Yahoo!ニュース

「新しい資本主義」に欠落するもの 第4回 雇用の流動化、人的資本の向上策-能力開発控除の創設

森信茂樹東京財団政策研究所研究主幹 
(提供:イメージマート)

「新しい資本主義」の一丁目一番地は、「人への投資と分配」で、具体的には「賃上げ」と「人的資本の向上」である。実はこの2つは極めて関連性が高い。賃金が継続的に上がっていくためには、一人当たり労働生産性を高める必要がある。そのためには、雇用の流動化と人的資本の向上をパッケージとした政策を進めて行くことが必要だ。成熟分野から成長分野へ、企業も労働者もスムーズに移動していくことが、賃上げや経済成長につながっていくからだ。

デジタルやDXが普及・発達する中で、知識が古くなった労働者の再教育、リスキリング、能力開発を行うことが人的資本を高め、生産性向上に結び付き、産業構造の転換・高度化につながり、継続的に賃上げの可能な会社経営・経済へと進んでいくという道筋である。

このことは、10年20年前から指摘されてきたにもかかわらず、現在までほとんど進んでいない。その原因・理由は、このストーリーの出発点が、「雇用の流動化」になっているためではないか。

わが国では、終身雇用制度の下、厳しい解雇規制(判例による)があり、労働組合も正規雇用者の雇用継続を志向し、雇用者は賃上げよりも安定した雇用を優先させてきた。会社側が、新たな成長分野に進出するためには、その分野にふさわしい優秀な人材を雇う必要があり、そのために今抱えている正社員の整理を進める必要が出てくる。これは、正社員側から考えると、会社側の都合の解雇で寝耳に水の話となり大きな抵抗を受ける。この結果、成熟・衰退産業から成長産業へのスムーズな労働移動が進まない。

そこで正社員と同様に無期労働契約を結ぶ一方で、ジョブ(職種)、勤務地、労働時間などは限定的な働き方となる「日本版ジョブ型社員」を導入し、会社側が「ジョブ」がなくなれば雇用終了(解雇)ができるようにと改革が行われつつあるのだが、物事はそう簡単には進まない。ではどうすべきか。

「雇用の流動化」を進めるには、失業(休業)中の所得をきちんと国が保障し、その期間安心して転職のための職業訓練・能力開発を受ける制度が必要だと考える。先例は、多くの欧州諸国に見ることができる。デンマークのフレキシキュリティ(雇用の柔軟性を意味するFlexibilityと安全を意味するSecurityを組み合わせた造語)、スウェーデンの積極的労働政策、英国ブレア政権の「第3の道」、ドイツのシュレーダー構造改革などだ。

最も参考になると思われるのが英国だ。ブレア首相(当時)は、市場原理を活用しつつ政府の役割の重視・拡大をはかる「アングロ・ソーシャル・モデル」(第3の道)を実行に移した。失業給付を充実させ、失業中の職業訓練(能力開発)を条件化し、安心して職業訓練・能力開発を受けることが可能になった。働いて所得が発生し始めると、第2回で述べた、税と社会保障を連携させた勤労税額控除(給付付き税額控除)が発動され、もっと働いて稼ごうというインセンティブがわく。

実はわが国にも、第1のセーフティネットとしての「雇用保険」、第3のセーフティネットである「生活保護」の間をつなぐ第2のセーフティネットとして「求職者支援制度」がある。残念ながらこの制度は、参加要件や収入要件が厳しいことやカリキュラムが時代に合っていないなどからあまり活用されていない。英国をモデルに人的資本向上の制度に抜本的改組をすべきではないか。こうなれば、雇用の流動化、所得の下支え、職業訓練による人的資本の向上がセットとなり、安心して「新たな資本主義」に向かうことができる。

もう一つ筆者は、自らが新たなスキルを身に付けるための学び直しを促進するための税制を考えている。非正規雇用者や単発の契約で労務を提供するギグワーカー(個人事業者)、さらにはAIやロボットに職を奪われそうな単純労働者などにとっても、学び直しによる人的資本向上は、失業を防ぎ生活を安定させる効果がある。

かつて筆者がコロンビア大学で学んだ際、多くの日本人留学生がいた。彼ら・彼女らは、企業や官庁から派遣された学生と、勤務していた日本企業を退社して年間数百万にも及ぶ学費や滞在費をねん出して学ぶ人たちの2つのグループに分かれていた。個人が人的資本の向上を目的に学び直しをする場合、給与所得者については経費が会社もちである上に、特定支出控除として研修費・資格取得費の控除が用意されている。しかし、自らリスクを取り学び直しをする者は、所得がないのでその費用を所得控除することはできず、リスクをとって学ぶ人たちに不公平な状況となっている。

そこで、彼ら・彼女らには、転職後の収入から複数年にわたって学び直しの費用を控除できる制度を、能力開発控除(仮称)として創設し支援してはどうか。これは個人事業者にも当てはめることができる。

税理論で考えると、設備投資などの物的投資には、費用と収益とを対応させる減価償却制度があり、投資費用は複数年にわたり費用として控除できる。学び直しを人的投資と考えて、その費用を転職後の収入から複数年にわたり控除できるようにすることは、決しておかしな発想ではない。このような人的投資は、経済成長に役立つというメリットだけでなく、ロボットに代替できない人間しかできない仕事を学び直すことによりAIやロボットに職を奪われることへの対応策になる。

次回(第5回)は「資本所得倍増プランと富裕層への金融所得課税」について書いてみたい。

第1回 総論としての「分配」と「再分配」

第2回 フリーランスやギグワーカーのデジタル・セーフティネット

第3回 マイナンバー制度(マイナポータル)を活用したデジタル・セーフティネット

第4回)人的資本の向上策と税制-能力開発控除の創設

6回以降

・「新しい資本主義」―賃上げか資産所得(配当)の増加か、二兎を追う政策

・AIとBI(ベーシックインカム) 、そしてロボット・タックス 

・Web3.0の世界と税制

・税のDX―電子インボイスの活用

東京財団政策研究所研究主幹 

1950年生まれ。法学博士。1973年京都大学卒業後大蔵省入省。主に税制分野を経験。その間ソ連、米国、英国に勤務。大阪大学、東京大学、プリンストン大学で教鞭をとり、財務総合政策研究所長を経て退官。東京財団政策研究所で「税・社会保障調査会」を主宰。(https://www.tkfd.or.jp/search/?freeword=%E4%BA%A4%E5%B7%AE%E7%82%B9)。(一社)ジャパン・タックス・インスティチュートを運営。著書『日本の税制 どこが問題か』(岩波書店)、『税で日本はよみがえる』(日経新聞出版)、『デジタル経済と税』(同)。デジタル庁、経産省等の有識者会議に参加

森信茂樹の最近の記事