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中国人が涙した新型コロナによる病院長の死

宮崎紀秀ジャーナリスト
武漢市内の病院で治療にあたる医療スタッフ(撮影2020年2月16日)(写真:ロイター/アフロ)

 よく晴れた青空の下に、黒塗りのミニバンが止まっていた。水色の防護服を着た人物が、片腕を伸ばしながらそのミニバンに近づこうとした。その動きを制止しようとする者も、やはり防護服に身を包んでいた。

走り去る車にすがりつく防護服の妻

 ミニバンがゆっくり走り出すと、防護服の人物は、制止を振り切り…いや、もう一人の人物が制止を解いたのかもしれない…よたよたと車に近づき後部ガラスにすがった。一時でも長く触れていたいかのように後部ガラスに両手をつけ、力ない足取りで車についていった。

 車も、その人物を気遣うような速度で進んだが、それはわずか数秒だった。車道に達すると、車と人の距離は離れた。防護服の人物は、引きずるような足取りで、追いつくはずのない車の後をいつまでも追った。

 誰が上げたか分からない、悲痛な叫び声とすすり泣きに周囲は包まれていた。

 

 ネット上に流れたこの映像に、ある女性は「涙無くしては見られない」とコメントした。中国メディアは新型コロナウイルスに感染して死亡した医師の妻が最後の別れを告げた場面と報じた。

武漢市の院長が新型コロナで死亡

 医師とは、今月18日、享年51歳で死亡した劉智明さん。感染が集中している湖北省武漢市にある武昌医院の院長だった。

 妻、蔡利萍さん(47歳)も、同じ武漢で防疫の最前線にいる医療従事者だ。市内の別の病院で、ICU(集中治療室)を担当する看護師長を務めている。

 先月21日、武昌医院は通知を受け、発熱患者を受け入れる病院に指定された。新型コロナウイルスの感染患者に対応する体制を作るため、病院の改造が必要となった。

 翌日22日の午前4時、妻の蔡利萍さんは、夫から電話を受ける。

「指定病院になったらもう家には帰れない」

 着替えを持ってきてほしいという話だった。

妻との間に交わされた「会話」

 蔡さんは、後に夫がこの時すでに感染していたことを知る。

「全てを投げ打って、あなたのそばにいたい。あなたの世話をしたい」

 何度もそう告げたが、夫は「必要ない」と答えたという。

 蔡さんが勤める病院も指定を受け、新型コロナウイルス感染者を受け入れるようになっていた。

「夫は私のことをよく分かっていて、私が仕事を離れられないのを知っていたのです。だからいつも『必要ない』と答えたのです」

 蔡さんは中国メディアにそう語っている。

 夫が入院中に2人が交わしたある日のチャットの記録がある。交わしたと言っても、妻から一方的にメッセージが送られ、夫はほとんど答えていない。

妻の付き添いを最後まで拒んだ夫

「毎日午後2時に電話して。そうしないと安心できない。夜も電話に出てくれないから」

「息苦しいなら、人工呼吸器を使って。ラクになるから」

「怖がらないで。怖いなら、私が行って付き添うけど、いい?」

 それから1時間後に「あなた頑張って」とメッセージを送ると、さらにその1時間後、夫から返信があった。

「昨日は一晩中苦しかった。酸素供給がうまくいかず、死ぬかと思った」

 彼女は、「私が行こうか」とメッセージを送るが、この時も夫は「必要ない」と答えた。

 劉智明院長には、1月19日から症状が出ていたという。当初は軽症だったが、2月13日から容体は急変し、その5日後の18日午前10時54分、帰らぬ人になった。

 中国では新型コロナウイルスの院内感染が深刻になっている。医療関係者では少なくとも8人が死亡し、1700人以上が感染確認されているという。

 昨日、習近平国家主席は「医療スタッフは感染症に勝つための中核の力」として保護を重視すべきだ、とする指示を出した。当然だろう。

 国内での感染を封じ込められず、ウイルスを世界に広げた体制や対応への批判は出るだろう。しかし、どんな条件の下であっても医療の現場は、この未知なる敵を食い止めようと体を張っている。

ジャーナリスト

日本テレビ入社後、報道局社会部、調査報道班を経て中国総局長。毒入り冷凍餃子事件、北京五輪などを取材。2010年フリーになり、その後も中国社会の問題や共産党体制の歪みなどをルポ。中国での取材歴は10年以上、映像作品をNNN系列「真相報道バンキシャ!」他で発表。寄稿は「東洋経済オンライン」「月刊Hanada」他。2023年より台湾をベースに。著書に「習近平vs.中国人」(新潮新書)他。調査報道NPO「インファクト」編集委員。

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