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「どうする家康」、討死した夏目広次と明治の文豪夏目漱石の関係

森岡浩姓氏研究家
長野市篠ノ井にある夏目氏発祥の地の碑(筆者撮影)

「どうする家康」の三方ヶ原合戦では、上洛を目指す武田信玄に徳川軍は大敗を喫した。このとき家康を無理やり逃がし、自ら家康の身代わりとなって討死したのが夏目広次である。

夏目広次は酒井忠次、大久保忠世、本多忠勝、鳥居元忠、石川数正といった著名な重臣達にまじって初回から登場している。

また、一般的には夏目吉信といわれることが多いが、一次資料上確認出来るのは「広次」なので、「どうする家康」ではそれに従って広次としているようだ。そして、14日の放送では家康からはしきりに名前を間違われていた理由も明かされた。

夏目氏のルーツ

この夏目氏は三河国幡豆郡の武士で、そのルーツは信濃国にある。

JR信越本線篠ノ井駅から南西に向かって20分ほど歩いたところが長野市篠ノ井石川という地区で、そこから少し山を登ったところに湯入神社という神社がある。ここが夏目氏の拠った夏目城の跡とされ、夏目一族発祥地の碑が建てられている。

夏目氏は清和源氏の一族で、信濃源氏の二柳国忠が源頼朝に仕えて夏目の地頭職を与えられ、その子国平が夏目を領して夏目氏を名乗ったのが祖である。そして、鎌倉時代後期に一族が三河国幡豆郡に移って三河夏目氏になったという。

夏目広次は三河一向一揆で家康に叛いて一揆方に属したものの、帰参を許された。その恩義を感じた広次は、三方ヶ原合戦で敗色濃厚となると、家康を逃がしてその身代わりになった。

夏目漱石との関係

広次の子孫は、江戸時代初期に後継ぎがなく嫡流は断絶したものの、庶流は旗本として存続、豊前中津藩家老をつとめた一族もある。

ところで、「夏目」といって真っ先に思い出すのは文豪夏目漱石だろう。NHKの「どうする家康」公式サイトにある夏目広次の紹介でも「夏目漱石の先祖ともいわれる」とある。

しかし、夏目漱石は武蔵国牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町)の名主の生まれ。この夏目家は信濃夏目氏の一族で、戦国時代は武田氏に仕えていたと伝わる。つまり、夏目広次とは同族だが、三河に転じた三河夏目氏ではなく、信濃に留まっていた夏目氏の末裔である。

武田氏没落後は武蔵に移り、のち豊島郡に土着した。そして元禄15年(1702)夏目四郎兵衛直清が名主役となり、以後代々世襲している。漱石は6代目直克の五男である。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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