「どうする家康」に登場、織田信長の重臣丹羽長秀のルーツ
6日の「どうする家康」に、福澤朗演じる丹羽長秀が登場した。眼鏡をはずしての出演だったため、気が付かなかった人も多いだろう。
長秀は柴田勝家とともに信長の重臣として知られているものの、その生涯は意外と知られていない。
そもそも、丹羽氏とはどういう一族なのだろうか。
丹羽氏のルーツ
丹羽氏のルーツは尾張国丹羽郡(愛知県)。出自は良峰氏、桓武平氏、藤原氏、児玉党など諸説ありはっきりしない。
『尾張誌』の「丹羽郡」の部には、神武天皇の子神八井耳命を祖とする丹羽氏が記載されている。丹羽郡の県主(あがたぬし)を務めた一族で、古代からこの地に有力豪族丹羽氏がいたことがわかる。
ただし、中世の丹羽氏は一般的には良峰氏の末裔とされることが多い。というのも、平安時代丹羽郡の郡司は代々良峰氏が世襲していたからだ。従って、良峰姓の一族が、支配する郡名をとって丹羽氏を称したというのはわかりやすい。しかし、鎌倉時代になると郡司の良峰氏は没落した。
長秀の出た丹羽氏がどの末裔なのかはわからないが、いずれにしても名字の地は尾張国北部の丹羽郡であろう。現在でも「丹羽」という名字は愛知県の尾張北部から岐阜市付近にかけて激しく集中しており、この付近一帯が丹羽氏の本拠地であることは間違いない。
丹羽長秀の来歴
さて、丹羽長秀の出た丹羽氏は代々守護斯波氏に仕えており、長政が丹羽郡児玉村(現在の愛知県名古屋市西区)に住んだのが祖という。そして、その子長秀が織田信長に仕えて重臣となったもので、織田家譜代の家臣というわけではない。
長秀は柴田勝家とともに信長の重臣となり、近江佐和山で5万石を領した。豊臣秀吉が、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」をとって「羽柴」を名字としたように、この2人が信長家臣を代表する存在だった。
本能寺の変の際には四国出兵のため大坂におり、備中から駆け戻ってきた秀吉と協力して明智光秀を討った。以後は秀吉に従い、賤ヶ岳合戦で柴田勝家が滅ぶと、越前・若狭・加賀半国を領する大大名となった。しかし、その2年後には寄生虫による病気で51歳で死去した。
その後の丹羽氏
跡を継いだ長男長重は、家臣成田弥八郎の不祥事や、家臣だった長束正家、村上義明、溝口秀勝らの独立などが重なって、わずか加賀松任4万石にまで削られて、往時の勢いはなくなった。
小田原攻めの功などで加賀小松12万石にまで回復したものの、関ヶ原合戦では加賀で東軍の前田利長と争い(浅井畷の戦い)一時所領を没収された。
その後大名に復帰、大坂の陣の功などで棚倉5万石を領した後、各地を転々として子孫は二本松藩主となった。