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日本一有名な「隠し球」の主役たち 仕掛けた男、ひっかかった男、見抜いた男の証言

室井昌也韓国プロ野球の伝え手/ストライク・ゾーン代表
伝説の珍プレー、隠し球成功の一コマ(イラスト:はるたけ めぐみ)

(以下は2015年5月29日にストライク・ゾーンに掲載した記事を再編集したものです)

隠し球、それは野手がボールを隠し持ち、走者がベースから離れた際に、タッチアウトを狙う、野球のトリックプレーだ。

1984年5月29日、西武-南海11回戦。この日、三塁手の立石充男(南海)は三塁走者・駒崎幸一(西武)に対し、隠し球を成功させた。当時、このシーンはプレーの巧妙さもさることながら、もうひとつの理由により大きな話題となった。

それは隠し球に気がついたテレビカメラマンによって、その一部始終が撮影されていたからだ。隠し球のシーンが映像に記録されたのは、これが日本プロ野球史上初。のちにそのシーンにみのもんたの軽妙なナレーションが合わさり、この隠し球は「珍プレー」の中でも珠玉の名作としてファンの間で語り継がれている。

仕掛けた男、ひっかかった男、見抜いた男。30数年前の隠し球の主役たちに聞いた。

シーン紹介

2回裏、西武の攻撃。1死二、三塁で9番行沢久隆はセンターフライを打ち上げる。この打球で三塁走者の石毛宏典がタッチアップしてホームイン。二塁走者の駒崎幸一もタッチアップで三塁に進んだ。

その続きは以下のイラストにて再現する。

イラスト:はるたけ めぐみ
イラスト:はるたけ めぐみ

イラスト:はるたけ めぐみ

仕掛けた男 三塁手・立石充男

立石充男(撮影時ハンファコーチ)。1957年生まれ、75年ドラフト3位で初芝高から南海入り(写真:ストライク・ゾーン)
立石充男(撮影時ハンファコーチ)。1957年生まれ、75年ドラフト3位で初芝高から南海入り(写真:ストライク・ゾーン)

立石充男(現中日コーチ)は、当時のことを鮮明に覚えている。

「隠し球は前にも二軍で3回くらい、やっていたんですよ。だから南海のみんなは、僕が隠し球をやりそうだというのは知っていました。隠し球はタイムがかかるとダメ。インプレー中でも、ボールを持っていないピッチャーがマウンド付近にいたらダメなので、ピッチャーの畠山(準)と、亡くなったショートの久保寺(雄二。この翌年1月急逝)が2人でうまいこと時間を稼いでくれました。僕がボールを持っていることを三塁塁審の五十嵐(洋一)さんはわかっていましたね」

画像

立石が外野からの返球を捕球してから、三塁走者の駒崎にタッチするまで(上のイラストの1~7)の間はおよそ30秒。三塁ベースから2~3m離れた場所で、ボールを隠し持っていた立石は、何を考えていたのか。

「あの時間は長かったですね。2アウトランナー三塁で、三塁コーチの近藤(昭仁)さんが駒崎に"無理しなくていいぞ"と話していたので、あ、気がついてないなと思いました。そして駒崎がベースを離れたので、"今だ"と思ってタッチしに行ったら、ギリギリ間に合いました。タイミングが良かったです。あの時、塁審の五十嵐さんは"アウト!"ってコールするのが早かったですね」

この隠し球が「珍プレー」としてテレビで大きく取り扱われると、立石は一躍時の人となった。11月にはフジテレビの番組で「第2回プロ野球珍プレー・好プレー大賞」を受賞する。「あの時は表彰式があるから東京のフジテレビに行ってくれと言われて、家に車が迎えにきました。行くまでは何で呼ばれたのか知らなかったのですが、スタジオに行ったらみのもんたさんに、"第2回珍プレー・好プレー大賞は立石さんです!"と言われて、大騒ぎでしたよ」

隠し球の後、途中交代。いったい何が?

この試合の記録を見ると、9番三塁で先発出場した立石は、隠し球を成功させた次の回、3回表にこの日の初打席を迎えた後、その裏の守備では池之上格と交代している。立石に何があったのか。

「1打席目、二塁打で出塁した後、バントで三塁に進みました。そこで2番の久保寺がセーフティスクイズをしようとしたのですが、それが空振りになって、急いで三塁に戻ろうとした時に、人工芝と地面の切れ目のところで足を滑らせてしまいました。まぁ、隠し球のバチが当たったんですよ(笑)」

立石はそれにより足首を骨折。ベンチに下がった。記録の「走塁死」の欄には、「駒崎(2回)、立石(3回)」と隠し球の当事者2人の名前が並んでいる。

ひっかかった男 三塁走者・駒崎幸一

駒崎幸一。1959年生まれ、80年ドラフト外で日本通運から西武入り(写真:ストライク・ゾーン)
駒崎幸一。1959年生まれ、80年ドラフト外で日本通運から西武入り(写真:ストライク・ゾーン)

立石は三塁コーチの近藤が駒崎に「無理しなくていいぞ」と話しているのを見て、2人がボールの行方を気にしていないことを確信したという。ではそのやり取りの内容はどんなものだったのか。駒崎も当時のことをしっかりと覚えていた。

「1死二、三塁でセンターフライでした。二塁走者の自分はタッチアップで三塁に向かったんですが、三塁に着いてすぐ、近藤さんに"無理しなくていいよ"と言われました。確かに二塁にとどまっていてもいい状況でしたが、あの時の西武の"広岡イズム"では一つでも前の塁に進めという意識がありました。そこでセンターの肩と守備位置の深さ、そして自分の足を考えて三塁に進みました」

駒崎が三塁に到達した際、その時の三塁コーチの役割として、通常ならボールがどこにあるかを最初に確認するはずだ。しかし、三塁コーチの近藤はそのことよりも、駒崎に「無理しなくていいよ」と伝えることを優先した。なぜか。駒崎はこう想像する。「今から思えば、あの時の出塁は自分のプロ初ヒットだったので、近藤さんは落ち着かせようと言ってくれたのでしょう」

そう、この試合に7番左翼で先発出場した駒崎が、2回の1打席目に放った右翼二塁打はプロ4年目で放った初安打だった。気分が高揚しているであろう駒崎に、近藤が声をかける気持ちもわからなくはない。

三塁に滑り込む際、当然ながら後ろから来る送球を見られない駒崎と、ボールの行方を確認していなかった三塁コーチ。これにより、立石がボールを持ち続けるためのお膳立てが整った。そして駒崎は三塁ベースを離れてしまう。「ゲームがなかなか進まない雰囲気がありました。ピッチャーがプレートに着いてから離塁するのがセオリーなんですが、あの時は、こわごわですがベースを離れてしまいました」

そして駒崎は立石にタッチされる。「あの時の立石さんの走ってくる勢いはものすごかったです。こっちもベースに回り込もうとしましたが、塁審のアウトの判定は早かったですよね(笑)」。こうして立石が仕掛けた隠し球は成功した。

隠し球成功の裏には、西武ベンチのミスも!?

駒崎は後日談としてこんな話を耳にする。「西武ベンチでは森さん(昌彦コーチ。のちに祇晶)だけは、立石さんがボールを持っていることをわかっていたそうです。それなら、何でベンチから声をかけなかったのか?と後からチームの中で話題になりました」

三塁コーチの近藤が駒崎を気遣う間にボールを見落とし、ベンチの指摘が届かなかった結果として生まれた隠し球劇。駒崎はそのことをどう思ったのか。「やはりボールの行方は選手自身が判断すべきだと思うので、言い訳はしませんでした。このことで有名にもなったので、すべて背負いましたよ」と笑顔で話す。

そしてこう付け加えた。「隠し球にひっかかったことへの、チームからのペナルティはありませんでした。翌日もスタメンを外されることはなかったので納得して、今後は気をつけようと受け入れました」。駒崎はこの試合でプロ初安打を含む3安打猛打賞。翌日の日刊スポーツには駒崎に対する広岡達朗監督のコメントが掲載されていた。「彼は馬力もあるし、足も速い。打線に重量感が出てくる」

隠し球のことを細かく記憶していた駒崎。しかし、この日のヒットがプロ初安打を放ったことも、3安打したことも、こちらが伝えるまで覚えていなかった。「隠し球の印象が強すぎましたね」

駒崎は現在、地元・埼玉県川口市にある、プロOBが指導する野球塾「ZEROベースボールアカデミー」で小・中学生に野球の基礎を教えている。

20m×26mの専用室内練習場を持ち、2019年で15年目を迎えるこのアカデミー。11年のドラフト2位で日本ハム入りした松本剛など、多くの球児が巣立っているこの場所で、駒崎は子供たちに「ボールからは目を切るな」と実に説得力のある指導を行っている。

「自分から隠し球のエピソードを話すことはないですけど、”強打者でしたよね。そして、隠し球もありましたね”と、ファンの方に言われることはあります」と駒崎は白い歯を見せた。

見抜いた男 カメラマン・大谷義勝

大谷義勝。1940年生まれ、スポニチテレビニュース社を経て、東京フィルム・メートに所属(写真提供:大谷美和子)
大谷義勝。1940年生まれ、スポニチテレビニュース社を経て、東京フィルム・メートに所属(写真提供:大谷美和子)

この隠し球を撮影したのはフジテレビ「プロ野球ニュース」を担当した、東京フィルム・メート所属の大谷義勝カメラマン。当時について、大谷の同僚だった国岡亮介はこう振り返る。

「カメラマンの中で、誰が最初に隠し球を撮るかって競っていました。隠し球は二塁手がやることが多いので、山崎裕之(ロッテ、西武)や元木大介(巨人)のようなくせ者が守っている時は、ランナーが出ると、カメラマンは狙っていましたね。だから大谷さんが隠し球を撮った時は、みんな、"やられた"って言っていました」

この頃、プロ野球ニュースの1コーナーだった「珍プレー・好プレー」が人気を集め、シーズンオフにはゴールデンタイムに特番が組まれるほど好評を得ていた。カメラマンには「隠し球を撮ったら金一封」というお達しもあり、彼らはファインダーを覗く眼におのずと力が入っていった。

当時テレビ各局はニュース映像用に、概ね2台のカメラを球場内に配置していた。1台は通称「上カメ」と呼ばれるバックネット裏、もう1台は一塁側ダッグアウト横の「下カメ」。大谷はこの日、上カメを担当していた。国岡は上カメの役割をこう話す。「プレーを追うのがメインで、ランナーがいる時は、各ベースのランナー紹介を撮って、そしてピッチャーを撮ります」

この場面ではタッチアップで三塁からホームインする走者を下カメが撮り、上カメは二塁から三塁に進んだ駒崎を撮った。その後、上カメは本来ならレンズをピッチャーに向けるところだが、大谷はそのまま三塁ベース上を撮り続けていた。

この時のことを大谷は、その年11月の「珍プレー・好プレー大賞」に出演し、こう話している。「立石選手のグラブの中にボールが見えました。(隠し球が成功するように)タイムがかからなければいいなと、心臓がどきどきしながら見ていました」

三塁走者の駒崎をはじめ、多くの人がだまされた隠し球。では大谷はなぜその瞬間を見逃さなかったのか。国岡はこう話す。「みんな隠し球を撮りたいと思っていても、いつ起きるかわからない隠し球のことは忘れがちです。でも大谷さんは毎日、”隠し球を撮る”と、野手の動きを追っていました。ボールから絶対に目を離さない人でした」

当時、編集を担当していた豊口薫(東京フィルム・メート)は大谷にまつわるエピソードを話した。「ゴルフのテレビマッチで、大谷さんがグリーン脇でカメラを構えていた時です。青木功さんの高く上がったバックスピンの効いたアプローチショットが、グリーンを外れて大谷さんの額に直撃したことがありました。大谷さんになんで避けなかったのかと聞いたら、"避けられたけど最後まで撮り続けるのがプロだ"と言うのです」。日本初の隠し球映像は、ボールから目を切ることなく、レンズを向け続けた大谷だからこそ撮れたものだった。

残された新聞スクラップ

「口数の少ない人だったので、仕事の話はほとんど聞いたことがないんです。隠し球のことも、"撮るのは大変なんだ"とだけ話していました」。大谷の妻・美和子は言う。

大谷は2014年7月、肺がんでこの世を去った。73歳だった。「いつもはご飯を山盛り食べる人が、半分しか食べないからおかしいと思って病院に行ったんです。そうしたら肺がまっ黒だと。その数日後には亡くなってしまいました」

多くを語らず、家庭に仕事を持ち込まなかった大谷。しかし、隠し球を扱った当時の新聞・雑誌の切り抜きは、30年以上経ってもきれいな状態で自宅に保存されていた。

大谷が大事に保存していた当時の新聞記事のひとつ(サンケイスポーツ)には「撮った隠し球 お茶の間に初めて放映」「大谷カメラマン快挙」「執念の”目”実る」の文字が躍る(資料提供:大谷美和子)
大谷が大事に保存していた当時の新聞記事のひとつ(サンケイスポーツ)には「撮った隠し球 お茶の間に初めて放映」「大谷カメラマン快挙」「執念の”目”実る」の文字が躍る(資料提供:大谷美和子)

もう隠し球は見られない!?

この「日本初の隠し球撮影」以降も、隠し球の瞬間をとらえた映像はいくつかある。しかし、野手がボールを手にしてから、走者にタッチするまでの一部始終を抑えたものとなると、当時を超えるものは出てきていない。そして今後も撮れないのではないかと、国岡は言う。

「最近のニュース用に使う画は、各社中継映像を買っていて、プレーをメインに追うカメラというのはないんです。中継カメラはカメラごとにビデオテープを回してないので、スイッチングで切っちゃったら、1台のカメラで撮った映像は残りません。テープで撮るにしても最近の野球はボールを頻繁に変えるし、タイムがよくかかるから、あまり長回しはしません。テープ1本で撮れるのは20分ですから。あの隠し球のシーンは前の打者のセンターフライから隠し球成功までワンカット。嘘がないことを証明した映像です」

そして、隠し球自体も昔のようにはできないと、当時阪急でプレーしていた石嶺和彦(現エナジック硬式野球部監督)は説明する。「今はほとんどの打者がプロテクターをつけています。例えば二塁打を打ったら、それをコーチが受け取りに行く時に必ずタイムをかけるので、隠し球を狙うのは無理でしょうね」

また、元西武の清家政和も、「今は相手チームにランナーがいる時にプレーが止まると、ベンチから”タイム!タイム!”と味方の野手にタイムを要求するように声をかけるのが当たり前ですから、昔みたいに隠し球をするのは、ほぼ不可能です」と話す。

隠し球とは

あの日から31年。立石は隠し球を撮ったカメラマンが大谷であることを覚えていた。「僕にとって隠し球はいつもやっていることでしたが、大谷さんが撮ってくれて、みのもんたさんがナレーションをしてくれたことで知られるようになりました。ありがたいです」

立石にとって隠し球とは何か。「隠れた好プレーだと思います。相手の隙を狙って、誰にもわからせずに決めるプレー。ピッチャーが打者と勝負する前にランナーをアウトにする、窮地を救うプレーでもあります。やられた相手はシュンとなるので、流れも変えられるのが隠し球です」

一方の駒崎にとっての隠し球とは何か。「自分のプロ野球における一生の思い出です。隠し球というと、他には元木がやったり、清原(和博)がひっかかった映像がありますが、話題にはなっていませんよね。しかし、あの場面はセンターフライが上がって、センターが捕って送球して、僕がサードに滑り込んで…と隠し球までのすべてのストーリーが映像に収められています。だから今でも思い出してくれる人がいるのだと思います。その中で自分は"助演男優賞"ですね」

仕掛けた男、ひっかかった男、見抜いた男。彼らにとって30年以上前の隠し球は忘れ得ぬ思い出として、胸に刻まれている。(以上、敬称略)

韓国プロ野球の伝え手/ストライク・ゾーン代表

2002年から韓国プロ野球の取材を行う「韓国プロ野球の伝え手」。編著書『韓国プロ野球観戦ガイド&選手名鑑』(韓国野球委員会、韓国プロ野球選手協会承認)を04年から毎年発行し、取材成果や韓国球界とのつながりは日本の各球団や放送局でも反映されている。その活動範囲は番組出演、コーディネートと多岐に渡る。スポニチアネックスで連載、韓国では06年からスポーツ朝鮮で韓国語コラムを連載。ラジオ「室井昌也 ボクとあなたの好奇心」(FMコザ)出演中。新刊「沖縄のスーパー お買い物ガイドブック」。72年東京生まれ、日本大学芸術学部演劇学科中退。ストライク・ゾーン代表。KBOリーグ取材記者(スポーツ朝鮮所属)。

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