「あの改革は日本人社員がやった」、塙氏は語気を強めた
日産自動車をV字回復に導いたといわれたカルロス・ゴーン社長の「日産リバイバルプラン」(NRP)が注目を集めていたとき、たぶん当時は会長兼最高経営責任者に退いていた塙義一氏にわたしは、「やっぱり改革は、日本人にはできないことだったんですかね」と訊いた。すると彼は、「そんなことはありません。NRPだって、日本人の社員たちが中心になってつくったものです。改革をやるのは、日本人なんですよ」と語気を強めて言った。
この言葉をきっけに、わたしは『ゴーン革命と日産社員』(小学館文庫)を上梓した。あの塙氏の言葉がなければ、日産のV字回復はゴーン氏だけの功績、という幻想にわたしもふりまわされていたかもしれない。
その塙氏が、12月18日に亡くなっていたことが22日にわかった。
東大卒業後の1957年に日産自動車に入社に、米国の工場開設や販売拡大に力を注ぎ、1996年に社長に就任した。しかし当時の日産自動車は約2兆円とい膨大な有利子負債を抱え、まさに経営危機の状態だった。それを建て直すために、1999年に仏ルノーとの提携を決断し、翌年にカルロス・ゴーン氏を社長に迎えて、自らは退いた。誰も想像しなかった大手企業でさえ海外企業の傘下にはいる状況がありうる、という危機感を日本に企業は強めるきっかけともなった。
取材していくと、塙氏の言葉どおり、NRPを策定し実行していったのは日本人の社員だった。その牽引的役割をはたしたのが、従来の部署を横断する人事で人を集め、日産自動車の問題を洗い出し、それを解消する改革を推し進めていったのは9つの「クロス・ファンクショナル・チーム(CFT)」であり、それを率いたのは9人のパイロットと呼ばれる若手社員だった。彼らはしがらみにとらわれない、社内でも「変わり者」の面々だった。ゴーン氏の最大の功績は、このCFTを組織し、9人のパイロットを抜擢したことだろう。その物語を、前述の拙著でまとめた。
このCFTは、ゴーン氏が期待した以上の成果をもたらした。だから、日産自動車の奇跡ともいわれたV字回復が実現したのだ。それはルノーとの提携という、大手企業の経営者としては苦渋の決断を行った塙氏がいたからこそ現実のものとなったのだ。
塙氏のご冥福をお祈りします。