昭和の未来学者は知っていた AI全盛期、人間が向かう先はロマンと創造 データーと読み解く未来学(2)

 未来学に関する前回の記事で、日本に未来学が根付く萌芽は1970年前後にあったと書いた。その機運は徐々に萎んでしまったが、半世紀を経た今、あらためて未来学が広まる可能性と必要性を感じる。未来学者の故アルビン・トフラーが言ったように「事実がフィクションを追い抜き」、それが一段と進んだ今である。

 日本の高度経済成長期にあった50年前と現在とで時代背景は大きく異なる。ただ、今昔の未来学者たちに共通するメッセージがある。

 機械が、ロボットが、人工知能(AI)が広く行き届き、労働を代替するようになった時、人間の仕事とは、営みとは。「シンギュラリティ」後の世界を、過去、今、未来を結ぶ識者の言葉から読み解く。

(以下、敬称略)

シンギュラリティ

 物理用語で「技術的特異点」と訳される「シンギュラリティ」。「人工知能が人間の能力を超えて予想のつかない世界に入る転換点」などと説明されている。

 この言葉を広めた発明家で未来学者のレイ・カーツワイル(Ray Kurzweil)によれば、2029年には「コンピュータがすべての分野において人間がすることを超える」(ノーム・チョムスキーほか、吉成由美子[インタビュー・編]『人類の未来』NHK出版、2017年、p93)。そしてシンギュラリティは「変化があまりにも過激であるためにこの先どうなるかまったく予測不可能になる」(同、p100)時点だという。それは2045年までに到来し、知能は10億倍になっているとされる。

 同氏の著書「シンギュラリティは近い―人類が生命を超越するとき」(レイ・カーツワイル、NHK出版、2016年)の刊行に寄せて、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツは次のように評する。

 レイ・カーツワイルはわたしの知る限り、人工知能の未来を予言しうる最高の人物だ。ITが急速に進化をとげ、人類がついに生物としての限界を超える未来を、本書は魅惑的に描いている。そのとき、われわれの人生は想像もつかない大変革を経験するだろう。

AIは脅威か

 シンギュラリティに向かう現在、未来学者やエンジニアの間では、AIやロボットが人間を脅かす存在になるという脅威論が少なくない。「人間はAIを生み出すために存在している」という考え方だ。一方で「AIがいかに優れていても、あくまで人間の能力を補う存在」とする考え方もあり、AIをめぐる位置付けはは大きく2つに分かれる。前者は「宇宙派」、後者は「地球派」と呼ばれ、長く論争が続いている。

 宇宙派の立場に立てば、AIやロボットが人間を支配するような未来が想起される。例えば、映画「アイ,ロボット」のワンシーンのように、ロボットが人間に襲い掛かる未来だ。

 一方の地球派はAIやロボットが人間を助け、共存共栄していく世界を見る。楽観主義的立場とも言われる。

 どちらの世界(あるいはどちらでもない世界)が訪れるにせよ、備えるに越したことはない。想定され得る未来のシナリオに対し、必要な策を練る。それが未来学の使命の1つであり、醍醐味でもあるだろう。

人間はユーモラスになる

 レイ・カーツワイルはシンギュラリティに達した後、「飛躍的な知能の向上」が起こり、「それは人類の素晴らしくユニークで、美しく、深遠な部分」だと指摘する。楽観主義的立場から、

われわれはもっとユーモラスになり、より素晴らしい音楽や、アートや、文学を生み出すことができるようになり、どんな新しい知識でも十分理解することができるようになるでしょう。(『人類の未来』、p101)

と見通す。

 遡ること約半世紀、当時の日本の未来学者にも通底する考え方を見ることができる。

未来学者らの書籍
未来学者らの書籍

ロマンチシズムの伸長

 前回の記事で触れた故梅棹忠夫が1976年に捉えていた日本の姿、「経済が安定成長期に達したのと同様に、文明としても安定成長に達したということじゃないか」(梅棹忠夫著、小長谷有紀編『梅棹忠夫の「人類の未来」 暗黒のかなたの光明』勉誠出版、2012年、p138)という言葉には続きがある。

文明の安定期にはいりつつある日本が伸ばすべき一つの方向としては、ロマンチシズムがあると思う。例えば偉大なSFを書く、文学作品を生み出す、芸術をつくるということこそ、いま日本人が本気でやらなければならないことじゃあないのか。

 先述のカーツワイルが示したシンギュラリティ後の世界観に重なる見方だと言えないだろうか。

 当時、遠い未来を「夢想する」ことができたのは、「安定成長に達した」(梅棹)一部の国に限られていたかもしれない。

 しかし今迫りつつあるとされるシンギュラリティ、その変革の波はおよそ全人類に及ぶ。今、この瞬間もどんどんと変わっていっている社会、それに向き合う姿勢、心構えとして、梅棹の言葉は現代にも通じるはずだ。

創造の発見とよろこび

現代文明が重大で、回避することのできない未来からの挑戦を受けている

(香山健一『未来学入門』潮出版社、1967年、pp12-13)

 そうした問題点から出発して「未来学入門」を著したのは元学習院大学法学部教授で、日本未来学会のシンポジウムにたびたび登壇した故香山健一だ。

 今から半世紀以上前の書で、東西冷戦に対する警鐘に相当ページが割かれている。ただ、多分に現代に通じるエッセンスもちりばめられている。

 「戦後における情報革命の進展」については「人間の機械に対する、機械の機械に対する、あるいは人間の人間社会に対する制御機能を飛躍的に増大させる」(同、p15)とし、シンギュラリティを想起させる。

 香山は、「われわれは人類の終末に関する知的悲観主義をしっかりとふまえたうえでの(中略)楽観主義者であり、ユートピアンでありたいと思う。われわれはいわば悲観主義的楽観主義者、もしくは楽観主義的悲観主義者でありたい」(同、p50)という立場を取った。

 同氏が未来の人類に見いだしたのは、「真の生の充実は創造と発見のよろこびのなかにある。人間とは創造する動物である」という姿だった。

 機械による労働の代替が進むにつれて近づく「大衆余暇時代」に際し、意識の変革が必要だとして次のように説く。長時間労働など現代の日本に巣食う闇、問題を解くヒントにもなるのではないか。

大衆余暇時代の準備は、それにふさわしい新しい型の人間を創造することなしには不可能である。余暇とは、(中略)七〇万時間の人生の持ち時間のうちの、貴重な、生の充実した時間でなければならない。それは人間の全体性を回復し、充実すべき時間である。われわれは徐々に、職業中心の考えかたから、余暇中心の考えかたに転換していかなければならない。(同、p175)

 理想論かもしれないが、時代は理想の方へと向かっているように感じる。

シンギュラリティ後への変遷

 再び現代、未来学者ジェームス・データーの論考に戻る。ハワイ大学で教えていた当時のものだ。

 2060年、未来のハワイを見据えた“CAMPUSES 2060: FOUR FUTURES OF HIGHER EDUCATION IN FOUR ALTERNATIVE FUTURES”(*)では、「ハワイ・トランスフォーム2060―シンギュラリティを超えて」と題した項で、人口や環境、エネルギーといった分野ごとの未来の在りようを端的に示した。

ジェームス・データー、同氏提供
ジェームス・データー、同氏提供

 そのうち、「文化」については「人工的」としたが「ハワイは真に憧れの『楽園』であろうとする」(Culture: Artificial, but Hawaii tries to remain a real and yearned-for “paradise”)と見通している。具体的には次回以降に記すこととする。

 

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 シンギュラリティに向かう今は過渡期、トランスフォーム(変遷)のただ中にある。その時代をどう過ごすか。どう生きるか。

 先見の明に長けた新旧の未来学者の言説を通じて未来の世界の姿を紡ぎ出していく――そうした温故知新によって今後、未来学とは何かを順次見ていきたい。

(*)Originally published as “Campuses 2060: Four futures of higher education in four alternative futures of society”, by Jim Dator, Ray Yeh and Seongwon Park, in Munir Shuib, Aida Suraya Md. Yunus, and Shukran Abd. Rahman, eds. Developments in Higher Education: National Strategies and Global Perspectives,Universiti Sains Malaysia Press and National Higher Education Research Institute, Penang, Malaysia, 2013. Translated by permission of Jim Dator.

(特に注記のない画像は筆者撮影)