沖縄戦下で発行され続けた新聞~一枚残った沖縄新報は何を伝えているのか~

戦場で発行されていた「沖縄新報」 1945年4月29日発行

この6月23日で、沖縄戦の終結から75年を迎えた。あの時に何が起きていたのか、私は数多くの沖縄戦を体験した人々の話を聞き続けている。

そうする中で、今年になって戦場で作られていた新聞「沖縄新報」の元社員の方に話を伺う機会があった。

かつて筆者が沖縄に住んでいるとき(27年前のことだ)に、この戦場の新聞の存在に強く惹かれて、ドキュメンタリー番組を制作しており、戦後75年にして元社員の方にお会いできるとは夢にも思っていなかった。

「近くに砲弾が落ちてその衝撃で、並べてある活字が全部飛び出したの。そしたらもう印刷ができないんですよ」

 

これは、その沖縄新報の社員だった許田肇さん(96歳)の言葉だ。

ほとんどの紙面が戦火で焼かれて、唯一残った沖縄戦下で発行された「沖縄新報」
ほとんどの紙面が戦火で焼かれて、唯一残った沖縄戦下で発行された「沖縄新報」

沖縄新報、地上戦の最中に発行されていた新聞

戦場で発行されていた新聞のことを私が知ったのは今から27年前、沖縄で放送局に勤務している時のことである。

沖縄戦取材のために県立図書館で資料を探している時に出くわしたのが「沖縄新報」の紙面。発行の日付は昭和20年4月29日だった。

この新聞が戦場で作られていたのは2ヶ月間だが、他の紙面は戦火で焼かれるなどして残っていない。

このころは、米軍が沖縄本島に上陸してひと月近くが経ち、首里の北方では血で血を洗う激戦が繰り広げられていた時で、那覇や首里には絶え間ない砲爆撃が加えられていた。驚いたのは、そんな状況の中で記事の数が多い上にちゃんと活字で新聞を印刷していたからだ。

記事を見ると、日本軍の戦果(地上戦から航空機の特攻まで)、市町村長を県知事が集めて会議を行ったこと、社説、大本営から沖縄の部隊に「感状(表彰)」が送られたことから、さらにエルベ河で米英軍と赤軍が合流した外信記事まで掲載されていた。

米英軍がソビエト軍と合流したことを伝える外信記事 独軍の敗北が近いことがわかる
米英軍がソビエト軍と合流したことを伝える外信記事 独軍の敗北が近いことがわかる

いったい砲弾が飛び交う中でどうやって新聞を発行することができたのか、取材や外信記事の受信をどうしていたのかを知りたくなった。

そこで私は、当時の記者だった人、取材を受けた人、新聞を配達した人(3000部も印刷されて、人々が潜む壕に配られていたのだ)を探し出し、話を聞いたのだった。1993年のことである。

まず、「沖縄新報社」。戦前の政府による一県一紙化の方針で、当時三紙あった沖縄の新聞が合併してできた新聞社である。

以下は、かつて私が行った元記者の方々やその関係者への取材と那覇市史などをもとに記述する。

壕内での新聞づくりとは

那覇を焼き尽くした1944年10月10日の「十十空襲」で新聞社は大きな被害を受けなかったものの、連合軍が迫った3月下旬になって新聞を発行するには那覇では無理だろうと、首里城北側の「留魂壕」(りゅうこんごう、沖縄師範学校の生徒が掘削した洞窟)に会社を移した。

社員とその家族30人が、印刷機、用紙、同盟通信の受信機(これで外信記事も受信できた)などを壕の中に運び込んだ。

記者が取材して、記事を執筆すると工務担当の社員が活字を組んで印刷した。

早朝刷り上がった新聞は、軍から複数の部隊の兵士が取りに来たが、多くは鉄血勤皇隊の若者が南部に散らばって避難している住民たちの壕に配って歩いた。

新聞社のあった首里城北側の「留魂壕」 筆者が1993年に撮影 (現在は封鎖されている)
新聞社のあった首里城北側の「留魂壕」 筆者が1993年に撮影 (現在は封鎖されている)

記者は、どのような取材をしたのか。32軍司令部の担当だった牧港篤三さんの話。

「取材ソースといっても、新聞社の壕と司令部の壕を行き来するしかないので、司令部が発表することを鵜呑みにして書くしかないんです。ほかに情報源はないんですから。」

沖縄戦の戦況に関しては、粉飾されたいわば「大本営発表」しか取材の素材はなかった。米軍側に大きな損害を与えて、自軍に関しては「損害軽微」としか発表されないのでそれを書く他なかったのだ。

粉飾された戦果を記事にするしかなかった

この4月29日付の新聞の一面の見出しは、「敵一万八千余を殺傷、戦車294両を破壊」とあり、「海上の戦果」として「空母一隻、戦艦二、巡洋艦十隻ほか計五四隻撃沈」と記されている。

沖縄戦で、連合軍(英軍は空母5隻を派遣)は確かに最終的には1万2500人もの死者を出したし、特攻による艦艇の被害も大きかったが、この4月29日の時点では明らかに粉飾である。

アメリカ海軍発行の「Naval Chronology World War 2」(第二次世界大戦海軍年鑑)では、4月1日から28日までの海軍艦艇の撃沈被害は、駆逐艦2隻と上陸用舟艇など小型艦艇合わせて8隻と記録されている。

戦場で開催された「市町村長会議」

 もう一つ紙面を占める大きな記事は「勝つぞこの意気 弾雨を蹴って市町村長会議」。当時の島田叡(あきら)沖縄県知事が招集して前線よりも南の市町村長が一堂に会して会議を行ったもので、各地に離散して壕内に潜む住民の生活をどうするのかがテーマだった。

4月27日に県庁の壕で開催された「市町村長会議」の記事 大山さんの署名がある
4月27日に県庁の壕で開催された「市町村長会議」の記事 大山さんの署名がある

砲爆撃の中、どのように食料増産を図るのか、壕の整備、軍への協力について意見を出し合ったが、行政ができることはほぼ何もなかった。

この会議に出席していた伊藝徳一さんに話を伺った。当時は中頭郡事務所長という県の要職についていた。

「県の職員は『後方指導挺身隊』を組織して南部の各支所に出向いて各市町村と連携して『壕の整備、食料増産』を指導するということが決められたんですが、具体的なその中身は何も無いんです。だって、行政は事実上何も無いんです、ストップですからね。」

記事の最後は、「県民はこれ(会議で決まったこと)を断固実践して頑張り抜こう」と締めくくられている。

この記事を書いたのが県政を担当していた記者大山一雄さんで、のちに牧港篤三さんとともに「沖縄タイムス」の創刊に当たった方だ。

「軍民協力といってね、民間が軍に協力したという記事は盛んに書くんだ。軍が喜びそうな記事ばかり書いていました。だから、今から考えると軍のお先棒を担いだ、『戦犯』だったんだなあと思うわけです。」

お話を伺った時大山さんは78歳で、私としては辛いことを思い出させてしまって申し訳ない気持ちになったのを覚えている。

元沖縄新報記者 故 大山一雄さん1993年筆者撮影
元沖縄新報記者 故 大山一雄さん1993年筆者撮影

壕に新聞を配達し解説をしていた師範学校生

この新聞を配達した方にも話を伺っていた。

新聞社壕と同じ「留魂壕」を拠点にしていた沖縄師範学校の生徒で、「鉄血勤皇隊」のなかの「千早隊」隊員(通信や伝令を担った)だった、池原秀光さん。

住民の潜む壕に新聞を持って行き、読み上げて解説をしていたという。

「(壕の中は)女、子供、年寄りが多くて若いものはほとんどいないんですから、穴の中に入ったままで外界と離れていましてね、ほとんど情報がないんです。何もわからない、敵がどこまで来ているかもわからないというのが大部分ですね。」

「我々が話すのはいつも、敵の軍艦轟沈何隻とか、敵何機撃墜とかね、こちらが負けたことは一切言わないんです。まず、(新聞に)書いてもいないから。我が方の損害軽微としか書いていないんです。具体的なもの(被害)はないんです。でも、敵のものは航空母艦轟沈何隻、大破とか、そういったことが紙面を埋めているわけです。それは喜びますよ。ああ、そうかと、じゃあ、もう少しだな、頑張ろうという気持ちが起こるんじゃないですか。」

「当時は、疑いもしないでこれ(記事)は真実だというふうにして配ったりしたり、宣伝したりしましたけど。戦後は、ああ、これはまずかったなあと、嘘でちりばめられた新聞を配ってさらに説明までして宣伝していった、自分たちの不甲斐なさ、批判力のなさ…、自分でつまらん男だったなあと思いました、戦後はね。」

池原さんをはじめ「沖縄新報」を配るなどした鉄血勤皇隊の中の千早隊は、22人のうち9人が戦死している。

鉄血勤皇隊に組織された沖縄師範学校男子部の生徒たち 386人のうち224人が命を落とした
鉄血勤皇隊に組織された沖縄師範学校男子部の生徒たち 386人のうち224人が命を落とした

ギリギリまで行われた新聞発行

「沖縄新報」は、第32軍司令部が首里城地下の司令部壕を捨てて南部へ移動するのと同時に、発行を停止した。5月25日のことだ。ということはギリギリまで新聞を発行し続けていたことになる。社員たちは、活字や印刷機を壕内に埋めて脱出したという。

この時はもう目前まで米軍が迫っていたはずで、冒頭で紹介した許田肇さんは、壕を出て南部へ向かうときは壕の周囲には死体が散らばっていて、夜間だったのでときに死体を踏みながら逃げ落ちていったという。

そして、南部の壕を転々としているとき、日本軍部隊が潜んでいる壕の中から沖縄住民が追い出されるのを目の当たりにしていた。

榴散弾の破片を膝に受けつつもなんとか生き延びることができた。

沖縄新報の元社員 許田肇さん この6月 短歌集「福木の双樹」を出版した 写真提供:琉球新報社
沖縄新報の元社員 許田肇さん この6月 短歌集「福木の双樹」を出版した 写真提供:琉球新報社

しかし、出身の那覇市立商業学校の同級生で本土や満州へ渡った人を除くとほとんどが沖縄戦で命を失っている。

許田さんは当時21歳で、同級生で沖縄に残っていた若者は、現地招集され防衛隊員として最前線で小型爆弾を抱えて戦車に体当たりするなど過酷な任務を強制された人が多い。

長年、短歌の創作に取り組んできた許田さんは、この6月自作の短歌集を出版した。

その中の一首。

「戦場にて果てし 童貞の友想う 天も涙す 慰霊の日の降り」

許田さんの、世間を何も知らずに戦場で命を散らした友人への思いだ。

(許田さんのインタビューは Yahoo!ニュース「未来に残す戦争の記憶」のページで見ることができる)

琉球新報・Yahoo!ニュース 共同企画「戦火の首里城」

「沖縄新報」の社員は、留魂壕を脱出後、本島南部をさまよう中で12人が命を落としている。

許田さんの話を伺ったのちに、那覇市若狭にある戦没新聞人の碑を訪ねた。沖縄新報社社員だった12人の名前が記されている。

そのほかに、朝日新聞の宗貞利登記者、毎日新聞の下瀬豊記者の名もある。

本土紙の記者は、軍の無線を借りて本社に記事を送稿して沖縄戦を伝えていた。

戦没新聞人の碑(那覇市若狭)に刻まれた14人の新聞関係者の名前 筆者撮影
戦没新聞人の碑(那覇市若狭)に刻まれた14人の新聞関係者の名前 筆者撮影

27年前、牧港篤三さんに、なぜ砲弾の飛び交う中、壕に移ってまで新聞を発行し続けたのか、その心境はどういうものだったのかという、ぶしつけな質問を投げかけた。

しかも、その沖縄新報の紙面を手渡したのだ。

なんとも失礼なことをしたのではないかとその返答を伺って感じた。

なぜなら、牧港さんは、この日まで「沖縄新報」を一度も手に取っていなかったからだ。

なぜ人々は戦場で新聞を作り続けたのか

「僕の率直な感想だけれども、こういったものが後に残ると、残ったこれを見ると穴の中に入りたいくらいね、恥ずかしいと、そういう気持ちが真っ先にきますね。」

「あの中で、新聞を発行し続けたことがおかしなことですけども。じゃあ、きみ自身はどうだ?と問われた場合は、実際に取材に32軍の壕まで行って聞き出して、記事を書くと。当時のことを思うと実に一心不乱にやったわけですけれどもね、今考えるとなんと馬鹿なことをやったもんだって、実に馬鹿なことをやったもんだという感じですね。」

元沖縄新報記者 故牧港篤三さん 牧港襄一さん提供
元沖縄新報記者 故牧港篤三さん 牧港襄一さん提供

この時、もう一人、元記者に私は話を聞いていた。稲嶺盛國さん、当時23歳で最も若手の記者だった。

新聞社が壕に移ってから、最初は住民の暮らしを取材して人々のために役立つ記事を書きたいと意気込んでいた。

しかし、砲爆撃の激しさに壕の外に出ることも滅多に叶わずその思いは打ち砕かれる。

「言ってみれば、60日間、何をしていたのかと問われると、大きな虚しさが来ますよ、戦後は。60日間あれだけのこと(新聞発行)をやって、果たして僕らの報道の使命が何になったのかと。むしろ、家族と一緒に(疎開して)安全を確保していた方が良かったんではないかという気持ちに、戦後はなりました。」

稲嶺さんも、大山さん、牧港さんとともに「沖縄タイムス」の創刊メンバーの一人である。

戦中の新聞は、それまでの新聞紙条例や新聞紙法、治安維持法、国家総動員法など権力が次々に繰り出す法規制によってタガがはめられ、さらに戦争報道で発行部数を伸ばしたこともあって、政治権力や軍部の伴走者となっていた。

戦争の終わる1945年という年の報道というのは、それまでの新聞のありようが最後に行き着いた地点とも言える。

その中で、地上戦の最中に新聞を作り続けたということはどういうことなのか、いったいこの時の新聞人とはどういう人々だったのか…。

こうして聞き取った記録を見直してみても、その時の新聞人の思いは、今となっては私たちには測り得ないものがある。

だからこそ、ここで紹介した人々の言葉をありのままに未来に伝えていくことが必要なのかもしれない。

沖縄戦のさなか、「沖縄新報」を始め新聞記者たちがどのように取材し、新聞を発行したのかについてと当時の紙面の展示を8月4日から横浜市の「ニュースパーク(日本新聞博物館)」で開催する予定(ニュースパークとYahoo!ニュースの共催)。