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なでしこリーグ最年長ゴールを1カ月で2度更新、語られる逸話は数知れず。FW荒川恵理子が輝き続ける理由

松原渓スポーツジャーナリスト
40歳304日の最年長ゴールを更新した荒川(右/写真:keimatsubara)

 日本女子サッカー界にまた一つ、新たな記録が生まれた。

 2020年8月29日にNACK5スタジアム大宮で行われたなでしこリーグ2部第7節。ちふれASエルフェン埼玉がバニーズ京都SCを2-1で下した、この試合で決勝ゴールを決めたのは、40歳のFW荒川恵理子だ。2年前に自身が作った記録を更新し、8月9日の第4節で40歳284日の最年長ゴールを打ち立てたレジェンドは、わずか20日後に再び記録を更新した。

 60分にピッチに立つと、相手DFとの駆け引きを重ね、72分に右サイドからの鋭いクロスを右足で合わせてゴールネットを揺らした。

「がんちゃん、ナイス!!」チームメートの声がピッチに響く。

 “がんちゃん”は、実家のラーメン店「元祖札幌や」から付けられた愛称だ。日本女子代表が「なでしこジャパン」の愛称で親しまれるようになった2004年から続けているトレードマークのアフロヘアーは今も健在。その髪型のせいか、それとも放つオーラゆえだろうか。発表されている166cmの長身は、もっと高く見えた。

ゴール後、駆け寄ったチームメートの祝福を受ける(写真:keimatsubara)
ゴール後、駆け寄ったチームメートの祝福を受ける(写真:keimatsubara)

【荒川伝説】

 荒川が残してきた「伝説」は、硬軟含めて数多くある。

 たとえば、2006年頃になでしこジャパンでの身体測定で、垂直跳びなど、ジャンプ系の数値を測ったところ、男子日本代表の平均値を超えていたエピソードは語り草となっている。その話を荒川本人に確認してみると、「そうなんですよ。男子フランス代表の平均値にはちょっと及ばなかったんですけどね」と、当時のチームメートとのやり取りを交えて話してくれた。

 特徴的なアフロヘアーと、その身体能力を生かした外国人選手にも劣らないダイナミックなプレーが、荒川の代名詞だった。

「若い時は筋トレが好きでよくやっていたけど、30歳を超えてから、どうやって全身を使うかという方にシフトしました」という。

 しなやかな動きのプレーは多くなったように見えるが、筋力も維持している。7月に練習を取材した際、体幹やパワーを鍛える3kgのメディシンボールを空に向かって投げる時、荒川だけはまったく重さを感じさせずに、軽々と空に向かって投げていた。

 マッチアップする選手が口を揃えるのは、荒川の身体の強さだ。「がんちゃんをマークしていると、お尻でモモカン(太ももの打撲)されるから嫌だった」と、相手ディフェンダーから言われたこともあるという。

「がんのエピソードはいくらでもありますよ」。弾んだ声で語ってくれたのは、6度のW杯と4度の五輪に出場し、日本女子サッカー界を長く牽引した澤穂希さんだ。97年に荒川が下部組織のメニーナから読売西友ベレーザ(現日テレ・東京ヴェルディベレーザ)に昇格してから、ともにリーグ4連覇や皇后杯3連覇を達成。代表でもW杯と五輪を2度ずつ戦った。

「がんは、その存在自体が強く印象に残る選手です。髪型も目立ちますし(笑)。いわゆるFWの自由な雰囲気があって、身体能力が高く、日本の女子ではなかなかいないタイプじゃないでしょうか。2004年に(アテネ五輪アジア予選で)荒川が先制点を決めて勝った北朝鮮戦は、よく覚えていますよ。普段はムードメーカーで、イベントや誰かの誕生日にはがんと柳田美幸(現・浦和レッズレディースフロント)が中心になって、練習の後に遅くまで、若手と一緒に踊りや出し物の練習をしていましたよ(笑)。年下の選手からすごく慕われるし、年上にとってもいじりがいがある。サッカーをする中で負けず嫌いの気の強さはあるけれど、いつも穏やかで優しくて、怒ったのを見たことがないです。

 私も30歳を超えてからやれることが増えていったから、きっと今、本当にサッカーを楽しんでいると思います。ただ、私は37歳まで現役でしたけれど、(歳を重ねるごとに)心と体を一致させ続けることが簡単ではなくなってくる中で、彼女はそれをさらに3年超えて、今も試合に出ている。本当にすごいし、尊敬します。現役にこだわって、やれるところまでやって欲しいですね」

【サッカーが面白くなり始めた30代】

 1992年、12歳でメニーナに入団し、キャリアをスタートして29年間。これまでの転機として、荒川は2つのことを挙げている。一つは、サッカーとの向き合い方の変化だ。

 原点は、メニーナ1年目の監督だった松田岳夫監督(現福島ユナイテッドFC監督)から、ワンツーパスやミニゲームなどでの遊び心を教えてもらったことだ。フォワードとしてそれを大切にしていたが、足が速くパワーもあったため、感覚だけでプレーすることが多く、ベレーザに昇格した高校3年生の時に大きな壁にぶつかった。

「ベレーザに上がってから、パスをもらえなくなったんです。メニーナでやっている時は何もしなくてもボールをもらえていたので、タイミングやボールをもらうためのアクションがわからず、味方から『いつ欲しいかがわからない』と言われました。特に2005年に松田監督がベレーザの監督に就任されてからはよく怒られて、『裏に抜けろよ!』と言われて、抜けると今度は、『パスを受けろよ!』と言われて……。求められるレベルが高く、自分の中では頭の整理がつかなくて怒られてばかりでした。『サッカーが好きですか?』と取材で聞かれた時に、心から『好き』と言えませんでした」

 代表選手を何人も育てた松田監督の要求が高かったことは想像に難くない。チームメートも代表クラスの選手が多く、オフザボールの動きにも質の高さは求められただろう。だが、感覚だけでプレーする荒川には簡単なことではなかったようだ。感覚的なプレーは再現しにくい。

 それでも、ゴール前で相手のマークを外すプルアウェイの動きなどシンプルな基本動作を身につけ、並外れた身体能力を生かして03年には21試合で18ゴールを決めている。代表にもコンスタントに呼ばれるようになり、輝かしいキャリアを築いた。

 04年のアテネ五輪アジア予選で難敵だった北朝鮮から値千金のゴールを奪い、五輪本番では強豪スウェーデンから得点。08年の北京五輪ではベスト4の快挙に貢献した。地上波で中継されたそれらの活躍がアフロヘアーとともに鮮烈なインパクトを与え、荒川はなでしこジャパンのシンボルの一人になった。

 課題は変わらなかったが、09年に開幕したアメリカ女子サッカーのプロリーグ、FCゴールド・プライドへの半年間の挑戦を経てベレーザに復帰した後、2010年に浦和レッズレディースに加入してから一気に視界が開けた。

サッカーをより深く理解し、新たな感覚を得てプレーを楽しんでいる(写真:keimatsubara)
サッカーをより深く理解し、新たな感覚を得てプレーを楽しんでいる(写真:keimatsubara)

「(浦和)レッズで、ビルドアップの時の立ち位置とか裏を取るタイミングなど、以前、松田監督が言っていたことが一気にわかるようになったんです。環境が変わって、『自分がこのチームを強くしたい』と、自分自身の意識が変わったからかもしれません。それで、松田さんにまたサッカーを教わりたいなと思うようになり、13年にエルフェンの監督になられたことで実現しました。特に、2年目の14年は『ピッチ上でみんなと繋がっている』という感覚を持つことができて、本当に楽しかったですね。もし早く引退していたら、心からサッカーが『好き』と言えないまま終わってしまったと思います。長く続けられたからこそ、サッカーの楽しさがさらにわかるようになりました。その状態で当時のベレーザの仲間達ともう一度プレーしてみたかったですね」

 その時期をともにしたのが、昨季終了後にエルフェンで現役を引退し、今は下部組織の指導者をしている伊藤香菜子さんだ。同じメニーナ出身で、荒川の4年後輩にあたるが、30代に入ってから、荒川が最も長く時間を共有した選手だろう。2人のパス交換には阿吽の呼吸と、たしかな意図があった。

「がんちゃんとは、サッカーについての会話を尽きることなくしました。家が近いので、よく練習帰りの電車や車の中で話をしたのですが、もっと話したいのに降りないといけなくて、『じゃあ、また明日ね』ということはしょっちゅうでした。長い付き合いのなかで印象的なのは、どんな時でも淡々とグラウンドに立ち続ける、その背中です。ケガで思うようにプレーができない時も、出場機会に恵まれない時も、近くで見てきました。がんちゃんは準備するんですよね、怠ることなく。振り返ると、愚痴は聞いたことがないです。『やり続けるしかないんだよ、その先にしか道はないんだよ』と、いつも教えてもらっていた気がします。

 昔も今も変わらず、がんちゃんの中にはプレーしていて、『嬉しい、楽しい、悔しい』が当たり前に存在し続けているんだと思います。余計なものが混じっていないそれらの感情を、何歳になっても真っ直ぐ抱ける。がんちゃんと交換するワンツーは最高に楽しかったです」

【ケガを経て変化した身体との向き合い方】

 荒川が挙げたもう一つの転機は、度重なるケガだ。

 脱臼癖があった肩を2001年に手術したが、復帰して1カ月後にGKとの接触プレーで右脚すねを開放骨折する大ケガを負った。医者から「足を切断するかもしれない」と言われた選手生命の危機を乗り越え、1年かけてリハビリを終えてピッチに立つと、今度は筋肉系のケガに悩まされた。

「当時はケガを繰り返していたので、長く現役でプレーができるとは思っていなかったです」

 右脚にプレートを入れ、左肩にはボルトが入り、可動範囲が制限された。

 悲劇が襲ったのは2011年だ。ドイツ女子W杯4カ月前のアルガルベカップ後、左脚すねに激痛が走った。診断結果は疲労骨折で、傷痕はなんと7箇所に及んだ。08年の北京五輪も足裏の肉離れなどで不完全燃焼に終わった中、11年のW杯ではコンディションを整え、サッカーをより深く理解しはじめた中で世界に挑戦できることを楽しみにしていた。

 そして、この大会でなでしこジャパンは世界一に輝いた。

「ケガをしたことで苦しかったり辛かったり、いろいろな思いを味わわせてもらって。12年のロンドン五輪を目指して、身体を見直すきっかけを与えてもらったと思って、食事面もより深く考えるようになりました」

 

 自分で行動を起こし、断食にチャレンジするなど様々な方法を試した。体質に合う食品を集中的に食べ、新鮮な野菜や果物の酵素を生かした人参ジュースを毎朝飲み、体質に合わない小麦粉や乳製品は控えた。

「疲労骨折をしたことで身体を見直すきっかけを与えてもらって、その後も長くプレーができています」

 年齢を重ねるごとに変化する身体と向き合い、ケアやコンディション調整も丹念に積み重ねてきた。現在、エルフェンでコーチを務める山郷のぞみさんは、荒川のストイックな一面をよく知る一人だ。

「怪我をしない身体づくりのための食事管理など、摂取するものに強いこだわりがありますね。自分をきちんと管理しているから、体もそうですし、見た目の若さも維持しています。人としても経験豊富だし、ストレスをうまくコントロールできているなと思います」

 GKとして通算326試合のリーグ最多出場記録を持つ山郷さんは現役時代を振り返り、「記録は自然とついてくるものでした」と教えてくれた。そして、荒川の特別な才能をこう表現した。

「がんちゃんの年齢でシーズン前に、『さぁ今年一年頑張ろう』とモチベーションを維持することは大変なことです。今も毎年、そのスタートを普通に迎えられているから、まだまだいけるだろうなと思います」

 8月9日の試合で最年長ゴールを更新した時、荒川はチームスタッフからそのことを告げられるまで、気づかなかったという。サッカーをより深く理解し、準備を怠らず、表現することを楽しむーーその瞬間の積み重ねが、さらなる記録を導くだろう。

「体が重いとかボールが足につかない日もありますが、今は、『こんな日もあるよね』ぐらいに思ってやっています。今年の目標は『がむしゃらに楽しむ』。結果も大事だけれど、仲間と呼吸を合わせて点を取る瞬間がやっぱり一番ですね」

 サッカーのことを話している時と同じぐらい、仲間との思い出話や、愛犬のユッケの話にも熱がこもった。当時の状況をリアルに再現しながら楽しいエピソードをいろいろと披露してくれ、聞き入っていたら1時間があっという間だった。まずは自分が楽しみ、相手を楽しませることにも手を抜かない。

 衰えることのないその情熱で、今もJ1でプレーを続ける53歳の三浦知良選手のように、可能性を示し続けてくれることを願ってやまない。

“荒川伝説”の続きが楽しみだ(写真:keimatsubara)
“荒川伝説”の続きが楽しみだ(写真:keimatsubara)
スポーツジャーナリスト

女子サッカーの最前線で取材し、国内のなでしこリーグはもちろん、なでしこジャパンが出場するワールドカップやオリンピック、海外遠征などにも精力的に足を運ぶ。自身も小学校からサッカー選手としてプレーした経験を活かして執筆活動を行い、様々な媒体に寄稿している。お仕事のご依頼やお問い合わせはkeichannnel0825@gmail.comまでお願いします。

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