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マツコ・デラックスはなぜ収録中にスタッフを叱るのか?

ラリー遠田作家・お笑い評論家

マツコ・デラックスはテレビに出ているとき、しばしば現場にいるテレビマンに対して批判的な言葉を口にする。この手の「スタッフイジり」はバラエティ番組ではたまに見受けられるものだが、マツコほど頻繁に収録中にテレビマンに話しかけるタレントはいない。

話す内容も、「こういう企画をやっているからお前らはダメなんだ」というような、核心を突くような本気のダメ出しのようなものが目立つ。

マツコがテレビの中でテレビそのものを批判の対象としているこういう場面を見ると、私は1人の人物を連想する。コラムニストのナンシー関である。

マツコとナンシー関の共通点

ナンシー関は伝説的なテレビコラムニストである。2002年に亡くなるまで、週刊誌などでテレビに関するコラムを書き続けていた。鋭く、歯切れ良く、ユーモアと愛情に満ちた内容で読者からも絶大な支持を得ていたし、多くのテレビ業界関係者からも一目置かれていた。

同じくコラムニストという肩書きを持ち、女性芸能人を題材にしてコラムを書くことも多かったマツコは、しばしばナンシー関と比較されていた。

人並み外れた巨体、鋭い人間観察力、容赦ない毒舌とそれを和らげるユーモアなど、2人の間には共通点がいくつかある。ただ、その中でも最も重要な点は、彼女たちが古き良きテレビの世界に対して絶対的な憧れと好意を持っていたということだ。

巨体と女装という隠れ蓑

マツコには「テレビには普通じゃない人が出るものだ」という持論がある。圧倒的に美人であるとか、歌が上手いとか、しゃべりが面白いとか、普通じゃない才能の持ち主が出ているからこそテレビは面白い。テレビとは、異形の者たちが作り上げる究極のエンターテインメントでなければならない。

マツコ自身は「巨体」と「女装癖」という2つの目立った特徴を持ちあわせており、それらをパスポートとしてテレビの世界に足を踏み入れた。

もちろん、マツコのタレントとしての本当の強みは、知性と度胸とユーモアと、頭の回転の速さとトークの上手さである。ただ、それらの武器は誰にでも一目で威力がわかるようなものではない。彼女が最初に異形の人として認められたのは、ひとえにその見た目のためだ。

巨体と女装は二重の隠れ蓑になっている。どんなに厳しいことや鋭いことを言っても、肥満体の女装家の発言がまともに受け止められることはない。彼女はそれを逆手に取って、ほかのタレントよりも一歩踏み込んで、素直な思いや考えをぶつけていくようになった。それが評価されてじわじわと人気を伸ばしていった。

マツコがテレビで自分の意見を言うとき、よくよく聞いてみると、決して奇をてらった主張をしているわけではなく、大上段から正論を述べていることが多い。ただ、それが現代の視聴者にはきわめて新鮮かつ斬新に感じられる。なぜなら、そういうタレントがほかにいないからだ。

テレビのマーケティング志向の弊害

今の時代、バラエティ番組に出るタレントはあらかじめ役割を与えられていて、それに沿った発言をすることが求められている。「ブスキャラ」の女性芸人は美人なタレントに嫉妬しなくてはいけないし、頑固親父キャラのベテラン俳優は最近の若者のモラルの低下を嘆かなくてはいけない。

すべてのタレントが役割の決まったプロレスを演じているだけ。そうなってしまったのは、マーケティング的な番組作りが極限まで進んだからだろう。

時代が移り変わり、昔のように感性だけで番組作りをするテレビマンは少なくなった。わかりやすいキャラを演じさせる方が目先の視聴率は稼げる。

最近ではこのような傾向も変わってきているが、少し前まではテレビマンもタレントも視聴者も、誰もテレビにそれほど期待していなかったし、夢や幻想を持っていなかった。

マツコ・デラックスはそんな斜陽のテレビ業界に舞い降りた最後の救世主だった。ナンシー関という監視役を失った学級崩壊のクラスに現れたスゴ腕の新任教師である。

マツコは正しいテレビのあり方を身をもって体現している。女装の巨漢という異様な外見ではあるが、それ以外の部分はむしろ類を見ないほどまともだ。

いつも服装やメイクに気を使っていて、言葉遣いも丁寧だ。他人の心にズケズケと土足で踏み込んでいくようなイメージがあるが、よくよく観察してみると、目上の人に対しては敬語をきちんと使いこなしているし、ロケ先で出会う一般人にも優しい。

そのように彼女の立ち振る舞いがきちんとしているのは「テレビの中にいる人はテレビを見ている人に対して失礼のないように振る舞うべきだ」という義務感があるからだ。同じ信念を持つ黒柳徹子とマツコの気が合うのも当然だろう。

テレビへの深い愛情とノスタルジー

事あるごとに「ナンシー関が生きていたら何と言うだろうか?」などと口にする人はいまだに後を絶たない。そういう人には「確かにナンシー関さんは亡くなったが、今のテレビにはマツコさんがいるよ」と言いたい。

マツコ自身は「自分はナンシーさんのようにはなれない」という趣旨のことを語っていたことがある。しかし、その本質には似たものがある。どちらも異常にテレビが好きで、テレビに強い愛情やノスタルジーを感じているのだ。

活字の影響力が強かった時代に、週刊誌などの活字媒体を主戦場として、ナンシー関はテレビ業界の外側からテレビ批評をしていた。

一方、現在では、マツコ・デラックスという当代随一のテレビ批評家が、テレビの内側からテレビ批評を展開している。

マツコがテレビマンに対して言っていることは、ほとんどの場合、ただの正論である。いい加減な仕事をするスタッフがいたら、それがいい加減であることをごまかさずにきちんと指摘する。それは、世の中の人もそう思っているはずのことを代弁しているだけなのだ。

私自身もテレビの制作会社で仕事をしていた経験があるのだが、テレビ業界というのはいまだに浮世離れしたところがある。

それはいいことでもあるが、悪いことでもある。そんな業界人のかもし出す「嫌な感じ」が、ときどきテレビの画面を通して視聴者に伝わってしまうことがある。マツコはそれを決して見逃さない。そして、それが良くないことであるというのをはっきりと言う。マツコはそれを自分の使命だと考えているのではないか。

テレビ業界の内側からテレビ批評をする

ナンシー関は生前、自分がテレビに出ることを頑なに拒否していた。また、テレビタレントのような人とも付き合わないようにしていた。

そんなナンシーのスタンスとは違って、マツコはある時期からテレビに出始めた。それはマツコにとっても当初は「魂を捨てる」ような行為だったという。

しかし、マツコ自身は、意外なほどすんなりとテレビ業界に馴染んでいった。テレビ業界にいる人間の方が、出版業界にいる人間よりも付き合いやすいと感じたというのだ。出版業界の根底に流れているエリート主義、インテリ主義のようなものが、生来の「持たざる者」であるマツコには違和感があったのだろう。

私の実感としても、出版業界よりもテレビ業界の方がはるかに泥臭くドロドロした場所だと思う。そちらの方がマツコの肌には合っていたのだろう。

マツコは、もともとは魂を売りたくないと考えていたが、そんなに大事にするほどの魂でもないな、と思い至った。そして、テレビに出るからにはスタッフの期待に応えたいと思うようになり、真面目に仕事をするようになった。

マイノリティとしての自分を捨てたわけではない。ただ、そういう気持ちさえ心の中に持っていれば平気、というふうに割り切れるようになったのだ。

テレビ業界の外側からテレビ批評を続けていたナンシーと志は同じだ。マツコは内側で戦う覚悟をした。そして、戦う意志はいまだに捨てていないように見える。テレビ業界はマツコに救われたし、今でも救われ続けているのだと思う。

作家・お笑い評論家

テレビ番組制作会社勤務を経て作家・お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など、多岐にわたる活動を行っている。主な著書に『お笑い世代論 ドリフから霜降り明星まで』(光文社新書)、『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと『めちゃイケ』の終わり<ポスト平成>のテレビバラエティ論』(イースト新書)、『逆襲する山里亮太』(双葉社)、『なぜ、とんねるずとダウンタウンは仲が悪いと言われるのか?』(コア新書)、『この芸人を見よ! 1・2』(サイゾー)、『M-1戦国史』(メディアファクトリー新書)がある。マンガ『イロモンガール』(白泉社)では原作を担当した。

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