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「鎌倉殿の13人」に登場した佐々木一族 4兄弟の活躍で屈指の大豪族に

森岡浩姓氏研究家
滋賀県近江八幡市の沙沙貴神社(筆者撮影)

「鎌倉殿の13人」に登場した佐々木一族。第4回放送で、佐々木秀義は歯が抜け言語不明瞭な老兵としてユーモラスに描かれた。最終場面で1本の矢を放ち源平合戦の口火を切ったのは、息子である佐々木4兄弟の次男・経高だった。

佐々木氏は近江の出で、ドラマ中では「元近江の豪族」と紹介されていた。確かに佐々木一族は近江の出だが、実は佐々木一族にはもともと2つの流れがあった。

源平合戦における源頼朝配下の武士は平氏の武士が多かった。そうしたなか、源氏出身の有力一族が佐々木氏である。ただし、佐々木氏は頼朝の出た清和源氏ではなく、宇多源氏の出である。

そもそも源氏や平氏とは、天皇家の分家が皇族の身分を離れて臣下となった際に天皇から「源」や「平」という姓を賜ったもの。これを臣籍降下といい、平安時代には何回にもわたって行われた。そのため、源氏や平氏といってもいくつかの流れがあり、祖となる天皇の名前をとって「○○源氏」「○○平氏」と呼ばれた。平氏は桓武天皇の子孫である桓武平氏以外はほぼ栄えることがなかったが、源氏はいくつかの流れが公家や武家として発展した。

宇多天皇は、皇子のうち、後の醍醐天皇を除く4人の皇子に源姓を賜って臣籍降下させたのが始まり。この子孫は宇多源氏と呼ばれ、公家と武家の両方で栄えた。

武家となったのは宇多天皇の曾孫扶義の子孫で、扶義の子成頼が近江国蒲生郡佐々木荘(現在の滋賀県近江八幡市・東近江市)に住んで佐々木氏を称したとも、その孫経方のときに初めて佐々木荘に下向して佐々木氏を称したともいう。いずれにしても、宇多源氏の武家は近江国を本拠とした。

しかし、近江国蒲生郡には古くから沙沙貴神社を氏神とする古代豪族の佐々貴山(ささきやま)氏がおり、勢力を伸ばすことが難しかった。さらに佐々木経方の孫の秀義は源義朝に仕えたものの、平治の乱で義朝が討たれたことから佐々木荘を追われてしまう。

秀義は藤原秀衡の妻となっていた母方の叔母を頼って奥州に下る途中、相模国で渋谷重国の食客となって留まった。そのため、この時点では宇多源氏佐々木氏は「元近江の豪族」だった。

そして、秀義は4人の息子を伊豆に配流となった頼朝のもとに配下として通わせ、嫡男の定綱は配流中の頼朝の数少ない配下の武士だった。

頼朝が挙兵すると、定綱以下、経高・盛綱・高綱の4兄弟が参陣、とくに高綱は宇治川の先陣で名高い。その活躍によって鎌倉幕府の成立後は佐々木荘を回復しただけではなく、長男定綱が近江守護となるなど、一族で12ヶ国の守護に任ぜられた。以後、宇多源氏佐々木は古代豪族佐々貴山氏を一族に取り込んで同化し、巨大な佐々木一族となって沙沙貴神社を本拠として全国に広がった。

佐々木一族は秀義の孫の信綱が嫡流となり、その重綱、孝信、泰綱、氏信の4人の息子がそれぞれ「大原」「高島」「六角」「京極」の4家に分かれ、六角氏は後に戦国大名となった。

また、京極氏から山陰の戦国大名尼子氏が出た他、江戸時代の丹波福知山藩主の朽木家は高島氏の一族であるなど、一族の数は極めて多い。

「佐々木」は現在全国ランキング13位というメジャーな名字だが、ほぼこの近江佐々木氏の末裔と伝え、沙沙貴神社には佐々木氏発祥の地の碑も建てられている。

姓氏研究家

1961年高知県生まれ。早稲田大学政経学部在学中から独学で名字の研究をはじめる。長い歴史をもち、不明なことも多い名字の世界を、歴史学や地名学、民俗学などさまざまな分野からの多角的なアプローチで追求し、文献だけにとらわれない研究を続けている。著書は「全国名字大辞典」「日本名門・名家大辞典」「47都道府県・名字百科」など多数。2017年から5年間NHK「日本人のおなまえ」にレギュラー出演。

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