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トラス前首相を辞任に追い込んだ「トラスノミクス」の大誤算(上)

増谷栄一The US-Euro Economic File代表
10月20日、経済政策の失敗で辞任を表明したトラス前首相=英スカイニュースより

英国のトラス前首相の成長ダッシュ戦略、いわゆる、トラスノミクスは450億ポンド(約7.5兆円)もの大規模減税による景気刺激が柱だったが、財源の裏付けがなく、国債増発に頼ったため、国債市場の暴落(長期金利の急上昇)と英ポンドの急落を引き起こし、大誤算に終わった。「市場の力」に屈した形で、幕引きとなった。英国メディアは一斉にトラスノミクスを「残念な政策」と報じた。

トラス前首相はクワーテン前財務相の解任(10月13日)によって金融市場の混乱を鎮静化しようとしたが、それも裏目に出て、翌14日には30年国債の利回りは3%台から5%を突破、市場のパニックはさらに勢いを増し、トラス前首相は自ら墓穴を掘り、就任後わずか45日間であえなく表舞台からの退出を余儀なくされた。

大盤振る舞いの財政膨張派のトラス前首相からバトンを受けた、スナク新首相はハント財務相との集団指導体制で、「トラスノミクスの間違いを正し、経済危機からの脱出を目指す」と、首相就任演説で述べたが、スナク政権は前首相とは真逆の財政緊縮政策に大きく舵を切る。英国の政財界は新政権が果たして財政健全化と経済成長、エネルギー料金の急騰と物価高に直面している年金生活者など社会的弱者の救済を両立できるのか、肯定的な見方の反面、否定的な見方も浮上してきている。

過去に遡ると、経済危機を脱出するため、トラス前首相は保守党のマーガレット・サッチャー元首相(在任期間1979-1990年)の急進的な経済政策(サッチャリズム)を信奉し、サッチャー首相が大規模減税により英国の英国病と言われた厳しい景気低迷を見事に克服した例にならって、トラスノミクスを発想した。サッチャリズムの真骨頂は供給サイドに着目し、企業や家計の減税により、供給力を強化し経済成長を達成するというサプライサイド経済学だ。

米経済情報専門サイトのマーケットウォッチのジャミー・チザム記者(ロンドン特派員)は、トラス氏が首相に就任した9月5日のコラムで、「トラス氏はしばしばサッチャー元首相と比較されるが、トラス氏は、『鉄の女』(サッチャー元首相)のような市場を動かす影響力を持ちたいと望むだろう。サッチャー氏によるインフレ鎮圧、供給サイドの改革、資産市場の規制緩和は間違いなく現代の最高の市場パフォーマンスを演出した。在任期間中のFTSE総株式(オールシェア)指数は271%上昇した」と、トラス首相への期待を込めて論評した。

しかし、米国のノーベル賞経済学者でコラムニストとして著名なポール・クルーグマン氏(現在、ニューヨーク市立大学大学院教授)はすぐにトラスノミクスに噛みついた。ニューヨーク・タイムズ紙の9月23日付コラムで、同氏は、トラス前首相の大規模減税を盛り込んだ「ミニバジェット」(補正予算)について、「今の英国経済は、米国経済と同様、深刻な過熱状態にあり、強い内需によってかなりのインフレが引き起こされ、(ウクライナ戦争の勃発以降)エネルギー危機にも直面、英国経済は今後数カ月、または数年のうちに困難な時期を迎えると予想していた」と指摘。その上で、「しかし、大半の人が予見していなかったのは、(トラスノミクスは)ゾンビ思想の経済政策だった」と痛烈に批判した。

クルーグマンはレーガノミクスに代表され、高額所得者への減税の効果が貧困層にも波及していくという供給サイド経済学の理論による経済成長を主張する、保守派の何の効果もない経済思想を生きる屍のゾンビに例えて忌み嫌う。同氏は、「トラス氏が信じた、富裕層への減税(最高税率45%を廃止、40%に引き下げ)が経済成長を強力に促進するという命題には何の証拠もない。成長促進にはならないという過去の教訓があるにもかかわらず、トラス氏らは金持ちへの減税が英国経済に大きな影響を与えると主張した。しかし、私も、金融市場も、そうなるという保証を信じなかった。英国はサッチャー元首相以降、欧州各国に比べ税率が低くなっている。金持ちへの減税は答えにはならない」と断じ、トラス前首相はゾンビ経済学を信じ、その結果、市場の信頼を失ったと批判する。

IMF(国際通貨基金)もトラスノミクスによる大規模減税の効果に懐疑的だった。IMFによると、2022年の英国の経済成長率は3.6%増(その後、英国立統計局(ONS)が4.1%増に修正)と、G7(先進主要7カ国)中、トップとなるが、「大規模減税をしても2023年はわずか0.3%増に急減速、G7中でも最下位クラスになる」と警告した。IMFのチーフエコノミスト、ピエール・オリヴィエ・グーリンチャス氏は10月11日付のテレグラフ紙で、「英国のインフレ率は来年も9%上昇と、主要先進国で最高の水準にとどまる。クワーテン財務相(当時)の税制政策は、彼が方針を変えない限り、政府の借り入れのコストを押し上げる」と指摘している。

また、英紙ガーディアンのグレイム・ウァルデン経済部記者は10月20日付の記事で、「トラス首相(当時)はモーロン(Moron:愚かな人たち)・リスクプレミアムと呼ばれる状況を招いた」と批判した。これは愚かな人たちが経済政策を運営したために、国債が暴落し、その結果、債券利回りが急騰、ポンドが下落。その結果、英国のリスクプレミアムが高まると言う現象だが、トラスノミクスはまさにその通りだった。(『下』に続く)

The US-Euro Economic File代表

英字紙ジャパン・タイムズや日経新聞、米経済通信社ブリッジニュース、米ダウ・ジョーンズ、AFX通信社、トムソン・ファイナンシャル(現在のトムソン・ロイター)など日米のメディアで経済報道に従事。NYやワシントン、ロンドンに駐在し、日米欧の経済ニュースをカバー。毎日新聞の週刊誌「エコノミスト」に23年3月まで15年間執筆、現在は金融情報サイト「ウエルスアドバイザー」(旧モーニングスター)で執筆中。著書は「昭和小史・北炭夕張炭鉱の悲劇」(彩流社)や「アメリカ社会を動かすマネー:9つの論考」(三和書籍)など。

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