34歳で戦場に散った報道写真家、沢田教一を偲ぶ再上映。没後50年、彼の眼差しに触れる
世界的な報道カメラマン、沢田教一を知っていますか?
沢田教一。いま日本でこの名を知っている人間がどれだけいるのだろうか?もしかしたら、世界でのほうがその知名度はあるかもしれない。
沢田教一は報道カメラマン。1965年に取材でベトナム戦争へ向かった彼は、最前線でシャッターを切り、「安全への逃避」でアメリカで報道や文学、音楽に与えられる最も権威のある賞、ピュリッツァー賞を受賞した。そのほかにもハーグ世界報道写真展グランプリやロバート・キャパ賞などを受賞。世界的な報道カメラマンとして活躍したが、いまから50年前の1970年10月28日、カンボジア・プノンペンで銃撃され、この世を去った。
今年2020年は、34歳という若さで逝った彼の没後50年。そこで改めて彼の遺した功績を振り返るべく、1996年のドキュメンタリー映画「SAWADA 青森からベトナムへピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」の特別上映が東京都写真美術館で始まった。
キネマ旬報ベスト10文化映画グランプリなど、毎日映画コンクール記録文化映画部門グランプリに輝いた同作を手掛けたのは、知られざる偉人に光を当てた作品を発表し続けている五十嵐匠監督。約25年の月日を経て、35mmフィルムでスクリーンで甦る本作を、改めてこう振り返る。
「中学生にあがったばかりのときだったと思うのですが、図書館で『戦場』という名の写真集を偶然手にしました。これが僕の沢田さんとの出会いです。沢田さんと僕は同じ青森市生まれ。驚きましたね。『こんな人が同郷にいるのか』と。
この写真集の出た前年にすでにお亡くなりになられてましたけど、映画で触れているように『敵をつれて』という写真に目が釘付けになって、この人のことを強烈に知りたいと思いました。それがすべてのはじまりになった気がします」
世界を飛び回るジャーナリストをつかまえるので四苦八苦!
映画「SAWADA 青森からベトナムへピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」は、沢田の人生の軌跡を辿るとともに、妻のサタ夫人ら肉親、沢田と行動をともにしたジャーナリストたちの証言から、その肖像が浮かび上がる。
一番大変だったのは、ジャーナリストたちへのインタビューだったという。
「取材の時点で、沢田さんが亡くなって20年以上が経っていたんですけど、みんなまだ現役バリバリのジャーナリストで活躍していた。当時はメールもSNSもない。通信手段はファックス、電話、手紙で打診するしかない。でも、世界中を飛び回っているからつかまらない、つかまらない。
その上、こちらの主旨がなかなか本人まで届かず、取り合ってもらえなかったり、電話しても居留守を使われたり(苦笑)。
インタビューも順番を考えていたんですよ。一番最初と最後は沢田さんを一番愛していた人々にしようと。最初は沢田さんを想い、その最期を知っているUPIの同僚ケイト・ウェッブ、次にベトナム戦争を沢田さんといっしょに取材していたエディ・アダムス、そして最愛の妻であるサタさんで終わろうといったように。
でも、そんな順番なんて考えていたらいつに撮れるかわからない。いまイラクにいるけど、来週からはバングラデシュにいっているといったようにみんな明日はどこにいるかわからないわけだから。その彼らを追跡して、証言をとるのがほんとうに大変でした」
証言はほとんど1冊の本に
ただ、実際のインタビューは、スムースだったという。
「皆、癖ある人々で。僕が、どのぐらいベトナム戦争のことを知っているのか、沢田さんのことを知っているのか、ちょっと試してくる。ただ、僕はあまり知らない体にして、いろいろと教えてほしい立場できくと、いろいろと話してくれました。
インタビューをするにあたっては、まず一緒にごはんを食べて、お互いに人となりを知って。インタビューの場所は彼らの好きな場所でお願いしました」
世界に知られる一流のジャーナリストが次々と登場するが、証言している場所は当時の彼らに深い思いがあるところ。一流のジャーナリストたちが、思い入れのある場所で語る。この映像もまた貴重といっていいだろう。
「そうかもしれませんね。
自分にとっても貴重な経験だったと思います。あと、監督としてありがたかったのは彼らは明快で。日本人のインタビューはどうしても長くなる。なぜかというと、結論を最後に言うから。そこにたどりつくまで時間がかかる。
でも、ジャーナリストである彼らは、まず結論を言う。そこから『because』と、『でもね』となって説明してくれるから、ひとりひとりの証言をまとめるのは楽でした(笑)」
ただ、それを1つの作品の中でどう配置して、どういう並びにしてまとめるのかは大変だったという。
「膨大なインタビューの量でしたけど、すべて翻訳して、それをすべて文字に起こしたんですよ。それすべてに目を通して、使う証言を選定していって、それを切り張りして、つなげてつなげて、1冊の本を作るというか。1本の脚本を作ったようなものですね。
当時、ある出版社から『それをそのまま本にしませんか』と言われたぐらいです。これは大変でまだ若かったからできた。いまじゃ、できないかもしれない(笑)」
まだ戦争の臭いが残る時代、海外取材は常に危険と隣り合わせ。留置場の経験も
一方、沢田の足跡をたどる海外取材もまた大変というか、危険と隣り合わせだった。
「当時は、まだベトナムも地雷除去が進んでいなくて、いたるところにまだ地雷が埋まっていました。道を歩いていても、そこを少し外れると地雷が埋まっていてドクロのマークの看板が立っている。
まだまだ戦争の爪痕が残っていて、政情も不安定で。プノンペンでホテルからレストランに行くにも、せいぜい100メートルぐらいの距離なんですけど、ライフルをもった兵士が護衛でついてくる。まだ戦争が日常に残っている時代でした。
あと、ベトナム中部の都市、フエで僕は3日間、留置場に入ったんですよ。当時は旅行先の警察に行ってトラベル・パミット(旅行許可)としてパスポートに印鑑を押してもらわないといけなかった。でも、僕はよくわかっていなくて1カ月ぐらい押してもらっていなかった。
そうしたら、ある日、公安がきて泊っていたホテルでチェックを始めたんです。当時、外国人は泊まるホテルを決められていたので、そこにきて、あっという間に連れていかれた。僕は毎日自転車を借りて勝手にいろいろなところを泊まり歩いていましたから。
それで、入ったのが金曜の朝だったのかな、確か。そうしたら、警察の上の人間がいないということで、チェックは週明けになると。
どこにも連絡できないし、僕は、あまり心配をかけたくないから、自分の両親には香港にグルメ番組の取材でいくと伝えてあったんですよ(笑)。
で、留置場に天窓があって、そこから青色の空が見えたんですけど、考えるわけですよ。『ここで死んだら、誰も気づかないまま俺は…』といったことを(笑)。
まずい事態に巻き込まれたと思ったんですけど、月曜日にあっけなく出ていいといわれたんです。
出れたのは、そのとき一緒に行動していたフランス人のトニーという男がいて。彼が僕が連れていかれたことに気づいてくれた。それで、彼がもっている有り金を警察に渡して助けてくれた。つまり賄賂?を渡してくれて助かった。もちろんあとで彼にお金は返したんですけど、そういう時代でした。
このときの体験は大きかったです。戦争のもたらすことを学んだというかな。いまだにこのときの体験が僕の中での社会や平和に対する危機意識の基本になっている気がします」
沢田さんの写真は露出とピントが一切ぼけていない
のちに五十嵐監督は、戦場カメラマンの一ノ瀬泰造の生涯に迫る「地雷を踏んだらサヨウナラ」を発表。それ以降も実在の人物を主人公にした劇映画を主に発表していく。なぜ、沢田教一に関してはドキュメンタリー映画だったのだろうか?
「最初は、青木冨貴子さんの著書『ライカでグッドバイ:カメラマン沢田教一が撃たれた日』の映画化を考えていたんです。
ただ、考えていく中で、これは沢田さんの写真をきちんと遺すべきだと思ったんですよ。それこそ、沢田さんがライカでファインダーを通して見ていた現実は、ドラマがふっとんでしまうような世界だった。
沢田さんの人生を回想するだけではもったいない。沢田さん自身のことだけではなくて、彼が戦場にいって遺した写真と向き合って、後世に伝えたいと思ったんです。
なので、残された確か約2万枚かな。すべての写真をチェックしました。出版社に2~3週間ぐらい泊まり込んで、ライトボックスでひたすら見ました。
驚いたのは、沢田さん、スーパープロフェッショナルで露出とピントが一切ぼけていない。あの銃弾が飛び交い、半ば狂乱状態になっているベトナム戦争の最前線にいるときも、すべてピントと露出がしっかりあっている。
ライカはフィルムが装填されているかどうかけっこう難しいですけど、沢田さんは最初の4カットぐらい撮っていない(スヌケになっている)。きちんと巻いてフィルムが入っているか確認している。きわめて冷静に対応しているんですよね。あまりに熱中してフィルムが入っていないときがあった(一ノ瀬)泰造とは大違い。二人の性格が出ていておもしろいんですけどね。
あと、もうひとつ驚いたのは、ワンカットをみるのと、その日、沢田さんが何を撮ろうとしたのか36枚のフィルムで連続して通してみるのとではまったく違ったことが見えてくる。これは興味深かったですね。
たとえば悲惨な死体を撮ったあとのショットが、美しい女性の横顔や、地元の子どもの笑顔だったりする。そこから沢田さんのメンタリティが伝わってくるというか。悲惨な現実を映した後は、ちょっと心癒される人の姿を撮ることで正気を保っていたのかなとか想像しましたね。
ただ、そう冷静に対応しながらも、やはり沢田さんもどんどん口数が減っていたそうで。ある人から聞いたんですけど、一度だけ震えたことがあったそうです。
それは一緒に従軍していた米軍中尉が地雷かなにかでふっとんで、その肉片がばらばら落ちてきた。そのとき、震えていたそうです。そういう戦争の中にいながら、ピントも露出も外さないで写真を撮っていた。これはすごいことだと思います」
このあとから、戦争報道は変わっていく。真の意味での戦場の最前線にジャーナリストが立つことは難しくなった。
「作品でも触れていることですけど、兵士の苦しみを撮って、それが世間に知れると反戦につながっていく。アメリカ政府としてはそれはまずいこと。そのことを軍は学んで、ジャーナリストを戦場の最前線に連れていくことはなくなっていった。
沢田さんの時代は、ジャーナリストが戦場のフロントラインに行けた最後のときといっていい。当時は、兵士といっしょにヘリコプターにも乗れましたから」
沢田さんの写真は動画よりも多くを物語る
作品は、沢田のとらえた戦場の事実を通し、戦場ジャーナリストの重要性をあらためて気づかせてくれる。
五十嵐監督は久々に作品をチェックしてこんなことを感じたという。
「チェックですべて見たのですが、フィルムの質感などから、あの時代がプンプンと匂い立ってくる。この映画を作るとき、約束したことが2つあって。ひとつは沢田さんの写真にできるだけ音楽をかけないこと。そしてもうひとつは、沢田さんの写真をトリミングしない。彼がライカで撮ったままのものをそのまま出すことでした。
その写真のすごさに改めて心が震えるというか。いまは、動画全盛で。誰もが動画を撮って、それを多くの人がみて楽しむような時代に入っている。
ある意味、動画が物事のすべてを表せて、見せられると思われているといっていいかもしれない。でも、果たしてほんとうかなと。
沢田さんの写真をみると、静止画のほうがいろいろなことをより深くより多く表しているんじゃないかと思うんですよね。たった一枚の写真のほうが、情報量が多くみる者に多くのものを与えてくれる。
沢田さんがライカのファインダーでみた画は、何回みても新たな情報がこちらへ届いてくる。
いま、みんなデジタルで撮りたいだけとれるし、ドローンでそれこそ人のいけないところまでみることができる。でも、そういったものがすべてを映しているのかなと。ほんとうに大切なものはとらえられて映っていないんじゃないかなと思うんです。
でも、沢田さんの写真にはそれがある。それぐらい1枚の写真なのになにか訴えかけてくることがたくさんある。沢田さんの写真のもつ力に、今回、改めて気づきましたね」
なお、映画の特別上映の始まりと同日の今月3日から日本カメラ博物館で、沢田教一の常設展示がスタート。沢田が戦場取材で使用したカメラや鉄製のヘルメットなどの展示も始まっている。映画と併せこの機会に沢田教一に出会ってはいかがだろうか?
「SAWADA 青森からベトナムへピュリッツァー賞カメラマン沢田教一の生と死」
11月3日(火・祝)~11月15日(日)まで東京都写真美術館ホールにて公開
1日3回上映予定(10:30/13:00/15:30)※休館日:11月9日(月)
「沢田教一没後50年シンポジウム」実施
11月7日(土)13:30~東京都写真美術館
登壇:五十嵐匠(映画監督)、綿井健陽(ジャーナリスト)ほか
テーマ:「戦争報道の現在(いま)―記録する意味を問う」
筆者撮影以外の写真はすべて(C)グループ現代