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「どうする家康」で、長篠城を守った山家三方衆奥平氏のルーツ

森岡浩姓氏研究家
長篠古戦場(写真:イメージマート)

4日の大河ドラマ「どうする家康」では奥平信昌が籠る長篠城を巡る攻防が描かれた。

長篠城は武田方の菅沼氏の居城だったが、信玄の死で長篠城は落ち、家康方の信昌が守っていた。そこに再び武田勝頼が押し寄せ、援軍を要請するために鳥居強右衛門が敵中突破して家康の本陣までを往復することに1話を費やした。

この奥平氏はこれまであまり登場してこなかったが、ドラマ中にもあったように、信昌が徳川家康の長女亀姫を娶るなど、家康とは関係の深い氏族である。

奥平氏のルーツ

徳川氏の家臣団には出自の怪しい一族が多いが、奥平氏もそうした氏族の一つである。江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』では武蔵七党の一つ児玉党の末裔としている。

平安時代後期、関東地方西部にはいくつかの武士団が割拠していた。その中に埼玉県北西部から群馬県南部にかけて広がる児玉党という有力武士団があった。所属する武士たちはそれぞれ本領の地名を名字として名乗っており、一族中の片山成経の子経氏は上野国甘楽郡奥平(現在の群馬県高崎市吉井町)に住んで奥平氏と名乗っている。

三河奥平氏

奥平家の系譜によると、児玉党奥平氏の子孫は永享の乱で鎌倉公方足利持氏に従って没落したため、貞俊の時に三河国設楽郡作手(つくで、現在の愛知県新城市作手地区)に移り住んだとされる。

なお、出自については村上源氏赤松氏の一族という説もありはっきりしない。

いずれにせよ奥平氏は代々作手を領して、長篠城の菅沼氏、田峰(だみね)城の菅沼氏とともに山家三方衆とよばれ、奥三河を代表する国衆であった。ただ、奥三河は今川氏・松平氏・武田氏という強大な勢力のはざまに位置したことから、度々従う先を変えざるを得なかった。

信昌の父貞能(定能)も、今川氏・松平氏・武田氏などに従ったのちに再び徳川家康に仕えている。その際、家康は娘の亀姫を将来信昌に嫁がせることを約束するなど、対武田家対策として奥平家を重用したことから、信昌は一貫して徳川方に属した。

そして、信玄の死で武田軍が引き上げると菅沼氏の拠っていた長篠城は徳川方の手に落ち、奥平氏が入城した。ただし、信昌は新城城を本拠としており、長篠城にはわずか500人の手勢しか入れていなかった。

その後の奥平氏

長篠の戦いでは、奥平氏も菅沼氏も一族が徳川方と武田方に分かれて戦った。しかし、長篠家と田峰家の主要2家が武田方についた菅沼氏が戦後没落したのに対し、本家である作手家が徳川方についた奥平氏は以後徳川家の重臣となった。

合戦の翌年、信昌のもとに亀姫が嫁ぎ、信昌は生涯側室を置かなかったという。そして、信昌の四男忠明は祖父にあたる家康の養子となって「松平」の名字を賜り、子孫は代々「松平」を名乗った。江戸時代の武蔵忍藩十万石の藩主松平家がその末裔である。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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