設楽原で討死した、武田信玄の重臣山県昌景の名字のルーツ
11日の「どうする家康」では設楽原で戦国最強と言われた武田軍が織田信長の鉄砲隊の前に惨敗を喫する場面が描かれた。
騎馬隊を中心とした武田軍は、家康も三方ヶ原で完敗するなどその強さは比類なかったが、当時最先端の武器である鉄砲を3000挺も揃えた信長軍の前には手も足も出なかった。
この戦いで、武田軍は多くの重臣が討死している。その代表が重臣筆頭とされドラマでも最期が描かれた山県昌景である。「山県」と書いて「やまがた」と読むのは難読のようにも見えるが、別に珍しい名字ではない。
では、この「山県」とは一体なんだろうか。
山県の由来
「山県」は地名由来の名字である。
そのルーツは2つあり、美濃国山県郡(現在の岐阜県)と安芸国山県郡(現在の広島県)のいずれも郡名に由来している。そして、この2ヶ所にはいずれも地名を名乗る山県氏がいた。
そもそも「山県」とは「山」+「県(あがた)」。「あがた」とは古代の行政単位で、ヤマト王権が直接支配している地方を指した。そうした場所のうち山の近くの場所が「山県」で、「やまがた」ともいい「山方」とも書いた。
甲斐と安芸の山県氏
美濃国山県郡には清和源氏多田氏の一族が住み、郡名をとって山県氏を名乗った。室町時代には幕府の奉公衆をつとめている。武田氏重臣の山県氏はこの末裔といわれる。
武田家臣の山県氏は武田信虎に仕えた虎清が祖で、虎清には子がいなかったため、武田信玄が重臣飯富(おぶ)虎昌の弟に跡を継がせた。これが山県昌景で、信玄の重臣として活躍、信玄が駿河国を得ると江尻城代となった。
昌景は天正3年(1575)に設楽原で討死、家督は子昌満が継いだ。
一方、安芸の山県氏は古く、古代豪族阿岐(あき)国造の末裔が山県郡司となったものという。古くは「山方」とも書いた。
平安時代には厳島神社神官の佐伯氏に属し、鎌倉時代の歴史書『吾妻鑑』には山県郡壬生荘(現在の北広島町)の地頭、山方為綱・為忠としてみえる。戦国時代には安芸武田氏に属し、山県備中守、山県筑前守などの名が知られる。
また、戦国時代若狭国にも戦国大名武田氏があった。この重臣にも山県氏があり、安芸山県氏の一族とみられている。
赤備えのその後
さて、山県昌景といえば、「赤備え」である。
「どうする家康」でも赤い甲冑に身を包んだ山県軍はかなりの威圧感を出していた。武田氏滅亡後、武田家臣団の多くは徳川家康に仕えた。このうち、山県昌景の旧臣達は井伊直政に付けられ、直政は自分の部隊を赤備えとして編成している。