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高校野球黄金時代を振り返る!   第2章  歴史を変えた2試合(その1)

森本栄浩毎日放送アナウンサー
昭和50年代後半には、甲子園の主役が入れ替わる重要な2試合があった(筆者撮影)

 1985(昭和60)年夏。桑田真澄(元巨人ほか)と清原和博(元西武ほか)の「KKコンビ」擁するPL学園(大阪)が、宇部商(山口)をサヨナラで破って優勝し、「高校野球黄金時代」はクライマックスを迎えた。もちろん、その後も高校野球人気が衰えることはなく、多くの名勝負、名選手が甲子園の歴史を彩ってきた。しかし、最高潮に達するまでの6年間、甲子園には誰の目にも明らかな「主役」が存在していた。

歴史が変わった一戦

 雨あがりの甲子園に鋭い金属音がこだまする。長く甲子園の主役であり続けたエースは、異次元の打棒に粉砕され、茫然と打球の行方を見つめるだけ。そして静かにその座から降りた。1982(昭和57)年8月18日、準々決勝第3試合の池田(徳島)-早稲田実(東東京=当時)戦で、甲子園の歴史は変わった。

荒木は1安打完封デビュー

 この日まで甲子園の主役だったアイドル投手は、鮮烈なデビューを飾った。1980(昭和55)年夏、荒木大輔(元ヤクルト、現日本ハム二軍監督)は、名門・早実の1年生エースとして、北陽(現関大北陽=大阪)との初戦に臨んだ。北陽は地方大会(予選)のチーム打率が49校中トップで、北陽有利の前評判もあったほどだ。しかし、ふたを開けてみれば、早実の一方的な試合となった。序盤からの本塁打攻勢で大量援護をもらった荒木は、焦る北陽を手玉に取りゴロの山を築く。特に同じ1年生二塁手・小沢章一(早大)の堅守が光った。荒木は、三塁への内野安打1本に抑える完璧な投球で完封。甲子園のニューヒーロー誕生の瞬間だ。

初の甲子園は惜しくも準優勝

 荒木の快進撃は止まらない。続く東宇治(京都)戦も無失点だったが、大差がついて9回に降板。札幌商(現北海学園札幌=南北海道)との3回戦は、7回まで両校無得点の緊迫した展開も、落ち着いた投球で4安打に完封。準々決勝の興南(沖縄)も3安打で完封し、準決勝の相手は前の試合で20得点している瀬田工(滋賀)に決まった。準決勝は雨にたたられ、第1試合の横浜(神奈川)と天理(奈良)の試合だけが行われた。翌日に順延された瀬田工戦は、7安打されたがまたも完封。無失点記録は44回1/3まで伸びた。決勝の相手は、愛甲猛(元ロッテほか)擁する横浜で、大会の優勝候補筆頭だった。連投の疲れもあったか、荒木は初回につかまり、無失点記録が途絶える。早実打線も愛甲をKOする意外な展開となったが、惜しくも荒木のデビュー大会は準優勝に終わった。

最後の夏に懸ける荒木

 その後も荒木は甲子園の主役であり続けた。2年生のセンバツは、東山(京都)に敗れた。荒木にとって唯一の初戦敗退である。その夏も、優勝候補に挙げられ高知と鳥取西を退けたが、3回戦で金村義明(元近鉄ほか)の報徳学園(兵庫)に逆転サヨナラ負けを喫した。報徳はそのまま優勝するが、筆者はこの試合が事実上の決勝だったと思っている。3年生の春は、西京商(現西京=京都)と岡山南を破るも、三浦将明(元中日)の横浜商(神奈川)に逆転負けし、残すは最後の夏だけになった。荒木にとって5大会連続出場となった1982(昭和57)年夏。初戦で宇治(現立命館宇治=京都)を圧倒し、自らの本塁打のおまけまで付けて好スタートを切ると、星稜(石川)、東海大甲府(山梨)にも勝って、準々決勝に進んだ。相手は、「やまびこ打線」の池田だ。

池田は辛勝続きで荒木に向かう

 この大会の池田は、有力校のひとつではあったが、早実ほど評判が高かったわけではない。静岡の大久保学(元南海)を何とか攻略して初戦を突破すると、日大二(西東京)、都城(宮崎)には、9番打者の山口博史(九州産大)が2試合連続本塁打を放つ活躍で辛勝した。「荒木対池田打線」。焦点ははっきりしていたが、両校の甲子園経験には大差がある。まさかここまで一方的な試合になるとは、誰も予想していなかっただろう。

池田のパワーが荒木を圧倒

 池田は、初回、江上光治(早大~日本生命)が強烈な一撃で荒木の出ばなをくじく。内角低めの変化球を振り下ろすと、打球は一直線で右翼スタンドに消えた。これで勢いづくと、2回にも3点を加え、5-0と池田のペースになる。6回、早実は2年生の4番打者・板倉賢司(元大洋)の適時打で2点を返すと、熱戦への期待が一気に高まった。早実のキャリアが上回るか。しかしその直後、衝撃的な本塁打が飛び出す。池田のパワー野球、「やまびこ打線」がついに火を噴いた。

筆者の頭上へ驚愕の一打

 背番号「9」の5番打者・水野雄仁(元巨人)が、荒木の外角低めをとらえると、高い放物線は、バックスクリーン脇のカメラマン席に飛び込んだ。筆者はたまたま、この驚愕の一打を間近で見ていたのだ。バックスクリーン横の通路にいて、打った瞬間、これは自分に向かって飛んでくるなと感じた。超満員で身動きがとれず、恐怖心もあった。しかし、打球は予想をはるかに超える飛距離で、頭上を通り過ぎていった。130メートル以上は飛んでいただろう。金属バット導入から9年目。それまでの甲子園で出た本塁打で最長かもしれない。この本塁打で、荒木の甲子園は終わった。

主役に躍り出た池田が初優勝

 水野はこのあと、のちにプロでは荒木を上回る活躍をする石井丈裕(元西武ほか)からも満塁弾を放ち、池田が早実を14-2の大差で破った。この瞬間、甲子園の主役は、荒木から池田に入れ替わった。野球はチームスポーツであり、個人をここまで持ち上げるのは適切ではないかもしれない。正しく表現するなら、「荒木の早実から池田」に主役が交代した。池田は、準決勝で東洋大姫路(兵庫)に勝って、3年前センバツ準々決勝の雨中の激闘の雪辱を果たす。広島商との決勝では、初回2死からの猛攻で6点を先制。エース・畠山準(元南海ほか)の投打にわたる活躍で12-2と圧倒して、「さわやかイレブン」のセンバツ準優勝から8年。見事、甲子園初優勝を果たした。

水野の1球にスタンドどよめく

 早実戦で荒木攻略に大きく貢献した江上が主将になり、水野がエースとなった池田は、自他ともに認める最強チームとして、翌春のセンバツに乗り込む。初戦は帝京(東京)が相手だった。筆者も、強豪同士の激突を見るべく、ネット裏に座った。水野の投じた1球目。スタンドのどよめきが忘れられない。力強い剛速球に、満員の観衆の目は釘付けとなった。試合は11-0で一方的に池田が勝った。この大会は、看板の打線よりも、水野の好投の印象が強い。岐阜第一も大差で退けると、大社(島根)にも完封勝ちし、3試合で失点わずか「1」。準決勝の相手は日の出の勢いの明徳(現明徳義塾=高知)。試合は緊迫した投手戦となり、水野は先制を許す。前年夏から打ちまくっていた打線も相手2年生エースの前に沈黙した。それでも池田は8回、失策をきっかけに下位打線の活躍で2-1と逆転。水野が踏ん張って難敵を破った。決勝でも水野が横浜商を完封し、実力通り、頂点へ駆け上がった。水野は5試合すべて完投で、うち3完封という圧倒的な投球内容だった。連投になっても球威が衰えないエースに、接戦でも強さを発揮する池田の底力は、明らかに前年を上回り、いよいよ「夏春夏の3連覇」が現実味を帯びてきた。

大偉業の期待受け、夏の甲子園へ

 池田は夏の徳島大会も難なく突破し、大偉業の期待を背負って1983(昭和58)年夏の甲子園に登場した。センバツ優勝で風格も出て、大会の主役であることは間違いない。どこが「大横綱・池田」と渡り合えるのか。焦点はそれだけで、池田の敗れる姿は誰にも想像もできなかった。しかし、意外な伏兵が待ったをかけ、甲子園の歴史が変わることになる。

 

毎日放送アナウンサー

昭和36年10月4日、滋賀県生まれ。関西学院大卒。昭和60年毎日放送入社。昭和61年のセンバツ高校野球「池田-福岡大大濠」戦のラジオで甲子園実況デビュー。初めての決勝実況は平成6年のセンバツ、智弁和歌山の初優勝。野球のほかに、アメフト、バレーボール、ラグビー、駅伝、柔道などを実況。プロレスでは、三沢光晴、橋本真也(いずれも故人)の実況をしたことが自慢。全国ネットの長寿番組「皇室アルバム」のナレーションを2015年3月まで17年半にわたって担当した。

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