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「どうする家康」、本能寺で信長を討った明智光秀のルーツ

森岡浩姓氏研究家
亀山城跡の明智光秀像(写真:イメージマート)

23日の大河ドラマ「どうする家康」で、織田信長を本能寺で討った明智光秀。

光秀は、かつては博識で有能だが人望に欠けるというイメージで描かれることが多かったが、2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」で、長谷川博己の颯爽としたイメージと相まって光秀の印象は一変していた。

しかし、今回の「どうする家康」ではそうした光秀のイメージを再び根底から覆している。公式サイトにも「家康や秀吉のささいな仕草も見逃さない」「信長には媚びへつらう」と書かれており、相当嫌なヤツという設定になっている。

こうした演出上の観点は別にして、そもそも明智氏とはどういう一族なのだろうか。

明智氏のルーツ

「麒麟がくる」でもそうだったように、一般的に明智光秀は美濃の名門土岐氏の一族とされている。

中世、美濃国可児郡明智荘(現在の岐阜県可児市)に、清和源氏土岐氏庶流の明智氏がいたことは間違いない。

近年、南北朝時代の武将土岐頼基が長山氏を名乗っていた史料が見つかったことから、頼基が明智荘に住んで長山氏を称し、その子頼重が明智九郎と称したのが祖ではないかとみられている。なお『尊卑分脈』では「明智」ではなく「明地」と書かれている。

史料上の初見は南北朝時代の観応2年(1351)正月30日付の足利尊氏自筆書状にある「あけちひこくろう」で、この「ひこくろう」は頼重を指している。東美濃の有力一族とみられ、斎藤道三の娘で織田信長に嫁した濃姫(帰蝶)の生母は明智氏の出ともいわれる。

明智光秀の先祖

では光秀はこの明智氏とはどういう関係にあるのだろうか。

光秀は美濃明智氏の一族だとは思われるが、光秀以前は系図が各種ありよくわからない。そもそも光秀自身の前半生すらよくわからないのだ。

光秀ははじめ朝倉義景に仕えて、同じく朝倉氏を頼っていた足利義昭を奉じ、その家臣細川藤孝とともに織田信長のもとを訪れて家臣となった。元亀2年(1571)には近江国滋賀郡を領して坂本城(滋賀県大津市)を築城。天正7年(1579)には波多野氏、赤井氏を滅ぼして丹波国を支配した。

そして、本能寺で織田信長を討ったが、備中から反転して来た豊臣秀吉に山崎合戦で敗れ、逃げる途中小栗栖で土民に殺されている。

なお、光秀は生存説が多く、各地に光秀の末裔と伝える家がある。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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