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英国のメイ首相、EU離脱協議の戦略決定で“EU残留の馬脚”現す(下)

増谷栄一The US-Euro Economic File代表
メイ首相のチェッカーズ合意に反対して7月8日に突然辞任したデービスEU離脱担当相(左)
メイ首相のチェッカーズ合意に反対して7月8日に突然辞任したデービスEU離脱担当相(左)

EU(欧州連合)離脱協議で英国が陥る危険性とは何か。英紙デイリー・テレグラフで30年超のベテラン国際経済担当エディターのアンブローズ・エバンス・プリチャード氏はテリーザ・メイ首相の離脱方針白書の問題点を次のように解説する。

(1)白書では英国はEUとの財(製品等)の貿易で共通ルールに従うとしているが、これは言葉のまやかしにすぎない。なぜなら、共通ルールとはEUルールだからだ。

(2)英国は環境と雇用、社会政策、消費者保護、国庫補助(保護貿易主義)、市場競争の分野でEUの法律に恒久的に従う。

(3)貿易などの分野に関する紛争処理は新設される英EUの合同委員会で対応するが、最終的には欧州司法裁判所(ECJ)に送付される。これは欧州司法裁判所(ECJ)が最高裁判所として英国の法律や社会行動に関するトラブルを優先的に統治することを意味する。英法曹協会の勅撰弁護士(QC)であるマーチン・ハウ氏は自身のツイートで「世界5位の経済大国である英国がなぜ、EU離脱後にこのようなECJの統治を受けなければならないのか意味が分からない」という。

(4)EU加盟27カ国が英国との貿易協定を拒否する可能性があるといわれた、非回帰条項(離脱以前の状態に戻ることを禁止する規定)に英国が従う。この条項はEUのブレグジット首席交渉官であるミシェル・バルニエ氏が主張していたもので、英国の今後の新政権がEUよりも英国に外国投資を誘導させるため、独自に課税措置や医療、環境、雇用、社会政策に関するルールや基準を定める際、EUのルールや基準を下回らないよう英国を拘束するもの。これは英国が競争力を持つことを阻む法的メカニズムで、離脱支持派のリーダー、マイケル・ゴーブ環境相は4月に議会で「同条項はEUが英国の国内法を統治する権限を事実上与えるもので統治を取り戻すという考えに反するものだ」と批判した。しかし、同相は手のひらを返しメイ首相のチェッカーズ合意を支持している。

(5)白書ではEU競争法(独占禁止法)への全面服従を表明している。これは英国が産業保護のための国庫補助でEUルールに従い、これまで通り独禁法に反する行為や合併に関するルールを維持することを意味する。ロンドン大学のコスタス・ラパビタス教授は「これは最大野党の労働党のジェレミー・コービン党首が掲げる、主な産業の国営化や国による資材調達、国庫補助などの経済政策と相容れないもので、政府提出の貿易法案は議会で保守党の離脱派グループから抵抗を受け、野党・労働党からも支持されないことになる。労働党が英国経済を社会主義の方向に変革しようとするなら、(むしろEUに残留せず)、WTO(世界貿易機関)ルールの下にいた方がまだ政策実現の裁量度が高い」と指摘するものだ。

(6)白書では欧州司法裁判所(ECJ)の権限は財と農産物に対する共通ルールに関するトラブルと、摩擦の無い貿易を実現するために必要とされる分野をカバーするとしているが、これは粉飾もいいところ。英サリー大学のサイモン・アシャーウッド教授は、「ECJの権限は輸出産業に限定されない。経済全体に及ぶことになる。財とサービスを全く異なる基準で規制できるものだろうか。財に関する労働法とサービスに関する労働法に分けることは稚拙としか言いようがない」と批判する。

(7)英国はEUの17万件もの法規範からなる指令や規則の大半に署名することになる。理論的にはEU離脱法によってこれは無効にすることができるが、白書ではこれらのEUの法規範を「所定の位置に置く」(無効にしない)としている。これらの法規範の一部は仮想通貨を支えるブロックチェーン(分散型デジタル台帳)技術などの新技術と互換性のないものが含まれているため、ブロックチェーン技術の振興を損なう可能性がある。

(8)白書では、「英国が将来、EU規則とは違う新しい法律を制定することができる」としているが、実際にはスイスの例のように、2014年2月の国民投票でスイスがEUの4原則の一つである「人の移動の自由」に反対し移民制限を決定した際、また、2017年2月の国民投票でEUの法人税改革を拒否した際もEUはスイスを税制に対し非協力的な国と認定し、EU市場へのアクセスを制限したため、結局、スイスはEUに屈服させられている。アシャーウッド教授は、「英国がEUとの合意に少しでも従っていないとEUに疑われた場合、EUはスイスと同じ制裁を英国に下す可能性がある」と指摘する。

(9)EUルールを受け入れることによって、英国はEUの支配から逃れることができず、EUに次いで貿易額が大きい米国やTPP(環太平洋経済連携協定)などEU以外の外国との意味のある貿易協定を結ぶチャンスが大幅に低下することになる。

(10)白書では英国はEUとの間で、例えば、自動車の型式認定などのように製品の基準が異なる場合でも双方の製品の適正評価を相互承認(Mutual Recognition)するシステムを継続するとしているが、EU以外の外国との財の貿易ではEUとの相互承認の条件を変更してまで積極的に求めないとしている。相互承認は、国の間で基準や手続が異なる場合でも、輸出国側の政府が指定した第三者機関の適合性評価機関(CAB)が輸入国側の基準などに基づき適合性評価を行った場合に、輸入国側がその評価結果に対して国内で実施した適合性評価と同等の保証を与えるもの。白書では財についてはEUと相互承認を今の条件で継続するとしているため、中国などの有望な貿易相手国に対し、英国の魅力的な財市場への全面アクセスを与えることが難しくなる。そのため、英国の中国へのサービス輸出が阻まれることになってしまう。

(11)白書では離脱後の金融サービス(英国でEUの顧客の1.4兆ポンドの資産が運用されている)の取り扱いに関する新しい経済協定や新しい金融市場規制に関する協定を結ぶとしている。EU単一市場への自由なアクセスが可能になる、いわゆる相互承認のパスポート・ルール(単一免許でEU域内での営業が可能な制度)は求めない。欧州議会は4月に、サービスの提供に関する国際取り決めや規則の同等性(Equivalence)を認めるEU決定がなされていない場合、英国の金融機関がEUに金融サービスを提供するためにはEUに移転しなければならないという判断を示している。このため、英国の金融機関がEUにある子会社に従業員をシフトしないで済むためには規則の同等性の適用範囲をもっと拡大できるかが焦点となる。

(12)白書では自動車や航空宇宙、化学など貿易分野(英国の対EU輸出額のわずか約8%が財。残り92%がサービス)の貿易問題の解決が中心となっている。また、白書ではEUの対英貿易黒字額が財で950億ポンドの大幅黒字となっているが、英国が強いサービスの大幅黒字の是正をEUが求めないことを条件に大目に見ている。

(13)白書では英国は欧州閣僚理事会での拒否権行使の権利を奪われる一方で、EUが引き続き英国の諸政策や欧州議会の英国議員、ECJの英国裁判官をコントロールすることを認めている。

(14)白書では英国はEFTA(欧州自由貿易連合、ノルウェー、アイスランド、リヒテンシュタイン、スイスの4カ国で構成)がEUと結んでいるEEA(欧州経済領域)のようなFTA(自由貿易地域)を設定することを提案しており、これは英国とEUの将来の関係(包括貿易協定の枠組み)を通して、農産物を含む財に関するEUルールの合致を維持することによって、英国とEUがともに、北アイルランドとアイルランド共和国との国境問題の解決(ハードボーダー回避)の約束を果たすことを確実にするとしている。この共通ルールは英国議会で法制化される。

しかし、英与党・保守党の最強の離脱派グループで60人の陣傘議員からなるブレグジット欧州調査グループのジェイコブ・リースモッグ代表は7月16日、離脱方針白書の基になったチェッカーズ合意を潰すため、政府が提出予定の貿易法案に反対する4本の修正案を下院に提出し、可決してしまったことはメイ首相にとって最大の誤算となった。

これは修正案のうち、「(北アイルランドと英国本土を隔てる)アイリッシュ海に関税検問所を設けることを違法にする」というもので、この修正案は、EU離脱後、北アイルランドにEUルールを合致させることでハードボーダーを避けるという解決方法(バックストップオプション条項)を不可能にするものだ。この条項に従えば北アイルランドにEUルールを適用すれば、今度は北アイルランドと英国本土の間にボーダーを設けなければならなくなるが、ボーダーを設けることが違法になれば、南北アイルランドにEUルールを適用できなくなるという論法だ。それだけに離脱派はこれで政府の離脱方針白書はEU協議で拒否されるのは確実になったと判断している。

英国は7月26日、この白書をEUに提示したが、その結果、ディールになっても、また、ノーディールになっても英国の議会ではいずれの最終合意も否決される可能性が高い。そうなれば、大和キャピタル・マーケッツ・ヨーロッパ(本部・ロンドン)が4月に予想したシナリオのように、離脱の是非を改めて問う議会解散・総選挙か、2度目の国民投票を行うかの2者択一となる公算が大きい。EUが白書を拒否してノーディールになれば残留派の保守党が一斉に反対する一方で、ディールになっても今度は離脱派と労働党が反対に回るのでいずれにせよ議会を通過しないからだ。(了)

The US-Euro Economic File代表

英字紙ジャパン・タイムズや日経新聞、米経済通信社ブリッジニュース、米ダウ・ジョーンズ、AFX通信社、トムソン・ファイナンシャル(現在のトムソン・ロイター)など日米のメディアで経済報道に従事。NYやワシントン、ロンドンに駐在し、日米欧の経済ニュースをカバー。毎日新聞の週刊誌「エコノミスト」に23年3月まで15年間執筆、現在は金融情報サイト「ウエルスアドバイザー」(旧モーニングスター)で執筆中。著書は「昭和小史・北炭夕張炭鉱の悲劇」(彩流社)や「アメリカ社会を動かすマネー:9つの論考」(三和書籍)など。

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