「高校野球黄金時代」がピークを迎える昭和50年代後半。早稲田実(東京)の荒木大輔(現日本ハム二軍監督)から甲子園の主役の座を奪った池田(徳島)は、従来の高校野球の常識を覆す魅力を持っていた。それまでは、エースを中心にした手堅い野球が高校野球のいわゆる「王道」であり、スクイズこそが甲子園戦法とされてきた。池田は、その常識を覆す異次元の強打で、高校野球界に革命をもたらした。

スクイズを躊躇した蔦監督

 先年、池田の象徴ともいうべき蔦文也監督(平成13年没、享年77)の孫、哲一朗氏が制作したドキュメンタリー映画「蔦監督ー高校野球を変えた男の真実」を見た。その中に描かれていたワンシーンに、池田の攻撃野球の原点がある。この映画は、蔦監督の周辺にいた人たちの証言が中心で、それによると、あの豪放磊落に見える蔦さんが、実は非常に憶病な性格だったようだ。ベンチで部長に、「ここはスクイズかのう」と、サインを出そうか躊躇しているうちに、打者が打って得点した。「スクイズはいらん」。それがのちの「攻撃野球」につながったのだとか。1974(昭和49)年センバツの「さわやかイレブン」と、5年後の夏はいずれも甲子園準優勝と活躍したが、決して豪快な野球をしていたわけではない。しかし、金属バットの特性をいち早く見抜いていた蔦監督は、パワーこそが自分の理想とする野球を実現させてくれると信じていた。

金属バットでパワー生かす

 金属バットが導入されたのは、池田がセンバツで準優勝した次の大会。つまり昭和49年夏からである。すぐに折れて不経済な木製バットと違い、金属バットは耐久性に優れ、活動費不足に苦しむ高校にとっては救世主となった。ただし、導入最初の大会で優勝した銚子商(千葉)の2年生4番打者・篠塚利夫(和典=元巨人)は、木製バットで2本塁打を放っている。3年後のセンバツで中堅越えを放った天理(奈良)の鈴木康友(元巨人ほか)や、甲子園通算5本塁打の浪商(現大体大浪商=大阪)・香川伸行(元南海)など一部を除いて、数年間は金属バットを使いこなせていない選手も多かった。「攻めダルマ」とも称された蔦監督が、しばしばベンチから外野方向に手を伸ばして、「ほうり込め」というポーズを取っていたのを記憶している読者もいるだろう。それに呼応するかのように、池田の選手たちは大きな当たりを連発。少々、芯を外れても外野手の頭を越せる「魔法のバット」は、池田のパワー野球によって全国に衝撃を与えた。

ウエイトトレを取り入れ筋力アップ

 甲子園での活躍と同時に、9番打者でも本塁打を打てる池田のパワー野球は、指導者たちにも刺激を与えた。当時のドキュメンタリー番組を今でも鮮明に覚えている。エースで4番だった水野雄仁(元巨人)が、新入部員にウエイトトレーニングの指導をしている。新入生がまったく持ち上げることのできないバーベルを、水野は軽々と上げて見せた。「おまえらでもできるようになる」。そんなことを言っていたかどうか記憶は定かではないが、実に衝撃的なシーンだった。「金属バットはパワーがすべて」。蔦監督は、徹底したウエイトトレで選手たちに筋力をつけさせた。「やまびこ打線」と称された強打は、こうして徳島の山あいの町で育まれていったのである。

「夏春夏3連覇」懸け最後の夏

 池田の野球が一気に開花したのは、1982(昭和57)年夏の早実戦であることは、前回述べた。一躍、甲子園の主役となった池田は、翌年、さらに安定感のある試合運びで、夏春連覇を遂げる。水野の投球は他を圧倒する力強さがあり、打力が向上する夏は、さらに強くなっているだろうと容易に想像できた。センバツ優勝後の達成感もなく、春の四国大会を制して、夏の徳島大会も難なく勝ち抜く。「夏春夏の甲子園3連覇」は、達成可能な目標だった。

ライバル一番手は野中の中京

 1983(昭和58)年夏の第65回選手権は、優勝候補筆頭の池田をどこが脅かすかが焦点だった。その一番手が、野中徹博(元阪急ほか)のいた中京(現中京大中京=愛知)である。さらに池田の強打に対抗できそうなチームとして、センバツ準優勝の横浜商(神奈川)、箕島(和歌山)、興南(沖縄)、久留米商(福岡)など、のちにプロに進む好投手を擁する高校に期待が集まった。しかし実際には、これらのチームと池田は、この大会では対戦していない。池田は初戦で初出場の太田工(群馬)を8-1で退ける。続く高鍋(宮崎)も水野が完封して、3回戦で、前年夏の決勝で当たった広島商と対戦することになった。決して苦戦したわけではないが、この試合がターニングポイントになる。

水野が頭部死球のあと中京戦

 試合は2回、池田が水野の本塁打で先制。4回にも加点して4-0と優位に立つ。前年ほど一方的ではないが、池田ペースは変わらない。しかし、5回の攻撃でアクシデントが起こる。水野が頭部に死球を受け、昏倒。その後も投げ続けたが影響は明らかにあった。蔦監督が、「あのあと力が入らんようになった」と話したように、それまでの投球は影を潜め、直後に失点する。変化球主体で何とか完投(3失点)したが、手負いの水野に、「池田危うし」の声がささやかれた。そして、準々決勝の相手は最強のライバル中京。この試合が「事実上の決勝」という位置づけだった。

難敵中京を倒し、3連覇は確実視

 8時の試合開始前に甲子園のスタンドは超満員となり、試合も緊迫する。水野が制球重視で中京を抑えれば、野中も力強い速球を主体に連打を許さない。1-1のまま、9回に入った。内容的にもまったくの互角で、延長にでも突入すれば後攻の中京に分がある。それでも池田は、土壇場で本領を発揮する。チーム屈指のパワーを持つ7番の高橋勝也が、高め速球を豪快に左翼席へ運んで勝ち越した。さらにがっくりきた野中からもう1点を加え、3-1で水野が完投勝ちした。センバツ準決勝の明徳戦がそうであったように、接戦になっても池田には終盤で見せる底力があった。「池田の3連覇確実」。筆者はもちろん、誰もがそう思っただろう。ちなみに、野中は現在、出雲西(島根)の監督として中国大会に進出するなど、甲子園を射程圏にしている。

準決勝は1年生エースのPLと

 池田の準決勝の相手はPL学園(大阪)に決まった。この試合、PLが勝つと予想した人は皆無に近い。リアルタイムで見ていた人ならそう記憶しているはずだ。それくらい、両者には力の差があった。PLは、1年生の桑田真澄(元巨人ほか)の加入で春以降、力をつけてはいたが、大会前の評価は「B」だった。所沢商(埼玉)、中津工(現中津東=大分)には桑田の好投で快勝。苦戦が予想された東海大一(現東海大静岡翔洋)との3回戦も、桑田が好救援して逃げ切った。準々決勝は津野浩(元日本ハムほか)のいた高知商で、高知商有利と見られていた。津野の乱調につけ込んで5回までに8点を奪ったPLに対し、高知商も津野の本塁打などで追い上げたが、10-9でPLが辛勝した。この試合で桑田は中盤につかまっていて、池田の打線には通用しないだろうと思われた。

「まさか」の展開で主役が入れ替わった

 最大のヤマと見られた中京を破り、池田ナインは優勝を確信していた。口にしなくともそれはわかる。相手の1年生エースなど眼中になかった。しかし、中京を破った「達成感」という見えない敵が、池田を侵食し始める。2回、水野は桑田の2点本塁打などで4点の先制を許した。下位打者に連続本塁打を浴びる姿などそれまで想像もできなかったが、広島商戦の死球以降、水野の投球は明らかに変調をきたしていた。体の開きが早くなり、シュート回転して真ん中に入った棒球を、右打者に軽々と運ばれる。「まさか」の展開だ。水野はこのあとも失点を重ね、前年夏から猛打をほしいままにしてきた「やまびこ打線」にも焦りの色が見え始めた。6回の無死1、2塁で水野が併殺に倒れると、いよいよ王者危うしの空気が球場全体を覆いつくす。この日の池田に、終盤の底力は残っていなかった。試合は7-0の意外な大差で、PLが完勝。こうして池田の3連覇は途絶え、新たな主役が甲子園でスポットライトを浴びることになる。甲子園で主役の入れ替わる試合は珍しく、抽選運に大きく左右される。それは相手だけでなく、当たるタイミングにもよる。もし、この対戦が準々決勝以前に行われていたなら。中京がまだ勝ち残っていたなら、歴史は変わっていたのではないかと思うのは、筆者だけだろうか。

池田と筆者の縁は深く

 水野は7失点したが、もう一人の1年生、4番の清原和博(元西武ほか)からは4打席連続三振を奪って意地を見せている。蔦監督最高傑作のチームは、こうして甲子園を去るが、その後も池田はしばらく甲子園で活躍する。筆者が入社後、最初に取材に行ったのが池田だった。高校野球好きを知ったスポーツ部のプロデューサーが、センバツ前に気を利かせてくれた。初の実況も池田の試合だったし、池田のスタンド中継で、梶田茂生投手(筑波大~日本生命)の母上にも優勝インタビューさせてもらった。筆者にとって、池田は最も縁の深いチームである。