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新型コロナ対策でやはり武漢を宣伝の道具に利用してしまう中国事情

宮崎紀秀ジャーナリスト
写真は全人代開幕日。街頭で流れる国営テレビ(2020年5月22日北京)(写真:ロイター/アフロ)

 習近平国家主席は、北京で開催中の全人代の日程の中で、昨日、湖北省代表の会議に出席した。「湖北や武漢の市民に感謝する」と自ら述べた言葉は、国営テレビで大々的に扱われた。

習近平主席がわざわざ湖北省の会議へ

「武漢の人民は感染症の予防制御に多大な貢献をし、巨大な犠牲を払った。武漢は英雄都市として恥じず、湖北と武漢の人民は英雄として恥じない。在席の皆様、武漢の各民族、幹部、市民に心から挨拶と感謝を申し上げる」

 習近平国家主席は、昨日5月24日午後、湖北省の代表団の前で改めて感謝の言葉を口にした。

 中国の北京では国会にあたる全人代(全国人民代表大会)が開催中である。全人代は、各省などから代表団が集結し、国政を審議する一年で最大の政治イベントである。開催期間中には、約3千人の代表が一堂に会する全体会議の他に、各地の代表がそれぞれ別れて審議を行う日程もある。

 湖北省代表の会議に、習氏はわざわざ足を運んだ。

習氏の声は国営テレビの電波にのって...

 最高指導部のメンバーが、各省の会議に参加し訓示を与えることは珍しくはないし理解できるが、これが宣伝に使われてしまうところに中国らしさがみえる。

 習氏が、湖北省の代表団の会議に参加したニュースは、その日の国営テレビの午後7時の看板ニュース番組「新聞聯報」のトップ項目だった。習氏が会場に入ると、湖北省の代表たちが、ニュースによれば「全員起立し熱烈な拍手」で迎えた。

 習氏は代表たちの発言に「真摯に耳を傾けた」のちに、冒頭に記した発言をした。この発言部分は、ナレーションではなく習氏本人の声が、そのまま放送された。

 ニュースの重要さは放送時間の長さを知ればわかる。キャスターがスタジオで項目を紹介するリードと呼ばれる部分を入れて、このニュースは約9分だった。この日、「新聞聯報」は通常30分の放送時間を1時間に拡大したものの、1つの項目で9分の長さは中国でも破格の扱いである。

弱点も不足もある

 習氏は、湖北省の経済活動の回復に向け檄を飛ばすなどした。それ以外に「今回の感染症の対応で、弱点や不足が暴露した。我々は存在する問題をしっかりと見極め、改善に力を注ぎ、弱点を補い不足を埋めなくてはいけない」と発言した。ニュースはそう伝えた。

 習氏は、湖北省や武漢の人々が受けた痛みを理解し、現実を正視でき、対応に不手際があったこともきちんと理解している謙虚な指導者というイメージを十分に演出した。

 なぜその必要があったのか?

武漢市民に顰蹙を買った感謝の強要

「武漢全市で広く市民の中に感恩教育を深めなければならない。総書記に感恩し、共産党に感恩し、党の言うことを聞き、党とともに歩めば、強大な力を形成する」

 武漢市のトップである同市党委員会の王忠林書記は、3月6日に開かれた現地の対策本部の会議の中で、幹部たちを前にそう述べた。

 感恩とはあまり使わないが日本語にもある。「恩に感じる」「恩を感謝する」という意味。中国語でも同じ意味を表すのに同じ字が使われるので、ここではこのまま用いる。

 つまり、習近平総書記や共産党に感謝するよう市民を教育すべきだ、と主張したわけだ。

 初期対応の不味さで2月に解任された馬国強前書記に代わり、急遽、“震源地”でのリーダーシップを期待された王氏からすれば、中央の覚えをよくしたいと考えたのだろう。ところがこれは裏目に出た。

 完全に武漢市民の顰蹙を買った。

党に感恩なんてクソだ!

「感恩なんてクソだ。野菜がこんなに高いのに」

「感恩なんて必要ない。政府はやらなきゃいけないことをしただけじゃないか。何に感恩するのだ。彼らは人民の金を使っているのに」

 質問を受けてカメラの前であからさまに怒りを口にする市民さえいた。

 感謝を要求するのではなく、いまだに死者の正確な数を隠し、政府が責任をとらず、官僚の責任を追及しないのはなぜなのかを先ず説明すべきだという反感が湧き起こったのだ。

 習氏はその4日後の3月10日、コロナ禍がおきてから初めて武漢を視察した。その際に述べた言葉は、感謝の向きが、市民から党ではなく、党から市民へときちんと修正されていた。

「武漢は英雄都市の名に恥じない。全党と全国の各民族、人民がみなさんに感動し、称賛している。党と人民は武漢の人民に感謝している」

 今回、湖北省や武漢の市民に改めて感謝を表明したのは、当地の市民、引いては中国人全員の怒りを爆発させないための念押しだ。

存在感が薄かった習氏の働き  

 習氏にとってもう1つ、この際に上書きしておきたい経緯があった。

 習氏が武漢を視察したのは3月10日だが、感染症対策の陣頭指揮を取っていた李克強首相は、武漢封鎖の4日後、1月27日には現地入りして対応に当たっていた。ネットなどでは、習氏がなかなか現地入りしないのを疑問視する声も上がっていた。習氏は北京の病院の視察などばかりしており、もちろんこれはこちらの勝手な主観にすぎないが、怖がっているかのようにさえ見えた。何より、初動にあたって習氏の影は薄かった。

 今回、全国民と世界が注目するであろう全人代は、習氏にとってはコロナ対策での存在感の薄さを挽回する恰好の舞台になった。

 9分間もの不自然に長いテレビニュースがそう教えてくれた。

ジャーナリスト

日本テレビ入社後、報道局社会部、調査報道班を経て中国総局長。毒入り冷凍餃子事件、北京五輪などを取材。2010年フリーになり、その後も中国社会の問題や共産党体制の歪みなどをルポ。中国での取材歴は10年以上、映像作品をNNN系列「真相報道バンキシャ!」他で発表。寄稿は「東洋経済オンライン」「月刊Hanada」他。2023年より台湾をベースに。著書に「習近平vs.中国人」(新潮新書)他。調査報道NPO「インファクト」編集委員。

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