Yahoo!ニュース

「鎌倉殿の13人」、頼朝の弟たちの子孫が名乗った名字を総まとめ

森岡浩姓氏研究家
静岡県伊豆市にある源範頼の墓(写真:イメージマート)

源頼朝は父義朝の三男である。しかし、長兄義平、次兄朝長とは違って父の正妻由良御前の子であったことと、平治の乱で敗れた際に義平は処刑され、朝長は深手を負って東国に逃れる途中に父義朝によって首を討たれたため、三男でありながら嫡男であった。

頼朝の弟というと義経が有名だが、義朝には子どもが多く、義経の他にも多くの弟たちがいた。源平合戦に詳しい人にとっては平家追討軍の大将軍をつとめた範頼は有名だが、それ以外の兄弟はあまり知られておらず、「鎌倉殿の13人」に次々と登場する弟たちに驚いている人も多い。

頼朝の兄弟たちは「源」という姓を名乗っていたが、その子孫はそれぞれ新たな名字を名乗った。(参考:「姓」から「名字」への転換期だった『鎌倉殿の13人』の時代

ドラマのネタバレとなる部分も多いが、こうした頼朝の弟たちの子孫の名字をみてみよう。

五男の子は「吉良」、六男の子は「吉見」を名乗る

頼朝のすぐ下の四男義門(よしかど)は早世したため詳細は不明。

五男は希義(まれよし)といい頼朝と同じ由良御前の子。「鎌倉殿の13人」には登場しておらず、平治の乱で土佐国介良(けら、現在の高知市介良)に流されていた。頼朝が挙兵すると、それに合流しないようにと、平家の命を受けた蓮池家綱・平田俊遠によって討たれている。

頼朝が政権を樹立すると、希義の遺児希望は土佐国吾川郡に所領を与えられ、吉良氏を称したと伝える。以来吾川郡内に勢力を振るい、戦国時代には土佐を代表する戦国大名の一つにまで発展した。

現在でも高知県には「吉良」が多く、この吉良一族の末裔と伝える。なお、「忠臣蔵」で有名な吉良上野介は別流で、室町将軍足利家の分家である。

六男が範頼(のりより)で、遠江国蒲御厨(現在の静岡県浜松市)にいたため「蒲冠者」(かばのかじゃ)といわれた。義経とともに平家追討に功をあげ、鎌倉幕府内でも重要な地位についた。

しかし謀反の疑いで伊豆に流され、結城朝光、梶原景時らによって誅殺された。子範円は許されて、後に武蔵国比企郡吉見荘(現在の埼玉県吉見町)に所領を与えられ、吉見氏を名乗ったという。南北朝時代に能登で活躍した吉見氏や、戦国時代に石見の有力武士だった吉見氏はいずれも子孫とされる。現在「吉見」という名字は愛知県以西に広く分布している。

七男全成は「阿野」、八男の子孫は「愛智」

七男・八男・九男の母は常磐御前で、平治の乱の際にはいずれも幼かったため寺に入れられた。

醍醐寺で修行していた七男全成(ぜんじょう)は頼朝挙兵を聞いて寺を抜け出し、いちはやく頼朝軍に合流。北条政子の妹阿波局(ドラマでは実衣)を妻とし、鎌倉幕府成立後は駿河国駿東郡阿野(現在の静岡県沼津市)に所領を得て阿野氏を称した。

頼朝没後は二代将軍頼家と対立、建仁3年(1203)に謀反の容疑で捕らえられて常陸国に配流となり、頼家の命を受けた八田知家によって誅殺された。しかし、子孫は駿河で武士として続いた他、全成の娘が公家滋野井家に嫁いだことに因む公家阿野家もあるなど、家名は続いている。

現在「阿野」という名字は西日本に点々とあり、この阿野氏の末裔とみられるものが多い。

八男は義円(ぎえん)。ドラマでは頼朝軍に合流した後に離脱してすぐに殺されてしまったが、実際は合流しないまま源行家とともに尾張で挙兵し、墨俣川で平家方に討たれたとみられる。その遺児義成は愛智荘(現在の愛知県)を領し子孫は愛智氏となった。

「愛智」は次第に「愛知」に漢字が変わっていった。江戸時代、幕臣に愛知家があり、佐藤内閣・田中内閣で外相や蔵相を歴任した愛知揆一はその末裔に当たる。現在、「愛智」は極めて少なく、「愛知」は愛知県と岐阜県に集中している。

そして九男が義経。義経には静御前との間に男子が生まれたが、誕生直後に頼朝によって殺された。また、奥州に逃れていた郷御前との間に生まれた娘も衣川館の持仏堂で義経とともに自害し、子孫は残っていない。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

森岡浩の最近の記事