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「○条」「○小路」という名字は公家の多数派なのか

森岡浩姓氏研究家
京都御所(写真:イメージマート)

19日に放送された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第24回では、後白河法皇亡きあとの朝廷が描かれ、新たな公家も登場した。大姫との縁談があがった一条高能(いちじょう・たかよし)と、ココリコ田中直樹扮する摂関家の実力者九条兼実(くじょう・かねざね)である。

一般に公家というと「○条」や「○小路」という名字を想像する人が多い。今回登場した2人も「○条」という名字だが、同じ回に登場した朝廷の実力者土御門通親(つちみかど・みちちか)には「条」や「小路」はつかない。実際はどうだったのだろうか。

公家の名乗っていた名字

平安時代の公家は「藤原」「源」「平」「菅原」といった本来の姓を名乗っており、次第に日常的には「名字」(家号)を、正式文書では「姓」を使うようになっていった。ドラマの時代はこうした公家の名字が固まり始めた頃で、鎌倉時代にかけて「公家の名字」が固定化されていく。

公家の数は時代によって違い、江戸時代後期には140家ほどあった。それらの公家の名字を見てみると、「○条」という名字は、「一条」から「九条」まですべて存在する。さらに「三条西」「正親町三条(おおぎまちさんじょう)」という公家もある。なお「正親町三条」家は明治になって「嵯峨」と改称したため、この名字は現存しない。

一方、「○小路」はというと、「油小路」「綾小路」「梅小路」「押小路」「勘解由小路(かでのこうじ)」「北小路」(2家)「富小路(とみのこうじ)」「錦小路」「万里小路(までのこうじ)」「武者小路」の10名字11家。また「大路」を使用した「西大路」という公家もある。しかし、これらをすべて合わせても23家と公家全体の2割にも満たず、多数派とはいい難い。

また、公家の名字は「池尻(いけがみ)」「石井(いわい)」「久我(こが)」といった難読のものも多いが、中には「山本」「中山」「橋本」といったごく普通の名字の公家もある。

公家の名字の決め方

そもそも公家はどうやって名字を決めていたのだろうか。

公家は皆、京に邸宅を構えていた。従って、多くの公家は邸宅のあった場所を名字として採用した。

油小路家は油小路に邸宅があり、一条家は一条通に屋敷を構えていた。しかし、全ての通りに「条」や「小路」「大路」がつくわけではない。今出川通りに屋敷のあった今出川家や、烏丸(からすま)通に因む烏丸家もある。さらに、建立した寺の名前を名乗った西園寺家や徳大寺家、所領のあった岩倉村(現在の京都市左京区)に因む岩倉家などもある。土御門家は内裏の門の一つ土御門に因んでいる。

公家の家格

ひとまとめに公家といっても、家格には大きな違いがあった。このうち最も位が高のが「摂家(せっけ)」で5家あった。

摂家は「近衛(このえ)」「一条」「九条」「鷹司(たかつかさ)」「二条」の5家で、合わせて五摂家と呼ばれた。このうち、近衛家が筆頭で、九条兼実は九条家の当主である。なお、大河ドラマの時代はまだ五摂家の一条家は誕生しておらず、一条高能の一条家は別の流れである。摂家以下は、清華(せいが)家、大臣家、羽林(うりん)家、名家、半家の順に家格が決められていた。

明治維新後、華族制度が誕生すると、公家はすべて子爵以上の華族となり、五摂家はすべて最高位である公爵を授けられた。このとき、五摂家と並んで公爵となったのが三条家である。三条家の家格は清華家であったが、幕末に三条実美(さねとみ)が倒幕に活躍、維新後も明治政府の要職を歴任したことから最上位の公爵を授けられた。もう一家、羽林家の岩倉家も公爵を授けられている。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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