日本が上と言っていたが、今(10年)はそう変わらないんじゃないかな。パワーは韓国の選手の方が上かもしれない。ただ投手が場面ごとに、真っ直ぐと変化球をどの辺に投げるかという細かいコントロールは日本の方が上ですね」と話していた。
韓国KBOリーグは加藤さんが日本に戻った後、球団が2つ増えて戦力が分散。プレーの質の低下が現場、そしてファンからも指摘されている。今の韓国野球を加藤さんが見たらどう感じるだろうか。
キム・グァンヒョンは「持っているピッチャー」
キム・ソングン氏がSKの監督に就任した07年、加藤さんもSKの投手コーチとなった。その年に高卒ドラ1ルーキーとしてSK入りしたのが、韓国のサウスポーエース、キム・グァンヒョンだ。
加藤さんはキム・グァンヒョンについて、10年に収録した音源でこう話していた。
「全体的に粗削りなんだけど、抑えて欲しいと思う大事な場面で、ここっていう集中力でいいピッチングを見せる頼りになるピッチャー。“生まれ持っての運”を持っているピッチャーだと思いますよ」
その頃、日本の各球団スカウトはキム・グァンヒョンに熱い視線を送っていた。加藤さんは彼が日本でプレーした場合の活躍の可能性について「細かい部分を自分なりに習得しなければいけないけど、覚えようとする力、伸びる早さは他のピッチャーより数段上なので、できると思う」と話した。
8年前が最後のユニフォーム
加藤さんは11年のSKを最後に日本に帰国。キム・ソングン氏は12年に独立球団のコヤンワンダーズ、15年、ハンファの監督に就任した際、加藤さんを投手コーチに招こうと考えたが、加藤さんはその間、病が進行し、再びユニフォームに袖を通すことはなかった。
加藤さんの指導者生活最後の年となった11年、その年の8月に実施した筆者主催の韓国プロ野球観戦ツアーで、加藤さんは試合後にツアー参加者との食事会に参加してくれた。しかしその時もひどく咳き込み、体調が悪いことを感じさせた。
当日、誕生日を迎えた参加者をケーキでお祝いすると、加藤さんはケーキを見ながら笑顔でこうつぶやいた。
「いいなぁ、若いなぁ」
その時加藤さんは、病に打ち勝つ若い肉体を欲していたのかもしれない。
2019年12月11日、筆者は今、所用で東京から西に向かう新幹線の車中にいる。列車は加藤さんの故郷、静岡県富士市を疾走中だ。
<加藤さん、キム・グァンヒョンはあと5勝で加藤さんの141勝に並びますよ。でもメジャーリーグに行くかもしれません。もしキム・グァンヒョンがメジャーに行ったら活躍できますか?>
車窓越しに空を見上げ、加藤さんにそう問いかけてみた。