カープから創成期の韓国球界に渡った元内野手 東京で「広島つけ麺」に捧げる余生
「いらっしゃいませ」
リリー・フランキーさんのような落ち着いた声色。扉を開けた直後はその声に少し構えてしまった。しかし注文後に聞かれた「納豆をサービスで入れられますけど、どうされますか」のイントネーションはバリバリの広島弁。頭の中でリリーさんと達川光男さんが交錯し、少し和んだ。
カープの赤い帽子をかぶった白髪の店主は広島の元内野手・木山英求さん(64)。10年間、広島で現役生活を過ごした後、1983年にプロ野球が誕生して2年目の韓国に渡り、「イ・ヨング」という登録名で3シーズンプレーした。
木山さんは今、東京で広島つけ麺の店を一人で切り盛りしている。野球ファンの人に教えてもらったその店を訪ねた。
47歳、広島つけ麺で勝負をしようと東京へ
「ひと旗揚げちゃろ思って東京に出てきたんですけど、二旗も三旗も下がりました」
そう言って笑う木山さんは2002年、47歳の時に東京・品川区の不動前に広島つけ麺の店「とんがらし」をオープン。5年前に西小山に移転し、現在は「麺屋求」を営んでいる。この道17年だ。
広島つけ麺とは魚介ベースの辛口の冷たいスープに、中華麺とゆでたキャベツやチャーシューなどの具材をつけて食べる料理。
「広島つけ麺は広島の人でも知らない人がいて有名ではないんですが、ハマる人は絶対いると思って修業して、どうせやるなら東京で勝負しようと思って店を出しました」
カウンター10席の店内にはカープ関連のポスターやグッズが飾られている。しかし自身が元選手であることを明かすようなものはない。
「自分からはあまり言ってないですけど、選手だったんですか?と言われて、違いますというもの何だし、そうですとは言いますね」
遠かった1軍。今は常連客とテレビで見つめる
三塁手だった木山さんは2軍で高打率を残しても、1軍への道は遠かった。カープのサードには衣笠祥雄さんという偉大な存在がいたからだ。
日本での通算成績は10試合に出場し3打席無安打に留まる。それゆえ木山さんの現役当時を残した資料は少ない。
しかし、遊撃手として活躍した高橋慶彦さんの著書「赤き哲学」には、2年先輩の木山さんが日々ティーバッティングに付き合ってくれて、ともにバットを振り続けたという話が記されている。
「頑張っているのが見える選手というのは好きですね。若い頃の高橋慶彦は泥んこになってやっていました。あいつはスターになって、声を掛けた私はそうじゃないというのは野球選手としては良くないんでしょうけど、私はよくプロ野球に入れたなぁと思う程、下手くそでした。ただ一緒に一生懸命やったのは確かです」
木山さんは72年のドラフトでチーム最終順位の9位でプロ入り。「地元(呉港高)だから運よく入れたんでしょう」と振り返る。同年の1位指名は池谷公二郎投手。8位は同時期に韓国でプレーすることになる木本茂美捕手だった。
木山さんの店ではカープの試合の時間になると、テレビで中継が映し出されている。
「お客さんが来て、どうじゃ、こうじゃ言いながらカープの試合を見ているのは嬉しいことです。4年前までは死ぬまで優勝は見られないなんて言いおったのに、3年続けて優勝するなんてね。後は日本一になって欲しいという話をみんなしよります」
韓国で名投手と対戦して感じた後悔
28歳の時、広島を離れ韓国に渡った木山さん。当時のことは35年前に出版され、今でも韓国野球と言えばその名が挙がる「海峡を越えたホームラン―祖国という名の異文化」(関川夏央・著)に数多く記されている。韓国プロ野球の創成期に海を渡った、在日コリアンの選手たちの姿を描いた一冊だ。
木山さんには韓国で対戦した中で、強烈に印象に残っている投手がいる。
「ヘテタイガース(現KIA)のピッチャーでその後、中日に来たソン・ドンヨルを初めて見た時にすげえなこいつと思いました。球は速い、コントロールはいい、変化球もいいしバシバシきていました。何より、“韓国でワシの球を打てる奴はおらん”といった感じで、八分くらいの力で投げる余裕がありました」
そのソン・ドンヨル投手の姿を見て、木山さんは自身の日本での選手生活を振り返った。
「日本では余裕がなかった。力んでやり過ぎていたんだと思いました。1軍での機会はわずかでしたが、守っている時には“ファーストが見えないくらいの速い球を投げてアウトにしてやろう”というような気持ちでやっていたのかもしれないです。力は入れなきゃいけないですけど、力んじゃいけないですよね」
木山さんが所属したサムミスーパースターズは弱小チームとして、当時のファンに記憶されている。しかし木山さんには渡韓1年目に福士敬章投手と共に、優勝争いをした時の記憶が色濃い。そして後悔もある。
「韓国では日本でやっていた半分も練習しないダメな外人でした。もっと練習をすればと良かったと、日本に帰ってからはもっと人間を鍛え直そうと思いました」
不器用に生きてきた人生。余生は広島つけ麺に捧げる
掃除が行き届いた清潔な店内。その様と「昔の韓国の球場はグラウンドが悪くて、ようトンボをかけよったですよ」と話す木山さんの言葉、そして「海峡を越えたホームラン」に記されていた一文とが重なる。
朱東植とは日本ハムなどでプレーした元投手の宇田東植さん。李英求は木山さんだ。
「僕は自分のことしか出来ないタイプで人付き合いも下手。あまり上手いことも言えないし生きるのが精一杯なんです」と木山さんは言う。
「せわしくやるのが好きじゃない」と朝8時半からのんびりと仕込みを始め、11時半に開店。午後3時から5時半までの休憩を挟んで、深夜1時の閉店まで店のすべてを一人で行っている。
「辛いのが好きな人は多いので、広島つけ麺にハマる人は絶対いると思うんですよ。私はつけ麺が好きで野球が好きなんで、店の名前は“麺屋・求”じゃなしに“麺・野球”なんです。どこのファンでも野球が好きな人だったら野球のお話しも出来るんで来てください」
表情穏やかに「死ぬまでここでやります」と話す木山さんは、余生を広島つけ麺に捧げることを決めている。
<木山英求(きやま・えいきゅう) 右投げ右打ち。韓国3年間での通算成績は277試合、打率2割7分、13本塁打、104打点。1954年12月24日生まれ、広島出身の64歳>
麺屋求は東急目黒線西小山駅から広場に出て右に入った商店街にある。営業時間は11時半~15時、17時半~25時。ほぼ年中無休(不定休)。